第7章-第70話 いやし
お読み頂きましてありがとうございます。
「大臣って、聞いていたけど怖い人なんですね。」
組合長を那須くんに任せ、ジロウ調査官とふたりっきりになる。
「酷いトシヒコくんだな。そんなことなら、お土産なんか持たせるんじゃなかったな。」
そういえば千葉房総銀行で本性を見せたな。あれくらいのことで怖いと思っていたなんて弱い男、いや女だ。
「彼らに会ったんですか。」
「偶然な。逃げられなかった。」
面倒事は避けるべきだろう。それに今日は会社の経営に専念する日でトランスジェンダーたちに関わらないと決めていたのだ。
「どっちが酷いんですか。逃げるつもりだったなんてトシヒコが聞いたらなんていうか。」
別に告げ口されてもされなくても変わりはない。本来の俺とは関係の無い人々なのだ。
「まあな。結果としては良かったと言うべきかな。」
事前に情報の整理をしていたお陰で組合長への要求もスムーズに行えたし、LGBTに対する恩義にも使える。伝統芸能でさえも壁を飛び越えれたのだ。大抵の職業ならば壁など無いも同然だ。
「僕へのご褒美は無いんですか?」
ああ彼が受けないという選択肢もあるのか。
「前例を作ってやった。後は幾らでも男の娘舞妓を見世出しできる。50年も続けば伝統さ。」
どうしても性少数者以外の人間が就業口を作っても、次世代の人間が彼らを嫌えばおしまいだ。だが性少数者自身がシステムを構築すれば、次世代に血縁関係が無くても続けていける。
女性が担う職業を提供できればコミュニティーで高い評価を受けるらしい。それで十分だろう。
「それだけですか?」
「欲張るな。これだけだ。それとも土産物でも欲しかったのか。まあいい。何か用意しておこう。」
いくら俺でも面倒事ばかり持ち込む従業員など使えたもんじゃない。環境を整備して彼らの周囲から面倒事を遠ざけることでなんとか使える。彼ら自身が殻に閉じこもっているのなら、無理矢理引っ張り出そうとは思わないのだ。
彼らのようにカリスマ性がある人物を上に据え付けておけば、使いやすくもなるはずだ。まあ彼らも使われるばかりでは何時かは限界が来るかもしれない。少しぐらいは融通を効かせてやるべきだ。
「大臣って、本当に怖い人なんですね。僕は自分を複雑な人間だと思っていたけど、全て見透かされている気がします。」
世の中には複雑な人間なんていないに違いない。マクロで考えれば、皆人で皆労働者なのだ。
「はっははは。酷いなあ。」
那須くんは案の定、組合長の話し相手になっていた。随分と親しげだ。射程範囲が広すぎだろう。ふたりでお暇を告げると料理旅館を出て社用車に戻った。
「社長。この人がしつこいんです。」
社用車には客が待っていた。上七軒の踊りの流派の家元だった。渚佑子には秘書の才能は無いらしい。アポイントメントも無い客を通すバカが何処にいる。
「社長はんでっか。那須新太郎くんを貸してください。是非とも我が流派を継がせたいんです。」
バカだ。スキルを使った才能を全て家元に見せてしまったらしい。適当なレベルで抑えておけば、こういった面倒なことにはならないだろうに。
もう既に荻尚子の前で同じことをして、面倒事に巻き込まれているのだ。バカとしか言いようがない。
「そういったことは本人と話し合ってください。プロ野球選手というのは40歳が限界です。その後ならば、どういう人生を歩もうが本人次第です。さあ那須くんも降りなさい。」
もう彼は俺の手からは離れているのだ。面倒事ばかり持ち込む従業員は必要ない。『勇者』としての仕事は渚佑子の管轄だ。どんな手段を使ってでも実行させるに違いない。
「えっ。そんなぁ。酷い。」
荻尚子も彼を本当に必要ならば奪われはしないだろう。
2人を社用車から降ろすと面倒事を避けて、京都市外まで車を走らせて貰った。
「へー。そんなことがあったんですか。ご苦労様。」
帰り道、草津温泉に寄る。場所はもちろん織田旅館だ。当日の宿泊客は既に寝静まっている。
温泉にゆっくりと浸かり、出てくるとマッサージをしてくれる。
彼女はあれから雇われ女将として旅館を運営する傍ら、踊り、お唄、三味線といった習い事を全て名取レベルまであげており、美貌を含め全てを兼ね備えた女将として評判だ。
俺も時折彼女を尋ねては踊りの手ほどきを受けていたのだ。確かに那美奴もまあまあな踊りを披露してくれたが舞妓出身の芸妓としては技量不足としか言いようの無いレベルだった。
同じ上七軒の大次郎さんによると上七軒では10年ぶりとなる舞妓だったらしく本人の希望もあり、わずか1ヶ月の準備期間で見世出しが行われたそうだ。
見世出しの際には既にIT企業の社長という旦那が居て、そのIT企業の宣伝目的に使われたらしい。その社長のSNSには彼女として紹介されており、芸妓への衿替えを待たずして結婚すると言われていた。
舞妓といえども水商売であることには変わりなく、特定の恋人が居る舞妓を呼びたがる客が現れるはずも無く、芸妓組合から斡旋される客のみという散々な結果に終った。それでも芸妓になれたのはその社長のバックアップがあったからだが、それも程なくしてIT企業が倒産してしまったらしい。
彼女に残ったものは美貌だけだったらしく、次の旦那探しに奔走していたということだったが、客の前で自分の不運を嘆くことも多く芸妓引退も目前と噂されていた。
同じように女に生まれなかったと不運を嘆くトランスジェンダーも居るそうだが、トシヒコくんのようにしっかりと地に足を着け、人生を謳歌している人が大部分なのだ。
ここ草津に来るとゆっくりとした時の流れに身を任せられる。彼女のお唄と三味線で踊っていると外の世界のことなんてどうでも良くなってくる。添い寝をしてくれるし、子守唄を唄ってもらったこともある。
さつきも何も言ってこない。きっと愛人の1人とでも思っているのだろうが肉体関係も無い。
期待して行った京都でも目先の利害に汲々としていた。こんなところは彼女の傍でしか得られないものなのかもしれないな。




