第2章-第20話 ごくひばなし
お読み頂きましてありがとうございます。
「私もまだまだね。・・・それではごゆっくりお楽しみください。」
一瞬で女将の顔に戻ると笑顔で下がっていく。
「随分こだわっているのね。」
紫子さんの視線が痛い。
「ええまあ。このマンション部分は俺の大きなプライベート空間だと思っていますので。」
俺のルールに従えと言っているも同然だが、今言ったようなことは出店時に料理長にも女将にも伝えている。表の商業施設側では幾らでも店側のルールを客に押し付けても構わないがマンション側では最低限の縛りしかお願いできないことになっているのだ。
もちろんトラブルを起こすような人物が入り込めないように魔法やハイテクを駆使しているがそれでもトラブルを起こす人物は何処にでもいる。そういうときは管理人の権限で出入り禁止にもできるし、規律違反としてマンションから退去して頂くこともできる契約になっている。
現にICタグ内蔵のアクセサリを持たずにマンション部分をうろついていた週刊誌記者は警察に引き渡しているし、その週刊誌記者をゲストとして招待した住人に退去して貰ったこともあるのだ。
「では乾杯をしましょう。」
紫子さんがグラスを持ち上げる。
「そうですね。大葉くんの『俺TUEEE的』な活躍が出来ることを祈ってかんぱーいっ。」
升から酒が若干滴りおちるが構わず上に掲げて口を付ける。乾ききった喉に吸い込まれるようにお酒が流れ込んでくる。空腹時にはこの大吟醸が一番だ。
「それは無いでしょ。」
大葉くんはそう言いながらも笑って同じようにグラスに口を付けると全て飲み干した。
「おっ。いける口みたいだな。酌はいらないから好きに飲んでくれるか。」
お酒を飲む速度は人によってそれぞれ違うもので俺は人に酌をしないしさせないことにしている。
まずは先付として出された香箱蟹から手を付ける。小さいながらもギッシリと身が詰まっており酒が進む。2口3口と運ぶとあっという間に完食する。人によって物足らないかもしれないが口に残った香りだけで大吟醸を飲み干した。
「旨い肴に旨い酒。最高ですね。」
大葉くんも緊張がほぐれて来たのか口数が増えてきた。
「やっぱり旬のものを頂くのが一番よね。それに調理技術も盛り付けも凄いわね。」
八寸には1口にも満たない肴がところ狭しと並んでいた。野菜ひとつの切り方もいろいろと飾り付けられており技術力の高さが伺える。
タイミング良く純米酒とワインがサーブされてきた。
「はい。トム・・・どうぞ。」
女将がぐい飲みをコースターの上に置き、お酌をしようと純米酒の小瓶を構える。これも厳密に言えば接客業でなければ出来ない行為だが、最初の1杯だけは黙認されている。俺も今度は無粋なことは言わないつもりだ。
「社長はトムさんなんですね。」
大葉くんが不思議そうにして聞いてくる。
そういえば『超鑑定』スキルで異世界での本名を見られているのだったな。
異世界での本名はコチラでは発音しづらいので音が似ている取無という名前で戸籍に載っている。親に意味を聞いたことがあるが要領を得ない回答をされていたのを思い出す。
こちらの世界に来て初めて漢字というものに遭遇した両親が良く見る簡単そうな漢字をあてたのだろうと今では思っている。
しかし、『取られて無くす』なんて縁起が悪すぎる。子供の頃は何を考えて付けたのか本当に不思議だった。
「『無制限に取り放題』だなんて、いい名前よね。映画の主人公と同じ名前だし。」
ぐい飲みを構えた俺に女将がそんな事を言いながら、お酌をしてくれる。
「ああ。ありがとう。それ陽子ママからの情報だな。」
夏休みにテレビで放映されていたテレビアニメの影響だろうか。子供のころは良くネタにされたものだ。しかし、口を滑らした俺も俺だが回り回って俺の居ないところで話のネタにされているのはあまり気持ち良くないんだがな。
「最近は日本酒に切り替えたのね。」
俺の機嫌が悪くなったのを瞬時に掴んだ女将が話を切り替える。これくらい人の気持ちに敏感じゃないと接客業に向かないのだろうが、ネタを貰った時点で本人に話して良いか考えないのか。
「まあな。ウイスキーだったかな大きなグラスで飲む酒とき隣に座ったトモヒロくんにグラスに付いた水滴を拭かれてしまったんだ。誰だ、あんなことを教え込んだのはっ。」
確かに映画では銀座のバーのママさん役だったが普通癖になるほど身に付かないだろう。
「男の娘女優『チヒロ』としてデビューする前に何度かお店で働いていたわよ。今でも働いているんじゃないかな。映画デビュー後、陽子ママが政財界のトップクラス相手に極秘の会員制バーを作ったらしいからね。」
「銀座の店か? デビュー前って16歳だよな。余計悪いじゃないか。」
銀座の夜の店で未成年でホステスとして働いていたなんて凄いスキャンダルだ。流石に過去にしでかしたことまで火消しは出来ないぞ。
「あっ・・・内緒ね。」
まあ渚佑子のお気に入りだから、どんなことをしてでも鎮火させるに違いない。那須くんの件でも殺意を抱いていたからな。
本年最後の投稿となります。
長期休載後、お付き合い頂きありがとうございました。
来年もよろしくお願いします。