ある少年の共感
直接描写はさほどありません。
だからお子様は薄目で読むように。
それはきっと、カツアゲをされたからだろう。
家でベッドにうずくまって悔し涙を流し、それでも収まらない怒りをぶつける対象を求めてネットを眺めていた時のことだ。一つのニュースが彼の目に留まったのは。
一つの裁判が行われたことを報せる淡白な記事ではあったが、記事になるだけの何かを有していることは、人生経験の少ない彼にもすぐにわかった。
ことの発端はとある深夜、閉店寸前のスーパーからの帰途にあった貧乏な老人に、地元の不良グループ(彼はDQNと呼んでいるので以下DQNとする)が遊び半分に絡み、殴って死なせてしまったことによる。
この事件そのものも、犯人が十代の未成年であったことからそれなりに注目を集め、地元紙には小さく報じられているが、今回の記事はそれではない。この事件を皮切りとした別の事件が、この二年後に起きているのだ。
老人を死なせてしまったDQNは三人、中学の頃からの遊び友達である。名前の公表されなかったこの三人を探し当て、当時22歳になったばかりの一人の若者が、凄惨かつ残忍な復讐を遂げたのである。
現場は血まみれ、指や顔のパーツが散乱し、阿鼻叫喚もさながらという地獄絵図であったらしい。DQNの三人はいずれも死亡。三人の息の根を止めてから警察に電話し、現場で捜査員を迎え入れた若者は、地獄にいるには不自然なほど落ち着いていたそうである。一応は自首という形にはなるものの、三人を故意に、しかも残忍に殺すという手口もあって、メディアにも注目されることになった。
しかし、犯人が既に逮捕されており、取り調べにも素直にかつ協力的に応じていることもあり、それ以上大きな展開がなかったこともあってか、世間の関心は意外にもアッサリと引いていく。その凄惨さが目立ってしまったことも、事件が安っぽく見えてしまった原因であるかもしれない。
メディアにはあまり注目をされなかったが、この事件の特異性は残忍さだけではない。犯人である若者の人間関係も興味深いものであった。
貧乏な老人は一人暮らしで、年金で細々と生活していた。外部との接点は極めて希薄だ。一方の若者も大学に通ってはいたものの友人に乏しく、学校にいる以外は自宅に籠っていることが大半だった。この二人に血縁はなく、同県に住んでいるとはいえ出会う機会はなかったハズである。しかし少なくとも若者は、老人を知っていた。いや、殺された後に知ったのである。だからこそ、老人の死から二年という空白期間が必要だったのだ。
どういうことか。
老人は生前、インターネット上にて小説を書いていた。若者はその読者だったのだ。連載が滞ったことを不審に思った若者が、どうしても続きが読みたい衝動から様々な調査を駆使した結果、作者がDQNによって殺されている事実を知ったのだ。楽しみを――否、生き甲斐を奪われた悲しみと悔しさは有り余るほどで、復讐へと走り始めるのにさしたる時間も覚悟も必要ではなかった。
だが、復讐を終えたというだけで、この話は終わらない。
若者は殺人罪で立件され、裁判に立たされた。取り調べに対しての姿勢と同じく、事実確認は極めて順調に進み、何一つ疑問を残すことなく犯行は白日の下へと晒された。全てに対して正直に、何一つ嘘偽りなく若者は答えたのだ。
そう、若者は偽らなかった。何一つとして。
全てを認めた若者は、反省の弁を一切することはなかった。それどころか悪いことをしたという自覚すら持っていなかった。むしろ良いことをしたと自負してすらいた。傍聴していたDQNの親族に向かって、社会の粗大ごみを片づけただけだとまで言い放ったのである。
記事としては、ここまでとなっている。命に対する無頓着さがゲームなどに起因しているとかネット上の繋がりなど幻に等しいなど、付随する文章はあまりにも子供染みた妄想なので少年としては読む価値もない。むしろこの若者の真っ直ぐで淀みない信念をこそ、注目するに値すると感じた。
そして、この若者にそこまでの衝動を与えた作品にも、当然ながら興味が湧いた。記事に老人のペンネームの記述はない。しかし若者の名前はわかっていたし、匿名掲示板で事件について調べてみると若者のブログへと簡単に行き着いた。そこに目的のペンネームがあり、それを道標にして件の作品へと向かう。
とある小説投稿サイトにて、その名前はすぐに見つかった。
上がっているのは随分長く更新されないままに放置されている長編が一つだけ。間違えようがない。
彼はそのタイトルを瞳に映す。
桃尻プリンセス・プリンちゃん
桃 尻 プ リ ン セ ス ・ プ リ ン ち ゃ ん
プ リ ン ち ゃ ん