第二話 「カード・バップ・テキストロジィ」
俺は映画が好きだ。三度の飯よりも、映画が好きだ。
特に、ジャンルは固定せず、なんでも観る。
ただ、強いて言うなら、洋画よりも、邦画のほうが好きだ。
日本の映画に限って言えば、まだ観ていない映画のほうが少ない。だから当然、映画館にもよく行く。週に三回くらいのペースで映画館で映画を観る。
そんなにも映画が好きなので、将来の夢は、映画の評論家になることだ。
まぁ、もう三十代に近いけれど……。でも夢は諦めない。
まぁ、生活も……自分ひとりでは生活していないけれど……。いわゆる『ヒモ』ってやつだけど……でも、でも!夢を諦めるつもりはない。
評論家になって、有名になって、テレビに出て、雑誌のインタビューにもでて、そうすれば、きっとヒモでなくなる日も近いだろう。きっと、大丈夫だろう。だって俺は、こんなにも映画が好きなんだから。
その日も、俺は、いつものように映画館に映画を観に行った。
俺の彼女も一緒に連れて行こうと思った。
俺の彼女は、特に映画が好きなわけではない。
けれど、俺はヒモなので、映画を観るのに金を払ってくれるヤツが必要なのだ。
言わば彼女は、俺の財布だ。
なんにも言わないで、金を払ってくれる、俺の財布だ。
だってしょうがないじゃん。
ナイターで安くなってから観るのも悪くはないが、でもやっぱり、昼間の時間に堂々と映画を観たい。
それが人情ってもんだ。
そして、映画を観るなら、ポップコーンでもつまみながら冷えたコーラを飲みながら、観たい。
それがセオリーってもんだ。
まあ、そんなわけで、彼女も一緒に映画に連れて行こうと思った。
俺はすぐに彼女に連絡を入れた。携帯電話(ちなみに、この携帯電話の使用料金も、俺は俺の彼女に支払わせている)でメールを打った。
五分と立たずに、返信が来た。
いいよ!私もあーくんとでかけたいと思ってたから。
待ち合わせは、いつものショッピングモールの入り口でいいのかな?
すぐに行くね!
お金のことは気にしないでね!私が払うから!
追伸 あーくん。大好きだよ♡
うわこいつ寒いわ。
今どきメールでハートマークなんて使うか?
そう思ったが、いつものことなので俺は気にしないことにした。
それに金も払ってくれるし。別にいいか。
俺は電車に乗って、隣町まで行って、映画館の隣接するショッピングモールにやってきた。
さっきメールで約束した通り、ここの入り口で、彼女と待ち合わせだ。彼女を映画に誘うときはだいたいいつもこの場所で、待ち合わせる。
俺は左腕につけている、以前に彼女に買ってもらった腕時計をちらっと見た。約束の時間に三十分ほど遅れている。
しかし別段急ぐこともなく、たらたら歩いて向かった。別にこんなことで気分を損ねる彼女じゃなかったからだ。
(因みに俺の腕時計は、少々変わった作りをしている。現在の時刻と、今いる場所の気温、それから湿度を正確に測ることができる)
ショッピングモールの入り口の、大きな柱の傍らに、彼女はちょこんと待っていた。
顔は控えめに言っても、ちょっとしたアイドル並みに可愛いのだが……黒の厚ぼったいセーターに、ベージュ色の地味な長いスカート。
それに加えて陰気なくせ毛のロングヘアーと大きな黒縁メガネ。
ザ・地味な女の子って感じだ。
服装のセンスが全く無い。
しかし彼女は、こう見えても、実家が金持ちだ。確か父親が医者だとか弁護士だとか……。
だから当然、財布の中もパンパンだ。
まあそれによって発生する恩恵は、主に俺が受けているんだけどね。
あと彼女は、ウブだが、なかなかのプロポーションをしている。つまり四文字に言い換えれば、「エロい体」をしている。
今は厚ぼったいセーターなんか着ているから分かりづらいのだが、脱がせるとなかなかに、そそられるものがある。いわゆる「着痩せ」ってやつだ。それが俺が彼女を手放さない理由の一つでもある。
因みに、彼女の年齢は、人には言えない。内緒だ。当然俺は知っているが、それを言うのは憚られる。まあひとつ言えるのは。犯罪では無いということだけだ。だって確か、女子は十六歳で結婚できるからな。まあそれも、もう少ししたら法律(婚姻に於ける年齢に関する法律)が改正され、変わってしまうのだが……。
でもでも、犯罪ではない。そうとだけ言っておく。
「わりぃ。待たせたな」
別段悪びれず、俺は柱に佇む彼女に声をかけた。実際に、悪いなんて、一ミリも思っていない。
「あ、あーくん!いいのいいの!私、全然待ってないよ。いま来たところだよ。寧ろあーくんと会えて嬉しいから!帳消しだよ。前回会ったのは、いつだったっけ?確か今日みたいに、一緒に映画を観たんだよね。楽しみだなー。今日はなんの映画を観るの?」
「ああ、特にまだ決めてない。俺ぐらい映画が好きだと、観なきゃいけない映画の数も増えるからな。実際に現場に行って、適当に決めるんだ」
「へー、やっぱりあーくんは、カッコイイね!それとね、ちょっとね、今の話とは関係が無いんだけど……あーくんに大事な話があるんだ……。でもね!大丈夫!映画観終わってからでいいから。でもね、そのね、えっと……言いづらいんだけど、この話……ちゃんと聞いて欲しいな……大事なこと、ううん、すごく大事なことなんだ……」
「あ?なんだ?大事な話って?」
別段俺は特に何も気にせずに、そう聞き返した。
「うーんとね……。いや、また後で話したいな。だって今日は、二人の大切な日だもん!映画観て、楽しんでから、話そうね!」
そんな会話を交わしながら、隣接する映画館への道を二人で歩いた。
しかし大切な話ってなんだろう?俺にヒモの生活を止めて、働けとかそういう話か?めんどくせーな……。
彼女にはそういった、面倒くさいところがある。
こりゃ別の金になる女でも探すべきか……。
俺はそう考えた。
そう考えていたところで、映画館に到着した。
さて、今日はどんな映画を観ようか……。
辺りをぐるっと見渡して、面白そうな映画のポスターを探す。
すると、一つ、不思議な宣伝ポスターを発見した。
「なんだ?こりゃ」
その映画のタイトルは、「対話の可能性」というタイトルだった。
不思議な青いロボット?のようなものが描かれているポスターだった。幼い子どもが描いたような絵だが、どことなくアート性を感じる絵だ。
主演の俳優や女優の名前、或いはその映画を担当した監督の名前が一切書かれていない。
その代わりにこんな煽り文句が書かれていた。
登場人物及び主人公は、あなた方自身です。
とある閉鎖空間において、愛について対話を試みて頂きます。
この映画をご覧になればきっと、「真実の愛」がご理解頂けるはずです。
世知辛い世と存じます。
これもなにかの縁かと……。
なるほど、一切理解できない。
まあおそらく、こんな書き方をするのは、回りくどいがそういう演出なのだろう。
しかし気になることが、ひとつだけ、ある。
こんな映画、公開されていたか……?
いくらヒモで生活が成り立っている俺と言えども、日本国内の、邦画に関する知識はそこそこに有る方だ。
少なくとも俺の知る限りでは、この「対話の可能性」とかいう映画は、今までに一切の宣伝がなされていない。
ついでに言えば、先日スマホで見た、この今来ている映画館の放映作品に関する情報欄にも、この「対話の可能性」は載っていなかった。
今日から公開される映画なのだろうか……。
いや、だとしても、一切の宣伝を行わないのは考えづらい。
或いは素人やアマチュアが作った映画なのか?
いや、映画館で公開するくらいの作品だ。それも考えづらい。
だとすると……。
だとすると???
まあ、いいや。
あまりぐだぐだと考えてもしょうがない。
折角の機会だ、今日はこの「対話の可能性」を観てみよう。
俺は早速彼女に声をかけ、「対話の可能性」のチケットを二枚買ってくるように言いつけた。ついでに席は一番後ろの真ん中の席にするように命じた。
そして俺は、彼女からもらった、一枚の諭吉大先生の描かれたお札で、ポップコーンとキンキンに冷えたコーラを買った。
映画が放映される部屋は、通路の一番奥の、部屋だった。
入場すると、「対話の可能性」を観に来ているお客さんは、俺たちを含めて、七名しか居なかった。どうやら宣伝されていないだけあって、現段階ではかなりマイナーな映画作品のようだ。
部屋が暗くなって、映画が始まった。
洋椅子に座っているスーツを着た、痩せた中年男性が画面に現れた。
その男はゴホッと咳をした。そしてまるでこの場にいる全員に向かって言うように、話しだした。
「世知辛い世と存じます。今日はご足労頂き、誠にありがとうございます。これもなにかの縁かと……。さて、皆様。皆様には今から、愛について、対話を試みて頂きます。まあ、ひとつのゲームのようなものだと思っていてください。真実の愛に辿り着いたその時、あなた達はここから開放されます。逆に真実の愛にたどり着けなければ、あなた達は永遠に、ここから出ることが許されません。ゲームというものは、真剣にやってこそ面白いというものです。いくつかルールを設けましょう。其の一 一切のイカサマ行為は禁止です。皆様方がお持ちのスマートフォン及びそれに準ずるようなもので情報を得て、それを回答に使うのは禁止とさせて頂きます。もしこのルールを破った場合、時間が強制的にループし、最初からやり直しとなります。其の二 あまりにも抽象的な答えは、無効とさせて頂きます。あなた方には、「愛している」という言葉よりも愛を表現した言葉、或いは考えを悟ってもらわねばなりません。この答えを、単に「愛していると言う言葉を超えた愛している」だとか「究極の愛の考え」といった抽象的な言葉でお茶を濁すのは、全て不正解になります。其の三 ここでの愛についての対話における時間制限はありません。あなた方の命が絶えるまで、或いは絶えてもまた最初から、時間は無限回にループします。しかし、今回特別に、とある仕掛けを施して置きました。皆様がお気に召すと良いのですが……。其の四 一応この対話は、トランプで言うところの、ババ抜きのようなゲーム方式を採用させて頂いております。そのため、何もペナルティが無いと面白みに欠けてしまいますので、今回は特別に、バツゲームを用意しております。最後まで正解に至らなかった方お一人には、私から、ささやかなプレゼントがございます。どうぞお楽しみにしていてください……。其の五 このゲームは、愛についての対話を皆様にしていただくゲームでございます。ですので、ディスカッション、即ち皆様方で話し合って、答えを導き出すのは、ルール違反ではありません。其の六 先にも少し述べましたように、この対話は、早抜けゲームです。原則として、一度正解なされた方は、再びゲームに参加するのは禁止とさせて頂きます。それは、時間がループし、最初からやり直しになった場合でも適用されます。以上で説明は終わりになります。では、早速対話を始めましょう。皆様に問います。『愛している』と言う言葉よりも、愛を表現した言葉、或いは考えとは何でしょう?お答えください」
そこで部屋が明るくなり、映像はプツンと途絶えた。
スタッフロールも、エンディングテーマも無かった。
何だこれ?これが映画なのか?これじゃあ何も面白くないじゃないか。
いや、待て。そういう演出なのかもしれない。最近は、こういった、パット見では趣旨がわからない作品も増えていると聞く。この『対話の可能性』も、そういったアバンギャルドな映像作品なのかもしれない。とりあえずもう少し様子を見てみよう。
そこで俺は左腕の腕時計(正確にはそれに加えて、腕温度計アンド腕湿度計)を見て、現在の時間を確認した。
午後二時十五分だった。ついでに今いる部屋の温度は21℃だった。快適な温度だ。
しかしゆうに五分は経過したが、依然としてスクリーンにはなんの変化も現れない。やはりこれで終わりなのか?
もういいや。くだらない。帰ろう。どうせ俺の金で観た映画じゃないし。
そう思って俺は隣りに座っている彼女に声をかけた。
「おい。帰るぞ」
「え、もう?この映画、まだなにか続きがあるんじゃない?」
「そんな訳あるか。きっとくだらない、イタヅラかなんかだ。さっさとここを出て、従業員に文句言ってやる。そうじゃないと気がすまない」
「そ、そうだね。帰ろうか。それにしても、変な映画だったね」
「本当だよ。まったく……。こんな五分足らずのつまらない映像で、金を取るだなんて、どうかしてやがる……」
そう言いながら俺と彼女は席を立った。
早足で席と席との間の通路を進み、出口の扉に手をかけた。
しかし……。
あれ、おかしい。
扉が開かない。
なんなんだよ。この映画館。扉まで故障中なのか?
そう思って俺は、もう一つ有る、反対側の出口の扉まで歩いて行って、閉まった扉を開けようとした。
しかし、開かない。
またしても開かない。
俺は怒って、扉を強く蹴った。
しかし映画館の重厚な扉はびくともしない。
「ちょっと待て、これじゃここから出られないぞ……」
俺はそう彼女に言った。
出口はその二箇所しか存在しない。つまりこのままだとここから出ることができない。
「おい、やばいぞ、扉が開かない……」
先ほど俺が開こうとした反対側の出口でも、同じように、そう言う声がした。どうやら俺と彼女以外の観客も、出ようとして、同じ目にあっているらしい。
「どうしよう。私達、閉じ込められたの……?」
彼女も怖くなっているらしい。小さな肩が少しだけ震えている。
「だ、大丈夫だ。携帯電話があるじゃないか。これで外に連絡してみよう」
俺はそう言って、スマホの電源を入れた。そして110に電話をかけた(この映画館の電話番号を覚えていなかったのと、気が焦っていたので、つい110に電話してしまった)。
しかしダメだった。
「ダメだ……。なんでだ……圏外になっちまう……。ここは山奥じゃないんだぞ、圏外になるなんてありえない……」
もう一回電話をかけた。が、ダメだった。また同じように圏外になった。
俺たちはこの部屋に閉じ込められたのだ。
俺たちは、この部屋から脱出する案を練るため、全員スクリーンの目の前の空きスペースに集まった。
そして簡単に、名前を名乗る程度の自己紹介をしあった。
集まった人間は、全員で七名。
内訳は以下の通りだ。
俺と、俺の彼女。
五十歳くらいのおばさん(内田と名乗った)と、DJみたいな格好をした男(高橋と名乗った)。
大学生くらいの年齢の、冴えないボサボサ頭の、黒縁メガネをかけた男(岩倉と名乗った)と、何故か教会の神父さんみたいな格好をした厳しい表情をしたおじさん(三津浦と名乗った)。
それからずっとジッと下を向いて黙っている、六歳くらいの少年(この少年だけは例外で、名前を名乗らなかった。どうやらパット見たところ、知的障害かダウン症か、それとも自閉症か、そういった類の病気を患っているらしい)。
この計七名だ。
「とりあえず、みなさん、ここから出るために協力しましょう。なんでもいいです。なにか思いついたらすぐに言ってください。それが突破口になるかもしれません」
気がついたら俺がそうして、指揮をとっていた。多分この中で一番、俺自身がビビっていたのだろう。でもしょうがない。今はそれどころではない。なりふり構ってなんかいられない。
「でもさぁー、これってなんかのイタヅラとかじゃないの?そういう演出なんじゃない? USJのアトラクションみたいにさぁー」
そう発言したのは、ボサボサ頭のメガネをかけた男、岩倉だった。
「確かに、そうよね。私達は、お客様だもの。閉じ込められるなんてありえないわ。でも、ちょっと悪質よね。私達だって都合が有るのに……。私はね、主婦なのよね。だから夕飯の支度だって有るのにね」
岩倉の発言に、五十歳くらいのおばさん、内田もそう言って賛成した。
他の二人……DJみたいな男高橋と、神父さんの格好をした男三津浦も、うんうん、とうなずいている。
ダウン症(推測だが)の少年は依然として下を向いて黙っている。
「まあ、確かに。そういった可能性も否定できませんが……。でもこんな映画、今までに観たことも聞いたこともありません。いくらなんでも、ちょっとおかしい。さっきのスクリーンの男の話を思い出してください。あの男の話だと、俺達は愛について対話をしなければならない。そして、真実の愛とやらを理解しないといけない。そうじゃないと、ここから出られない。これは今の事態となにか関係が有るはずです」
そう俺は力説した。
「でもさぁー。なんなのそれ?真実の愛?くだらなくねぇ?『愛している』より強い言葉なんてないでしょ?そう思わない?」
「確かにそうですが……じゃあ岩倉さん、なにか代案を出してくださいよ。俺だってそんなことは重々わかってますが、今できることは、あの男の言う『愛』について考える他ないでしょう」
俺がそう岩倉に言うと、岩倉も渋々とこう言った。
「わかった、わかったよ。まあそれ以外ヒントも何もないしなぁー。みんなで『真実の愛』について考えよう」
それから暫くの間、俺達は愛についての対話を試みた。
「愛ってのはきっと、奉仕的なものなんじゃない?」岩倉がだるそうに言う。
「なぜそう思うんです?」俺はそう聞き返した。
「なんとなく……かな」
「そんな曖昧な答えではダメです。さっきのスクリーンの男も曖昧な回答は不正解になる、と言っていたでしょう。この対話には、明確な答えが有るはずです。三津浦さん、あなたはどう思いますか?パット見たところ、あなたは神父さんのようですが……何か考えつくものはありますか?」
三津浦神父は威厳のある重厚な声でこういった。
「それはキリスト教的見解の愛かね?」
「なんでもいいです。思い当たるものはありますか?」
「ある。簡単な答えだ。それは無条件で隣人を愛することだ」
「それはどういったことなんですか?」
「我々は、生まれついての罪人だ。しかし神は、罪人である我々に、無条件で無限の愛をくださる。つまりそのような気持ちで、隣人に、つまり他人に接する。それが愛だ」
「なるほど。ひとつの答えかもしれません。他の人は、どう思いますか?」
そこで内田のおばさんがこう言った。
「でもね、私はそうは思はないわ」
「ほう……。なぜかね?」三津浦神父は少しムッとした様子でそう聞き返した。
「だってね、きっとね、この世には神様なんて居ないのよ。だってそうじゃない?確かにね、幸せな人も沢山いるけど、つらい思いをしている人たちだって、沢山いるのよ?神様は、全知全能なんでしょ?それだったら、こんな世の中はおかしいんじゃない?」
「でもさぁー」岩倉がボサボサの髪を掻きながら言う。
「何ひとつ不幸のない世界なんて有り得ないんじゃない?この世界には七十三億人の人間がいるんだよ?みんなが全員幸せだったら、相対的に、みんな全員不幸ってことになるじゃん?人間だって、生き物なんだからさぁー。生き物には、弱肉強食の原理があるでしょ?人間だって、そうじゃないの?」
その発言を受けて、DJ高橋はこう言った。
「そんなのは机上の理論だ。今はリアルなスタディが必要なんだ」
それに対して、岩倉はこう言った。
「じゃあ高橋さん、あんたも何か考えてよ。あとついでに、日本語で物を言ってほしいなぁー。リアルなスタディとか、意味わかんねぇしよ」
「……なんだと?」
「なんだと?じゃねぇよ、あんたもなんか考えろっての」
雲行きが怪しくなってきたので、俺は割って入った。
「ちょっと、ちょっと。仲間割れしてどうするんです。今はそんな場合じゃないでしょう。とりあえず、暫定的に現段階の答えは、三津浦さんのおっしゃる『隣人を愛すること』にしましょう。さっきのスクリーンの男の話では、この対話には、時間制限は無い。ゆっくり考えればいいんです。みなさん、それでいいですね?」
「……いいんじゃない?」
「私も……賛成だわ」
「ふん、最初から答えはそれしか無いと思うがね……」
依然としてダウン症の少年は、下を向いて黙っている。
DJ高橋と、俺の彼女もうなずいてそれに賛成した。
「じゃあ決定です。答えは、『無条件で隣人を愛すること』だ!」
俺は願いを込めて、そうスクリーンに向かって言った。
しかし、特に何も起こらない。
「何も起こらないじゃん」岩倉がそう言う。
「そうね、おかしいわね……」内田も不安げにそう言った。
「ま、まだわかりません。とりあえず、出口の扉が開くかどうか、確認をしましょう」
そうして俺たちは二箇所の出口を調べたが、先程と同様に、重厚な扉はびくともしない。
「なんでだ?どうして……。隣人愛は答えじゃないのか……?」俺は絶望してそう呟いた。
「おい、扉開かねえじゃん。三津浦さんよォ、偉そうなこと言ってたけど、あんたの答え、不正解じゃん」岩倉が刺々(とげとげ)しくそう言う。
「そんなわけが……。何故、何故だ……?」三津浦神父も困惑しているようだった。
「何故とかそんなんどうでもいいんだよ。結果的に、不正解だったんだ。だから言っただろ。リアルなスタディが足りてないんだよ」DJ高橋がそう冷たく言い放つ。
「……そんなことを言うがね、高橋君。君は少しでも答えを考えたかね?」
「……あ?」
「君は、少しでも、答えに、貢献したか。そう聞いているのだ」
また始まった。こんなのでは話にならない。
「ちょっと、ちょっと。またですか。止めてください、こんなこと。何度も言いますが、仲間割れなんかしても、しょうがありません。いま大事なのは、この対話における回答を導き出すことです。『隣人愛』は結果的に、不正解だった、これは事実です。ですが、まだ希望そのものが無い訳じゃない。恐らくですが、『隣人愛』は答えとしては不鮮明過ぎるんです。本当の答えはきっと、もっと具体的なものなんです。それが分かっただけでも儲けものじゃないですか。今はそう前向きに考えるべきです」
俺は必死に皆を諭した。
岩倉と三津浦神父、それからDJ高橋も、渋々ながらに怒りの鉾を収めた。
内田と俺の彼女は、不安げな様子だった。
ダウン症の少年は依然として、下を向いて黙っている。
それから俺たちは、可能な限りを尽くして話し合ったが、それらしい答えには至らなかった。
「もうダメかもな……」
「私達、ここから出られないのかしら」
「神よ、我らを救ってください……」
全員が諦めモードになっていた。
ダウン症の少年は依然として下を向いて黙っていた。
俺も諦めそうになっていた。
もうダメかもしれない。そう思った。
気がつくと、額に汗が滲んでいた。
いや、額だけではない。全身が汗ばんでいた。
ちょっと待てよ……。
「なんかさぁー。この部屋暑くねぇ?最初の時より」岩倉がだるそうにそう言った。
まさか……。
「確かに……。暑いわね。どうしてかしら?」
いくらなんでも、それは……。
「暑いと言うか、まるでサウナみたいだがね……」
俺は恐る恐る、左腕の腕時計の画面を見た。
温度計は、58℃を表示している。
「た、大変です……」
「なにが大変なんだ?」
「この部屋、少しずつ、暑くなってきています……」
それからはもう、全員がパニック状態だった。
「頼む! 頼むから! ここから出してくれ! このままじゃ全員、死んじまう!」
DJ高橋は発狂寸前の金切り声でそう訴えている。
「何よ! 何なのよ! 私達が何をしたっていうの!? こんなのってないわ!」
内田のおばさんもそう叫んだ。
「どうせみんな死んじゃうんだし……。諦めましょ……。諦めましょ……」
岩倉は全身から汗を垂らしながらそう小さく呟いた。
「アキラメテハナリマセン!! 神ニ祈リナサイ!!!」
三津浦神父は変なテンションでそう叫んだ。ちょっと頭がおかしくなりつつあるのだろう。
俺も、俺の彼女も、もう限界だった。
ちらっと腕時計を見る。腕の温度計は89℃をしめしていた。
その場にいた全員が、床に倒れていた。
そうしている間にも、部屋の温度はどんどん上がっていった。
俺たち全員は、まるで鍋で茹でられているタコのように、真っ赤になり、苦しい思いをしながら、息を引き取った。
はっと目が覚めた。
あれ、おかしい。生きている。俺たちは、さっき死んだはずだろう?
気がついたら、俺たち七名は、映画館の、放映室のスクリーンの目の前の空きスペース、つまりさきほどまで愛について対話を試みていた場所にいた。
「あれ、俺達……生きてる……?」
「そうね……。それと、さっきと同じ部屋だわ……」
「なぜだ……我々は死んだはずだがね……」
まさか……。
「いや、俺達は生きている。そこに反論はありませんが……」
俺は震える声で言った。
「時間が、ループしたんです」
そうとしか考えられない。スクリーンの男もそう言っていた。この対話に於ける制限時間は無いと。それはつまり、俺達は死んでも、死ねない。この部屋にずっと居れば、いずれ暑さで死ぬが、それでも時間は無限回にループし、最初からやり直しになる。解決方法は、真実の愛について理解する他無い。ということだ。
「まずい、非常にまずい。俺達はこのままだと、無限回に死に直面することになります……」
「……さっきみたいに、何回も茹でダコになるってこと……かしら……?」
「ええ、そうです。つまり俺達に残された道は、唯一つです。真実の愛を理解して、ここから脱出する。もうそれしかありません」
「なんと……。なんと悪趣味な仕掛けだがね……」
「仕様がありません。とにかくできることをしましょう。議論をもっと深くまで掘り下げるんです。そしてどんな小さなことも、見逃さない。どんなアイディアでもいい。それが結果的に、正解になるかもしれない。些細な話でいいんです。やりましょう。それしかありません」
それから俺達は話し合い、議論はお互いの身の上話にまで発展していった。
内田のおばさんは語った。
曰く内田のおばさんには、貴史君という息子さんがいた。
貴史君は、高校二年生の時に、交通事故で亡くなってしまった。
貴史君は、決して真面目な生徒ではなかった。寧ろ逆だったという。DJみたいな派手な格好をいつもしていて、部屋ではヒップホップを大爆音で聴いていたという。
そんな彼にも親しい友人がいた。同い年の、柿沼君という青年と仲が良かった。貴史君と柿沼君は小学校からの付き合いだった。
貴史君がバリバリの不良みたいな感じだったのに対して、柿沼君は大人しいオタク青年といった感じだった。
周りの人間は、なんでこんなに性質の違う二人が惹かれ合うのか、と訝しがったが、しかし二人の仲はとても良好だった。一緒に遊び、一緒に泣き、一緒に笑い合い、テスト前には一緒に勉強をしたりした。
しかしそんななか、貴史君が交通事故で亡くなった。
柿沼君は、貴史君のお葬式に来なかった。
それどころか、内田のおばさんの前に姿を表すことすらなかった。
貴史君の一件もさることながら、柿沼君が今何をして過ごしているのか。元気にしているのか。それが内田のおばさんを悩ましているという。
「ほんとにね、柿沼君がどうなっているのか、それが心配なのよね。うちの子と凄く仲良くしてくれてたからね。きっと落ち込んでいるんだろうな、とかね、考えちゃうのよね」
その話を聞いて、DJ高橋がさめざめと泣き始めた。
嗚咽を漏らしながらこう言った。
「内田さん。ごめんなさい。僕が、柿沼です……。貴史の親友の、柿沼です……」
「え?それってどういう……」
「だから、僕は……柿沼……。柿沼です」
「そんなはずはないわ。だって柿沼君は、もっと地味な子だったわよ。オタク青年みたいな感じの」
「貴史のことが忘れられなかったんです。だから僕は決めたんです。僕が貴史の代わりになろうって。もちろん分かってます。自分がDJの格好をしたからといって、貴史が帰って来るわけじゃないって。でも、でも……。それしか考えが及びませんでした。こうする他、ありませんでした……」
「てことは……。あなたは柿沼君で、貴史の代わりに、その格好をしているってことなのね?」
「はい……そうです。お葬式にも行かずに、すみませんでした。貴史の仏壇に、線香を上げに行かないで、すみませんでした。でも僕は思っていたんです。現実が受け入れられないうちは、貴史のことを本気で偲べないって。貴史の口癖だった、『リアルなスタディ』の意味が分からないうちは、貴史のことを偲べないって。だから敢えて、行きませんでした。ごめんなさい……怒ってますよね……?」
その話を受けて、内田のおばさんはこういった。
「そんなわけ……。そんなわけ、ないじゃない」
「本当……ですか……?」
「当たり前よ。だって柿沼君、あなたはそうまでして、貴史の格好を真似て、貴史の口癖まで自分のものにして、オタク青年だったあなたが、自分を曲げてまで、貴史のことを偲んでくれているのよ?そんなあなたに、怒るわけないじゃない。寧ろ私はこう言いたいわ。ありがとうね。息子をそんなにも思ってくれてありがとうね。これからは、あなたはあなたとして、生きなさい。嬉しいけれども、いつまでも貴史のことを引きずっていては、ダメよ。だってあなたは、あなただもの。貴史の親友の、ちょっぴりシャイな、でも素直ないい子な、オタク青年だもの」
「ありがとう……内田さん」
「こちらこそ、ありがとう……。柿沼君」
何たる、何たる偶然か。でもそれは、必然でもあったのかもしれない。お互いがお互いを許し合うそんな必然。
DJ高橋、いや、柿沼青年は、泣いた。内田のおばさんも、泣いた。そしてお互いに礼を言い合った。二人の泣き顔は、決して悲しいものではなかった。微笑みにも似た、美しいものに見えた。
「ありがとう」
「こちらこそ、ありがとう」
どこからか、フッと風が吹いた。そして二人の姿は風に吹かれる蝋燭の灯火のように儚く、消え去った。
「……消えた?」
「……どういうことだがね?」
岩倉と三津浦神父は不思議がっている様子だ。
俺は冷静に言った。
信じがたかったが、しかし何故か頭は冷静だった。
「たぶん恐らく、二人は愛について理解したんです。だからこの場所、この空間からいなくなった。これがスクリーンの男のいう真実の愛を理解すれば、ここから脱出できるということでしょう。これで理解できました。つまり俺達は、対話を通して愛について理解をし合えば、ここから脱出できる。そういうことです。クズクズしていられません。俺達も、あの二人に続きましょう」
しかし議論はまたもや平行線を辿っていった。
「俺達に何ができるってんだよ」岩倉がだるそうに言う。
「確かに、そうだがね。これ以上は、もう残されていないように思えるのだがね」三津浦神父もそう賛成した。
ダウン症の少年は依然として下を向いて黙っている。
俺も挫けそうだった。だがしかし、それでは何も始まらない。それどころか、終わりすら、来ない。また何回でも暑さで死に、暑さで死にの繰り返しになってしまう。
そんななか、三津浦神父がこう続けて話した。
「大体において、愛というものは、定義が曖昧だ。そうは思はないかね?」
「確かに。そうだね」岩倉はそう答えた。
「私は迷える人々を支えたくて、神父になった。そこに嘘偽りはないのだがね……。でもしかし、キリスト教的見解の愛、つまり隣人愛は、この対話において、正解ではなかった……。私はいまいちそこが、理解できないのだ」
「それってつまり、自分が正解だと思って突き進んできた道が、間違いだったってことに対する不満ってことかな?」岩倉がそう質問した。
「簡単に言えば、そういうことだがね」
「だったらさぁー」岩倉はボサボサ頭をボリボリ掻きながら言う。
「それが間違いだったんなら、それを先ず認めようよ。全てはそこからだよ。先ずはキリスト的見解を捨てることが大事なんじゃない?」
「……それは私に、神に背けと。そう言っているのかね?」三津浦神父はムッとした様子でそう言った。
「そんなんじゃないよ。神様とか、どうでもいいよ。そうじゃない、自分に正直になれってことさ」
「どういうことだがね?」
「迷える人々を救いたくて、三津浦さんは神父になった。そこまではいいよ。でも一番大事なのは、三津浦さん、あんただよ」
「……私が?」
「そうあんただ。いくら立派な志で神父になっても、三津浦さん自身が救われていないんだったら、意味がないんだよ」
そう言い放つ岩倉に、三津浦神父はグイグイと引き寄せらているようだ。そしてその勢いのまま、岩倉にこう聞いた。
「それは一体、それは一体全体どういった宗教的見解なのかね?」
「まだ分かってないみたいだな。宗教的見解とか言う難しいことじゃないよ。そうじゃなくって、『自分を大事に』しなってことだよ。当たり前だけど、三津浦さんの人生は、三津浦さんだけのものだ。そこに他者が介入する余地なんてないのさ。三津浦さんは弱きを救いたい。それはそれとして、やればいい。でも、自分を犠牲にする必要は、ないんだよ。他者の課題と自分の課題ってのは、明確に違う。そして三津浦さんは、誰かを喜ばすために生きているわけじゃない。便利な、なんでも屋さんじゃない。そういうことなんだと思うよ」
「そんな考えがあるだなんて……驚きだがね……。岩倉君、君はすごいな」
「いわゆるアドラー心理学ってやつだよ。俺が考えたものじゃない」
ちゃらんぽらんな大学生だと思っていた岩倉が、アルフレッド・アドラーの教えを信じ考えていたとは、意外だ。失礼なのかもしれないが、俺はそう思った。もしかすると岩倉は、こう見えて色々と悩み、考え抜いてきたのかもしれない。
「そんな自分勝手とも言える私を、神はお許しになるかね?」
「なる。きっとなるさ。だって神様だもん」
「私はもっとわがままでもいいのかね?」
「いいんだよ。大丈夫。だって今まで三津浦さんは、弱きを救ってきたんだから」
そうして岩倉と三津浦の二人は、まるで互いが、長年付き添ってきた、気の知れた友人ででもあるように、ニッと笑い合って、こう言い合った。
「ふふ、ありがとう、岩倉君。ここから出れたら、酒でも飲み交わそうじゃないか」
「そうだね、三津浦さん。無論、あんたが奢るんだぜ」
「ははっ、言うじゃないか」
「はははっ」
そこでまたもや、どこからかフッと風が吹いた。先ほどと同様に、蝋燭の炎のように儚げに揺れながら、二人の姿はかき消えた。
これで残されたのは、俺と俺の彼女、それからダウン症の少年、この三人になった。
俺は焦った。部屋の温度はどんどん上がりつつある。そんななか、俺達三人が残された。
早くここから脱出せねば。そう思い焦った。
しかし、そんな危機的状況に置かれながらも、一片の安心があった。
先ほどのスクリーンの男の話では、この対話は、早抜けゲームだということらしい。
更に付け加えるなら、最後に残った一人には、キツイお灸をすえるとも言っていた。
今現在この場にいるのは、まともな人間は、俺と、俺の彼女。つまりこの二人だけだ。
ダウン症の少年には悪いが、こんなクルクルパーみたいなヤツが、このゲームから脱出する答えを得るとはいくらなんでも考えづらい。
更には、俺と俺の彼女は、恋人同士だ。
つまり愛についての理解を得やすい間柄だと言えよう。
ババのカードはこのダウン症の少年に渡しておけばいい。俺と、ついでに俺の彼女が、ここから脱出できればいい。なんなら脱出するのは、俺だけでもいいのだ。
俺は、不安で震える俺の彼女を、その場に押し倒した。
「え……? あーくん……? 何をするの……?」
「今すぐお前を、ここで犯す」
「なんで……そんな場合じゃないでしょう……?」
「いや、そんな場合なんだ。お前も分かっただろう?愛について理解すれば、ここから出られる。今はお互い二人で、愛し合うべきだ」
「ちょっと、ちょっとまってよ!そんなのおかしいよ!それに私、あーくんに言わなきゃならないことがあるの!」
「あん?めんどくせえな。なんだ、言わなきゃならないことって?」
「私、妊娠してるの……」
「なに?妊娠だと……?本当か、それは?」俺はつい真顔になって、そう聞き返した。
「うん……。それでね、言いづらいんだけど……今私のお腹に中にいる赤ちゃんは、どうやらダウン症で生まれてくる可能性が大きいんだって……」
「なんだって? なんでそんなことが分かるんだ?」
「出生前診断って言ってね、私みたいに、妊娠してすぐの場合でも、病院で調べてもらえるんだ」
「それで、何が言いたいんだよ、今その話は、重要なのか?」
「うん……重要。いや、凄く重要なんだ。それで、私思ったの。この赤ちゃん、私は、中絶手術とかは、したくないんだ。今ならまだ、体にリスクがあまりかからないようにして中絶できるけど、私はそんなこと、絶対にしたくない。このお腹の子は、間違いなく、私の大切な子供だもん。だからね、あーくんに許可が欲しかったのはね、こういうことなんだ。つまりね、この赤ちゃん、二人で育てていこうねって言いたかったんだ。確かに、障害を持った子供を育てていくのは、本当に大変なことだと思う。子供だけじゃなく、私達二人も、つらい思いをすると思う。でもね、でも……私とあーくんならきっと、ううん、絶対に、乗り越えられると思うんだ。私、それが言いたかったんだ」
彼女がそう言い終えると同時に、今までずっと黙っていたダウン症の少年に変化が起きた。
「うう、ううぅ……」
ダウン症の少年は、声を上げて泣き始めた。
「あぁぁーああぁううぅう!!」
俺の彼女は心配そうに少年に声をかけた。
「きみ、大丈夫? どこか痛いの? しっかりして」
ダウン症の少年は、小さく、しかしはっきりとした意思を込めてこう呟いた。
「……ありがとう、ありがとう……おかあさん」
「え?」彼女は不意を突かれたかのようにそう声を上げた。
「ぼくを、うんでくれるんだね……。ありがとう、ありがとう……。それがききたかった。ずっとぼくは、そのことばをまってた。これであんしんした。ぼくはうまれてきても、いいんだって。ありがとう……おかあさん」
「きみは、もしかして……」気づけば、俺の彼女は涙を流していた。
「きみは、もしかして、私の大切な、私の一番大切な――」
「ありがとう……おかあさん――」
そうしてどこからともなくフッと風が吹き、二人の姿はかき消えた。とても幸福そうで、とても満足に満ちたものに見えた。
灼熱地獄の放映室には、俺だけがポツンと残った。
カツ……カツ……と靴音が放映室に反響する。
振り向くと、先ほどのスクリーンの男が奥の座席から俺に向かって歩を進めていた。
「あなたが、最後のお客様ですね……」
男の手には、血に塗れた斧が握られている。
「……やめろ、こっちに来るな……」
俺の恐怖は、ピークに達していた。
心臓はバクバクと鼓動し、手足はガタガタと震えた。
「何も怖がることはありません。これはあくまでもゲームなのですから」
男は満面の笑みを浮かべてそう言った。
「ゲーム……?」
「その通りです。これはゲームです。言うなれば、あなたはマリオ。私はコントローラーを握ってテレビの前に座る少年です」
「何なんだ……それは」
そこで男は、ふふっと短く、冷たく、笑ってこう言った。
「違法な菌糸類を食べれば自分が大きくなったと思い、幻覚的に偏執妄想。麻薬の花を吸引すれば幻想で火を吹くのです。それがあなたです。ふふっ、哀れ、実に哀れですね。まだわかりませんか?この世界は現実であると同時に、幻想。幻想であると同時に現実なのです。全ての始まりは、この地球ではありません。全ての始まりは、そうですね……名前なんて高尚なものはありませんが、そうですね、強いて言うならば、そう、サブタレニアン・ホームシック・エイリアンと、彼らが住まう惑星、そして彼らが作る違法薬物なのです」
俺はガタガタと震えたまま、男の話を聞いた。考える暇なんてなかった。意味のわからない男の言葉の真意を考えるよりも先に、このままでは殺されるという恐怖の感情が俺を支配した。そしてその恐怖は、俺を全くその場から動けなくした。
男は俺のすぐ目の前まで迫っていた。手に持った斧を振り上げた。そして俺にこう告げた。
「それでは、さようなら。機会があったら新現実世界でお会いしましょう……。松原愛一郎さん……」




