8話 トラウマ
『治療魔法の基礎理論』の最後のページを読み終え、ぱたんとアキラは書物を閉じた。
「……ふーっ。この状況、どこぞの脱獄王ならどうやって逃げ出すのか是非ともご教授願いたいもんだ」
アキラが魔法に関する書物の中で治療を選んだ特別な理由はない、と言うより選んでいないのだ。刻印という不可思議な現象に対する有効手段として、魔法という不可思議な現象を選択したに過ぎない。にも関わらず、数ある種類の魔法の中から解呪なども含まれる治療魔法を選択したのは運が良い……のかもしれない。
しかし、『治療魔法の基礎理論』を読んだ所で刻印の有効手段を見つけることはできない。それも当然だ。言ってしまえばただの基礎であるし、そもそも刻印を刻みつけられた者に刻印の対処の方法など存在しない。するのであれば、刻印が何のために存在するのかに疑問が上がる。
――なら、発想の逆転だ。
刻印を刻みつけられた自分ではなく、刻印を刻みつけられていない他人がやればいい。
当然それを実行させるのは簡単ではないが、不可能ではない。
詳しい計画については今考えても大した案は浮かばないだろう、とアキラは次の思考に移る。
それは勿論、魔法である。
実際に魔法が使えるか否か、という事だ。魔法で脱走を考えている訳ではない。脱走後、この世界で生きていく上で魔法を使えるなら、当然積極的に使っていくべきだ。
読んだ本は治療の魔法であり、魔法が成功したとしてすぐに成功の可否が分かるのはどれだろうか。
呪いなどの解呪は無理であるし、疲労は分かりづらい。やはりここはスタンダードな怪我の治療だろう。
あいにくここにはナイフなどはなく、簡単には怪我を作れない。
アキラは自分の手をちらっと見る。
「噛み切る? いや、無理だろ。こええよ」
次にアキラが目を向けたのはタンスだ。アキラはその角に向かって手を叩きつけた。
「っ! あ゛ークソいてえ」
皮膚が切りつけられ、思った以上に血が流れ始めた。アキラは傷口と一緒にそれをぺろりと舐める。
内容は頭に入っているが、アキラは魔法書を開いて手順を一つ一つ確認していく。
実際にはかなり複雑だが、魔力を解放し、想像し、発動キーを唱える。簡潔に言い換えればたったの三つである。
この三つで考えると、アキラにとっての難関は『想像』だ。魔力については奴隷契約を結んでからそれらしき感覚を掴んでいる。問題はやはり『想像』だった。
どう考えても怪我がすぐに治っていく様など思い浮かべる事ができない。
しかし、実行しないと何も始まらない、とアキラは魔法の実験を行う。
アキラは一つ一つ手順を踏んで実行していく。すると不思議と頭の中にイメージが流れこんできた。思い浮かぶのは傷口が閉じて血が止まり、傷痕が消える光景だ。
そして発動キーである魔法名を口に出す。
「ヒール」
魔力がマナ、魔法へと変換される過程にでる光が周囲を照らす。
光が消えた時には傷痕もすでに消え、手には血の跡だけが残った。血の跡を袖で擦れば、怪我などなかったかの様な綺麗な手となって生まれ変わった。
アキラは思わず笑ってしまいそうになる口元を手で押さえつける。まだ、だ。確実に一歩ずつ進んでいるが、まだ笑うには早過ぎると自制した。
アキラはにやけ面になるのを抑えるために内なる自分と戦っていると部屋の扉がノックされた。
このような時間に珍しいなとアキラは思う。すでに夕食も腹に収めているアキラには、用事があるものに心当たりはない。
一番嫌な相手の筆頭として上がるのは当然のごとくザブニールだ。いや、筆頭などいうまでもなく、訪ねてくる相手の中に嫌な者など一人しかいない。しかし、彼はサリアと共に視察へと出ている。サリアの言によれば日程は一週間前後を予定しているらしく、まだ初日の現在では候補から外れるだろう。
いったい誰だろうか、と扉を開こうとして――直感や本能とも言うべき感性が全力でアキラに警告を出した。
本当にザブニールは一週間帰ってこないのか? サリアが嘘をついている、そうでなくともザブニールが嘘の予定を告げるだけで欺くことなど容易いだろう。
嫌な考えが頭から離れない。どう対応するべきか、と悩んでいると扉が向こうから開かれようとした。メイドの部屋に鍵という便利な物はついていないのだ。
相手が誰か確かめている余裕などアキラにはなかった。逃走すべく窓を開けようとし――施錠されていないにも関わらず、それは叶わなかった。
そして、部屋の外から顔を覗かせたのは案の定、ザブニールである。
引き攣りそうになる頬を抑えつけ、アキラは声を絞り出す。
「……随分とお早いお帰りじゃねえか、ご主人様」
「いやいや、予定通りだよ? 僕の中ではね、ぷぷ」
過程は違えど、結果としてこれから行われるのは以前と同様の事柄だ。それを黙って受け入れるつもりなどアキラにはない。
一つ、考えていた事があった。
これはあくまでも命令を受けていない前提の事だが。
前回の扉を壊そうとした行動、ザブニールに攻撃をしようとした行動。どちらも一応は身体は動いていた。
その寸前で身体がブレーキをかけ、結果として失敗に終わってしまっただけなのだ。
なら、ブレーキが効かない状況ならどうだろうか?
僅かに助走をつけるべく距離を取り、それから窓に向かってダイブした。
結果――アキラの身体は、派手な破壊音と共に二階の窓から外に投げ出された。
成功を喜ぶ暇などなく、アキラは姿勢を制御して受け身をとるべく準備をする。しかし、身体のバランスが以前と違いすぎるため、すぐに制御はできなかった。その遅れは致命的でアキラは受け身に失敗した。
「あがっ」
身体を強く痛め、アキラはすぐには立ち上がれない。
アキラは地面に這いつくばったまま、自らが飛んだ窓をにらみつける。そこには、にやにやと笑っているザブニールがいた。
ザブニールはぷぷ、と笑い、ぱちぱちと拍手をした。
「凄い凄い、良くやるねえ君も。そんな惨めな努力に免じて今日は部屋に帰ってあげるよ。また『明日』ね。アキ」
そう言ってザブニールは窓から姿を消した。
その瞬間、アキラは身体からどっと力が抜けるのを感じた。
「……クソが」
あの出来事はアキラにトラウマに近い傷痕として残っている。
ここにくる以前、アキラの手にかかった被害者は暴行の後に全員殺害されていた。
アキラにとって、特に深い理由はない。強いていうなら、事が終われば用済みだったからだ。
だから――始末した。
しかし、身を持って知り、アキラは後悔していた。
「はん、殺さなきゃ良かったな」
トラウマを植え付け、立ち直った頃を見計らい思い出させる。
――とても、とても楽しそうな悲劇だ。
アキラは魔法で痛めた身体を回復させ、立ち上がる。夜風が美しい金色の髪を揺らした。
「楽しむためにも、どうにかしないとな」
そう言って、アキラはそっと首筋の刻印に触れた。