黄昏バスガイド
・・今日は疲れたな・・と鳴滝は思った。仕事の帰り、いつものバスの中だった。
冬の夕暮れの淡い光がガラス越しにさしこんでいる。
彼は頭を窓にもたせかけて、うとうとし始めた。
☆
「本日も当社のバスをご利用いただきまして、ありがとうございます」
ふいにすずやかな女性の声がした。
鳴滝は、はっと目覚めた。
いつのまにか運転席の隣にバスガイドが立っていた。不思議な存在感があり、やけに暗いバスの中でまるでそこだけスポットライトをあびてでもいるかのように、見る者の心を魅きつけた。
「これからご一緒に季節の旅にでかけましょう」
バスガイドはにこやかな笑みを浮かべた。
「ただ今トンネルの中を通過中でございます。トンネルを抜けますと、まず、『春の夜明け』が見えてまいります」
白い手袋をはめた右手がひらりと動いた。
さぁっ、と魔法のように、外の景色が一転した。明るい夜明けの光がバスを包みこんだ。
・・乗り込んだのは夕方近くだったはずだ。俺はいったい何時間眠っていたんだろう。これは完全に乗り越しだな・・と鳴滝はぼんやり考えた。
いったいどの辺りを走っているのだろうと外を見たが、見覚えのあるものは目につかなかった。
朝焼けの空は美しく広がり、遠くに青い飛行船が浮かんでいた。
鳴滝は子どもの頃、飛行機のパイロットになりたいと思っていた。いつも空を見上げては、あこがれを抱いていた。
考えてみると、最近は忙しさにかまけて空を見上げるゆとりすらなかったようだ。
「しばらくまいりますと、バスは桜の名所に到着いたします」
いつのまにか、座席の前にお茶とおにぎりが置かれていた。あわてて見回すと、周囲の乗客たちにも同じものが配られていた。
おにぎりは竹の皮で包んであって、お茶は竹製の水筒に入っていた。どこか昔懐かしい感じがした。
バスが停車場にとまると、乗客たちはお茶とおにぎりをぶらさげて次々と下車して行った。運転手も下りてしまったので、しかたなく鳴滝もバスから下りて他の者の様子を見に行った。
ふわりと風が吹き、小さな白い花弁が鳴滝の目の前をよぎった。
楽しそうな声にひかれ、見ると、満開の桜の木の下で、皆思い思いの場所に座って花見をしていた。
鳴滝はふらふらと桜のそばに歩いていった。
ほんのりとピンクがかった桜の花をあおぎ見ながら、お茶とおにぎりを食べた。近くに小川があり、舞い落ちた花弁が水面に浮かんでゆらゆらと踊りながら流れていった。
バスが出発する時間になり、鳴滝はバスに戻った。乗客のうちの何人かが戻ってこないままバスの扉が閉められた。
「まだ戻ってない人がいるんじゃないですか?」と、バスガイドに声をかけると、「はい。あの方たちはここに残られるそうです」という返事が返ってきた。
☆
「皆様、次に向かいますのは、『夏の昼下がり』でございます」
バスガイドは『マーガレット』という歌を歌った後、再び観光案内に戻った。
いつのまにか車外の風景は、濃い緑と青に彩られていた。どこまでも続く緑の草原、遠くの山々。道路の反対側では広い海が昼間の太陽を反射してきらきらと輝いていた。
「おそれいりますが、窓を開けていらっしゃるお客さま。冷房を入れますので窓を閉めてください」
頭上からひんやりとした風が下りてきた。鳴滝が見ると、そこかしこで乗客が窓を閉めていた。
鳴滝の席の窓も少し開いていて、外気が吹き込んできていた。顔をよせると、むっとする暑さが襲い、セミの声がうるさく響いていた。鳴滝が窓を閉めると、熱風も、セミの声もバスの外にしめだされた。
「城跡めぐりに参加される方は、停車後、この旗のところに集合してください」
こう言ってバスガイドは紺色の小旗を示した。
鳴滝は次の停車場でも下りてみることにした。
苔むした石段を上っていると、ぎらぎらと照りつける太陽に軽いめまいを覚えた。
・・ある年の真夏の昼下がり。鳴滝はひとかかえもあるスイカを持って、石段を駆け登った。実家では鳴滝の母が彼を出迎えてくれた。庭の井戸水で顔を洗い、汗をおとして戻ると、切ったばかりのスイカと冷や麦が待っていた。風鈴の音を聞きながら母と縁側で庭を眺めて過ごした・・
そんな思い出が蘇ってきた。
バスガイド率いる一行は、幾多の合戦によりすでに天守閣を失ったかつての城跡を散策した。古びた石垣がひっそりと昔の姿を守りつづけている。
侍や忍者の扮装をした係員たちとの記念撮影が行われた。
いにしえに思いをはせながら歩く鳴滝の目に、刹那、先導するバスガイドの顔が鳴滝の母の面影と重なって見えた。
「それでは皆様、バスへ戻りましょう」
バスガイドはミステリアスに微笑んでそう言った。
☆
「左手に見えてまいりましたのは次の目的地、『秋の夕暮れ』でございます」
途中で皆下りて行ったのか、バスの乗客の数はずいぶん減ってしまっていた。空席が目立つ中、バスガイドは変わらぬ明るい声をなげかけてきた。
車外には田園風景が広がり始め、一面金色に輝いて見えた。
見渡すと、夕暮れの空を赤とんぼがすいすい飛び回っている。
かすかにどこかで音楽が響いていた。鳴滝が目をつむり耳をすますと、それは『新世界交響曲』だった。
閉じたまぶたの裏に懐かしい小学校の姿が浮かんだ。下校の時刻にはいつもドボルザークのこの曲がかけられていたものだ。
・・オレンジ色の光が斜めから差して、ひとけのない校舎や校庭を照らしている。黒いランドセルを背負った幼い頃の鳴滝少年が歩いてゆく・・
遠いあの日にはもう戻れないけれど、あの時の情景を思い出すことはできる。
・・だけど今は帰らなきゃ・・
鳴滝はぽんやりとそう思った。
☆
「まもなく終点でございます」
車内アナウンスが聞こえたので鳴滝がバスの中を見渡すと、運転手と自分以外、誰も乗っていなかった。
車窓のガラスに彼の顔が映っているのが見える。
どうやら本当に眠りこんでいたらしい。しかしあれほど感じていた疲れはいつのまにか消え去ってしまっていた。
外はすっかり暗くなってはいたが、見覚えのある地名が目にとまったので、なんとか家まで帰れそうだった。
運転手に定期券を見せて乗り越し分を支払うと、彼はバスを下りた。
「ご乗車ありがとうございました。またご利用ください」
身を切るような寒さの中、鳴滝は心細げなその背中に、幻のような声が投げかけられた。
はっ、として彼が振り向くと、今動きだしたバスの中に黄昏色の制服姿がほんの一瞬、見えたような気がした。
〈fin.〉
平成11年5月5日執筆したものを探しだして平成29年12月21日投稿
「夜明けに青い飛行船」→ビスマルクのop
スイカのシーン→ジライヤ役の筒井巧さんの日清製粉のcm
「黄昏バスガイド」→ウッチャンナンチャンのウリナリで内村光良さんが千秋さんをそう呼んだ
まだ学生だったんですよ⁉本当に。しかも世紀末に書いてます。爆