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第二話

「……ふむ、つまり女神は船がこの海域を航行しても、気になさらないのですね」

「うん。海はこんなに広いんだし、誰かどこを通っても自由だと思うけど」

「漁師が魚を獲るのもかまわない、と?」

「だって漁師さんは魚を獲るのが仕事でしょう? 仕事がなくなったら大変だわ」

「それは……女神の寛大なお心には敬服するばかりです」


 あれからヒューバートはたびたびわたしに会いに来るようになった。

 そりゃあ今までずっと一人ぼっちだったから、誰かとお話できるのは素直に嬉しい。でも……

 せまい岩の上に跪きながら話すヒューバートを見て、わたしはそっと溜息を吐いた。

 正直に白状すると、人間の顔の作りっていまいちよくわからない。かろうじてヒューバートは短い黒い髪で、瞳がこの海と同じ色っていうのは覚えたけど、白いマントと胸元に光る鎖がなかったら、誰だかわからないかもしれない。

 だけどさすがにわたしだって、眉間の間にあるこの深い皺が機嫌が悪い時の証拠だっていうのはわかる。


「あの……あのさ、ヒューバートの仕事は大丈夫なの? 最近よくここに来てくれるけど、船長のお仕事って忙しいんじゃない? 無理してこなくていいのに」

「お気遣いありがとうございます。ですが問題ありません。海の安全を守るのが私の仕事ですが、この海域は最近とても穏やかで我々の出番がないのです」

「ふーん、そうなんだ」


 海の安全を守るのが仕事ってことは、もしかしてここに来るのも仕事の一環なのかしら。だってわたしは人魚。人間からしたら得体のしれない生き物だし、疑われても仕方ないわよね……。あれ、でも待って。つまりわたしのせいで仕事が増えて、それでいつもこんな不機嫌そうな顔をしてるってこと?


「女神は私の仕事に興味があるのですか?」

「え? う、うん。そうね。こんな大きな船でなにをしてるのか、興味はあるわ」

「船、ですか。成る程。では中を見てみますか?」

「船の中を? でもわたし、足がないから上にのぼれないわ」

「……失礼します。御身に触れる不敬をどうかお許しください」

「え? うわあっ!」


 突然ひょいと持ち上げられて、わたしはあわてて身体をよじった。


「やだ、なにするの! 下ろして!」


 やだやだやだ怖い! やっぱりこの人、わたしを捕まえるつもりだったの!?

 自慢の尾ビレでビチビチ叩いてやるけど、ヒューバートの大きな身体はびくともしない。逆にわたしを抱える手にぐっと力がはいったのがわかる。そしてもう片方の手を使い、器用に船のへりからたれた梯子をのぼり始めた。


「暴れると危ない。しっかり掴まっていてください」

「え? いやああああああっ! 怖い!」


 地に足がつかない……ううん、海水に尾ビレが浸っていない不安で、わたしはヒューバートの胸に必死でしがみつく。そうやってぶるぶる震えているうちに連れて行かれたのは、船の先端にある舳先の部分だった。


「もう大丈夫です。目を開けてください」

「……え?」


 頬を撫でる柔らかな潮風に目を開けると、前に広がるのはどこまでも広がる青い海。遙かかなたに見える青い縁はなだらかに丸みを帯び、真っ白い雲がにょきにょきと生える。燦然と太陽の光を受けた海は、まるで宝石のよう輝いていた。


「……なんて綺麗……」

「お気に召しましたか?」

「うん! こんな高い場所から見るのは初めて。海ってこんなに広かったのね。あ、ほら、わたしがいた岩があんなに小さいわ」


 船の上から見る海は、わたしがいつも見てる海とは全然違う。まるで鳥にでもなったみたい。それに甲板の上も初めて見るものばかりでワクワクする。大きなマストにかかる帆はどうやって閉じるんだろう。張り巡らされたロープにのぼるのかしら? この小さい船は救命艇? はしゃいであちこちを指さすわたしに、ヒューバートは片方の眉をピクリと上げた。 


「よろしければ船の中もご覧になりますか?」

「本当? 嬉しい! あ、でも……やっぱりやめておこうかな」


 船の中は魅力的だけど、こんなに長く海から離れているのは初めてだし、あまり身体によくないかもしれない。不安になったわたしはふるふると頭を振った。


「それよりヒューバート、わたしをあそこに連れて行ってくれる?」

「あちらですか? わかりました」


 訝しげに顔を顰めながら、それでもヒューバートはわたしが指さす船のへりに連れて行ってくれた。


「今日はありがとう。とても楽しかったわ」

「それはよかった。お気に召したなら幸いです。……ところでお願いがあるのですが」

「お願い?」

「はい。女神のご尊名を教えていただけませんか」

「ごそんめいって、えーと、名前のこと?」

「はい。失礼でなければ女神の名前を呼ぶ栄誉をいただきたいのです」

「ふふ、栄誉だなんて大げさだよ。ええっとね、わたしの名前は……あれ?」


 ……そういえばわたしの名前はなんだったかしら。わたしは……

 突然だまりこんだわたしを、ヒューバートが上から覗き込んだ。


「どうかされましたか?」

「それが名前が思い出せなくて……わたしの名前ってなんだったかしら」

「思い出せないのですか? 名前を?」

「うん……」


 まさか名前がないってことはないよね? だって前はちゃんと名前を呼ばれてた気がするもの。──って。でも、どうしてわからないんだろう。

 一生懸命自分のことを考えようとしても、どういうわけかさっぱり思い出せない。名前もそうだけど、ここに来る前にどこにいたのとか、家族がいたのかとか、そんなことも。


「……あのね、おぼろげだけど誰かといっしょにいた記憶があるの。名前を呼ばれて……でも、どうしてもそれ以上がわからないわ。どうしよう、ヒューバート」

「どうか落ち着いてください。女神が覚えていることを最初から話せますか?」

「わたしが覚えてること? それは……」


 わたしはヒューバートに気がついた時には一人だったこと。そして迷ったあげくサメから逃げるようにこのあたたかい海にやってきたことを話した。


「……でも、それより前のことを忘れてしまったみたい」

「鮫が出没するのはここよりかなり北の海域です。女神はそこからいらした可能性がありますね」

「たしかにここよりずっと寒かった気がする。とても冷たい海で震えて……ううん、どうして思い出せないんだろう。まさか記憶喪失? それとも記憶となにかを交換したのかしら」

「記憶と交換? なんのことですか?」

「え? ええと昔のお話なんだけど、人間の王子様に恋をした人魚のお姫様がいたの。それでどうしても王子様の側にいたかった人魚姫は、自分の声と引き換えに人間の足を手に入れるのよ」

「声と引き換えに足を? ですが声を失っては喋ることができないのではありませんか」

「そうなのよ。だから人魚姫の気持ちに気がつかなかった王子様は、別の女の人と結婚してしまうの。悲しんだ人魚姫は海に身を投げて、泡になって消えてしまうのよ」

「愚かな奴だ……」


 うなるような低い声にびっくりして上を向くと、そこにはますます眉間の皺を深くしたヒューバートが怒ったような顔をしていた。


「あ、あの、これはあくまでお話だからね。それにわたしが名前を思い出せないのは、たんに忘れっぽいだけかもしれないし」

「……そうですね。今は無理に思い出す必要はないでしょう。時が経てば解決することもあります。もしよろしければ、私も微力ながらお手伝いさせていただきます」


 そういってヒューバートは口の端を吊り上げ、ニヤリと笑った。


「こう見えて私も海の男だ。腕っ節には自信があります。女神の心を煩わす不埒な輩はこの拳で制裁してやりましょう」


 ヒューバートは私を片手で抱えながら、もう片方の腕を見せつけるように曲げてみせる。額にかかる黒髪が潮風にさらさらと揺れ、細く眇めた瞳は透き通った──このあたたかな海と同じ色。

 ……まあちょっと笑顔が怖いけど、その頼もしい様子に安心したわたしは思わずくすくすと笑った。


「そっかあ……ふふ、ありがとう。嬉しい。頼りにしてるね。ヒューバート」

「お任せください」

「ねえ、わたしもヒューバートのお仕事を手伝うからなんでも言ってね。それと、わざわざここに監視にこなくても大丈夫だからね」

「は? 監視?」

「ヒューバートはわたしを監視するために、わざわざこんな小さな岩まできてるんでしょう? 次はわたしから会いに行くわ。じゃあまたね!」

「は? お、おい!」


 軽やかに身をよじりヒューバートの腕から抜け出したわたしは、船の手すりをこえてそのまま海に飛びこんだ。そしてぱしゃんと水面を打つ音と同時に水中に深くもぐったわたしは、全然知らなかったのだ。

 水面に残る白い泡を見て、ヒューバートが苦虫をかみつぶしたような顔をしていたなんて──。


「監視と思われていたとはな。まったく……先が思いやられる」




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