序章
『進化とは、生物個体群の性質が、世代を経るにつれて変化する現象である。また、その背景にある遺伝的変化を重視し、個体群内の遺伝子頻度の変化として定義されることもある。この定義により、成長や変態のような個体の発生上の変化は進化に含まれない。また狭義に、種以上のレベルでの変化のみを進化とみなすこともあるが、一般的ではない。逆に、文化的伝達による累積的変化や生物群集の変化をも広く進化と呼ぶこともある。日常表現としては単なる「変化」の同義語として使われることも多く、恒星や政治体制が「進化」するということもあるが、これは生物学でいう進化とは異なる。
進化過程である器官が単純化したり、縮小したりすることを退化というが、これもあくまで進化の一つである。退化は進化の対義語ではない。』
「・・・以上が進化における定義であります。我々人間、いや生物、植物、惑星、または宇宙そのもが日々進化していると言っても過言ではありません。当たり前のようなことを長々と語ってしまいましたがご清聴、誠にありがとうございました。以上で私川崎ダイゴの研究論文。『寄生虫による人体の修復』の発表を終わります。ありがとうございました」
ぱらぱらと小さくまちまちの拍手が送られた。誰も彼もが興味なさそうな目で僕を見ている。そんな目で僕を見ないでくれ。なんだかとても・・・惨めだ。
目の前に広げられた資料をまとめ、そそくさと壇上から降りて講堂を後にした。論文発表のために思う。なぜ、自分の成果が認められないのか、なぜ、誰も見てはくれないのか、僕はただ彼女を救いたいだけなのに。
「川崎ダイゴ君」
一人とぼとぼと廊下を歩いていると野太い声を後ろからかけられた。振り返ると感服のいい禿げた白衣のおっさんが薄気味悪いにやけ顔を浮かべながら立っていた。しかし顔に見覚えがない。いったい誰だろう。
「川崎ダイゴ君だね?今講堂で論文を発表していた」
「はあ、そうですが。僕に何か用でしょうか」
「まあまあ、とりあえず話そうじゃないか」
そいうと男はのっしのっしとこちらに歩み寄ってた。相変わらずにやけ顔を浮かべながら。
「すみませんがこれからバイトなんです。一人暮らしで就職もロクに決まっていない現役大学生なものでいっぱいいっぱいなんです。時間が惜しい」
「まあそう言うな」
そう言って男は肩を組んでにやけ顔を近づけて言った。
「君の面倒、うちの研究室で見てやってもいいぞ」
「は?」
突然で意味がわからなかった。うちの研究室?ってことはこの人は学者か。
「先ほど君の論文発表を聞かせてもらったんだが、いやなんとも興味深い。その『寄生虫』をうまく使うことができれば体の不自由な人はいなくなるわけだ。正直最初は呆れたが、なかなかどうしてまとまっていて感心したよ。どうだね?我が郷ユージ教授の研究所でその『寄生虫』を進化に導いて人類の新たな幕開けといこうじゃないか!」
教授はすっかりテンションが上がったのか身振り手振りで僕に訴え掛ける。しかし、それでもなにか引っかかる。
「待ってください、他にももっと現実味があって一番実現できやすい研究論文は僕の他にいっぱいいたはずだ。それでも僕をとるんですか?何か裏があるんじゃないですか?」
言ってから気づいた。何を言っているんだ僕は大チャンスじゃないか。今ここで『はい』と首を縦に振れば研究所入りができる。材料も資材も設備も揃った研究所で彼女を救う研究ができるんだぞ。それを初対面の人間にこんな失礼な口を聞いていては・・・。
すると教授は急ににやけ顔をやめて冷めた目で僕を見た。
「こんなにおいしい話が舞い込んできているのに君はすぐに首を縦に振らず、さらに私を怪しんだわけだ」
先ほどとは打って変わって急に態度を変えた教授に僕は固まってしまった。声を出すことも首を縦に振るにも横に振るにもできなくなってしまった。
「『失礼だね君、もう結構』と言って君を弾くのは簡単だが、私は君に可能性を感じたのだ。私の研究室であれば物は自由に使っていいし材料費も免除しよう。金の心配をしているのであればこれで解決だが?」
「・・・・・・」
違う。そういうのではない、なぜか危険だ。そう感じたこの男に付いて行っては。断ろう。研究なら自分でもできるし、材料費も死ぬ気でバイトすればなんとかなる。
「すみません、この話は―――」
「彼女さんは元気なのかね?」
一瞬にして場が凍った。というか僕自身が凍りついた。この男やはり。
「なぜ、彼女のことを?」
声が震えていたかもしれない。しかしそれでもなんとか声を絞り出して聞いた。すると教授は先ほどより邪悪な笑みを浮かべながら言った。
「私は生徒と結構仲が良くてね、この広い大学だ、噂の一つや二つ自然と耳に入る。なんでも君には交通事故で下半身不随になった恋人がいるらしいじゃないか」
やはりあった、裏が。しかも人の弱みに漬け込んだたちの悪いやつが。
「それがなんです?」
できる限り平静を装って教授を睨みながら言った。
「おいおいそんなに睨まないでくれよ。私はただ君の恋人の話を聞き、かつ今日の論文を聞いて決意しただけだ。研究室を使わせてやろうとね。ただまあ――」
顔をずいっと僕に近づけて意地汚い笑顔でこう言った。
「君の研究が成功し、世に広まることになった暁には報酬の九割はいただくがね」
これか、この男これが狙いか。今までも何人もの研究者を食物にしてきたに違いない。そしてうまくいかなかったら捨てて次を探しているんだろう。しかしそんなことをしてでも一研究者として普通の生活以上のことができているということは研究者としてそうとうキレるかもしくは危ないことに手をだしているかどっちかだ。
「ちなみに、今ここで君が『はい』と首を縦に振れば、研究関係の免除だけでなく、生活も保証しよう。近くにアパートがある、自由に使ってくれて構わないし光熱費は負担しよう。さあ、どうだね?これだけ揃えば君にデメリットは少ないはずだが?」
悪魔の誘い。こんな誘い断るべきだ。断るべきなのに脳裏をかすめるのは笑顔で元気に走りまわる彼女の姿。彼女さえ元気になってまた走っている姿が見れれば僕は・・・。
「・・・・はい、わかりました。それではお世話になります」
「うむ、これからよろしく頼むよ、川崎ダイゴ君」
郷教授は満足気に頷いた。
2025年、8月3日の午前3時42分。僕の研究は遂に終わりを迎えた。郷教授と知り合ってから5年、彼の援助を受け、寝る間も惜しんでひたすら研究に研究を重ねた。もちろん休憩がてら彼女の所にもしっかり顔を出した。歩けない、走れなくなっている彼女だがそれでも僕が会いに行くたびに変わらない笑顔を僕に向けてくれていた。
『あ!ダイゴ!お疲れー!』
『うん、ありがとう、ユリ。どうだい?調子は』
『元気元気!最近タイピングもうまくなってきたから小説のほうも順調だよ!』
『そっか。それはよかった』
上半身しか使えない彼女はそれでも自分にできることはないかと考えた結果、小説を書く事にしたらしい。元々本が好きでよく小説を読んでいることが多かったのがきっかけになったのだろう。
『完成はいつごろかな?』
『ん―どうだろ。結構書けるときと書けない時の差が激しいよね。読むのは好きだけど書くのはそこまで得意じゃないのかも』
ユリは苦笑いしながら言う。
『そっか。完成したら是非、一番最初の読者にしてもらいたいな』
『もちろんだよ!』
屈託のない笑顔。でもその裏では未だに自分の足であることを諦められずに毎日毎日転びながらも一人リハビリを続けていることを僕は知っている。まだ、自分が陸上で短距離の選抜メンバーだったあの頃の自分の走りが忘れられない。そんなのは当たり前だ。しかし今の彼女の足はどう頑張っても歩けることはないのだ。
「郷教授。郷教授!」
僕は教授の部屋を訪ねた。中からは大音量でながられるクラシックが聞こえてくる。今日も自分の娯楽だけを全うし、面倒な仕事は金で釣った僕のような研究者にやらせている始末。一体どこからその金がくるのか。5年間一緒にいても彼の実態は未だにつかめなかった。一つわかっているのは研究者を名乗ることも許されない人間のクズだということだけ。
「なんだね、騒々しい」
ゆっくりとドアが開き、不機嫌そうな禿げ頭の男の顔が隙間から覗いた。
「あの、完成です」
「なに!?」
ドアを一気に開き、僕を押しのけドカドカと研究室に駆け込んで行った。急いで僕もその後を追う。
研究室に入るな否や僕の研究成果である『それ』をみつけ、興味津々といった感じで見ている。
「ほう。これがその例の寄生虫かね?」
教授が指差しながら言う。
「はい、名前は『D-Y』。この寄生虫に寄生されると約1分で卵が体内で羽化し、治療にかかります。時間はかかりますが、癌も治療可能なはずです」
一度も僕に目を向けず、完成品の寄生虫を見つめていた。
寄生虫の大きさは1センチ弱。肉眼で確認できるが、半透明であるその体のせいで注視しない限り確認は難しい。
「素晴らしい・・・素晴らしいぞダイゴ君!早速実験に取り掛かろう!癌細胞を移植したモルモットで構わんかね?」
「いえ!テストは必要ないと思います」
「なぜだね?」
教授は驚いた顔で僕をみた。
テストは必要ない。まったく。いったい僕が何年この実験にかけてきたことか。失敗はありえない。100%完成している。その自信があった。
「自信があります。早速、この寄生虫を使って救いたい患者がいるんです」
諸々の準備を済ませ、僕は大量の機材と教授、そして教授の他の助手を連れて車を出した。目的地はもちろん、彼女のいる病院だ。
出発したのが明け方だったせいか、他の車通りも少なく楽に病院に到着することができた。看護師に事情を話し、委員長の話を通してもらい、彼女を手術室へと運び込む許可をもらった。
ユリには予め麻酔を打ち、眠ったまま手術室に運び込むことにした。眠りから覚めたら極上のサプライズに驚く顔が目に浮かび、準備の段階でうきうきした気持ちが止まらなかった。
そして、いよいよ寄生虫をユリの体内へ注射する。
「では、いくよダイゴ君。いいんだね?」
そう言った教授の目も爛々と輝いていた。それに応えるように僕はゆっくりと首を縦に振った。そして、全員が固唾を呑んで見守る中、少し太めの注射針がユリの白い肌に刺さりゆっくりと寄生虫は彼女に注入された。
これで彼女は走ることのできない体から解放され、またあの輝くような笑顔が見れる。僕はそう信じて疑わなかった。
そう、思っていた。