第9章-第84話 はいぼく
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1回表。マウンドに立った俺が右手にグローブを嵌めて左手で投球練習を始めるとスタンドがざわつきだす。実況席をチラリと盗み見るとアナウンサーが必死に資料をめくっている姿が映った。大袈裟だなあ。
有名フリーアナウンサーの海元浩をレギュラーにゲストも毎回有名な野球人を迎えて球場主催の実況中継して貰っている。もちろんテレビ局のアナウンサーも居る。その音声は球場内の客席に届く仕組みになっているのが特徴だ。
他の球場の実況中継が遮音された密室内で行われ、そこを使うテレビ局やラジオ局が独占的に流すのに比べると客席のファンが段違いに盛り上がってくれるのだ。今、野球中継の放送枠が激減しており、中小のケーブルテレビが気軽に中継できるように進めた施策だったが、思いの外受けてホッとしているところである。
『なんだ。なんだ。なんだぁ。山田投手・・・なななんと右にグローブを嵌めております。手元の資料には、・・・ああありました。左右両手投げと登録されています。わたくしの記憶するかぎりプロ野球史上初となるスイッチピッチングを見せてくれるようです。』
指向性スピーカーに遮音の魔法陣が組み込まれているので選手の妨害にはならないように僅かに聞こえるだけにしてあるのだが、あのフリーアナウンサーは失敗だったかも異様に声が大きすぎて、マウンドまで聞こえてくるのである。
『これは楽しみですねぇ。長星さん。』
ゲストは原清贔屓の大御所。長星一男である。トンチンカンな言動とマトモな言動のギャップが大きくて人気解説者になっている。アナウンサーの声しか聞こえてこない分、長星さんがどう返しているか気になるが試合に集中することにする。
左投げの投球練習は軽く投げるだけにしておく。本当なら投球練習は右投げで行い、1番打者には左投げで度肝を抜くつもりだったが麻生くんに止められたのだ。最悪ボークを取られるかもしれないらしい。面倒なことだ。左右両投げで先発することだけでも相手に情報を与え過ぎだと思うんだけどな。
もちろん右投げでも投球練習を行っておく。こちらは全力投球だ。捕球した麻生くんの顔が引きつっている。麻生くんの虚を突いたつもりは無かったんだがなあ。
俺の先発予告があったためか左打者が多いらしく、先頭打者も左打者だった。
麻生くんの指示は内角低めのストレート。どっちが性格悪いんだか。だが俺は首を振る。1球目はド真ん中ストレートと言ってあったのだ。
『これはどうしたのか。初球が決まりません。』
俺が5回ほど首を振ると諦めたのかド真ん中ストレートを要求してきた。
OKのサインと『消える魔球』のサインを返す。1球目は大事だ。この投手からは打てないと打者に思わせたら勝ちだ。
結果は156キロの球速表示が出た。打者は空振りだ。打者の顔がニヤリと笑い次の瞬間驚きの表情に変わった。先頭打者ホームランを狙っていたらしい。
『おおっとド真ん中だ。しかも156キロ。リリーフで使った右投げにも劣らない豪速球だ。』
うるさいアナウンサーだな。興奮せずに喋れんのか。
打者は今まで1球たりともド真ん中ストレート以外を投げたことの無い俺の投球から推理したのだろう。イイ読みだ。
次のサインはスライダーのボール球だったがこれも首を振る。麻生くんも意図が分かったのかド真ん中ストレートを要求してきた。ド真ん中ストレートが印象付けれれば、後続の打者に対して変化球を投げたときに惑わせることが出来る。
この打者が初球を全力で振り抜かなければ別の組み立てになっただろうが、ここは3球三振に打ち取ることにしたのだ。
バットは2球目微動だにせず、3球目バットを短く持ったが『消える魔球』なのでもちろん当たらない。
『3球三振。リリーフエースの腕は左投げでも健在のようです。』
誰がリリーフエースだ。うちの球団の本当のリリーフエースが聞いたら怒るぞ。
連続三振数の記録が伸びた。実況席に居るはずの大御所に対するサービスはここまでだった。
2番打者は右打ちでこちらも右投げだったが1球目のストレートを狙われた。
『おおっと。セーフティーバントだ。ここはグラブ捌きに定評のある麻生捕手がなんなく処理します。』
俺は動けなかったが麻生くんのグローブが勝手に動く。あくまで渚佑子が『錬金術』スキルで聖なる盾を変換したグローブが勝手に前に飛び出していく。
取りたくないと思えばグローブの動きが止まるそうだが、スクイズやバントなら麻生くんの守備範囲だ。
よそ見している間にホームランでも打たれたら、どうなるんだろうな。スタンドまで一直線だったりして。
そんなことを考えているうちにバウンドしたボールを取った麻生くんが1塁に投げてホースアウトだ。
グローブを掲げて麻生くんのグローブにタッチして、こちらに呼び寄せる。
「決め球の『消える魔球』なんだけどバスターの場合。どうしたらいい?」
口元をグローブで隠して麻生くんに質問する。抑えで9回1イニングの場合ばかりだった所為かバンドもスクイズもされたことが無かったのだ。
事前の打ち合わせではバンドもスクイズも麻生くんが処理できるので『消える魔球』をキャンセルすることになっているのだがバスターの場合、キャンセルすると拙いかもしれない。
「諦めて打たれてください。そこまで打者はバカじゃありません。内野フライならこちらで処理します。くれぐれも『フライ』魔法で取りに行ったりしないでくださいね。」
こちらの考えなどバレバレだったらしい。
3番打者は左打者だが右投げの指示。麻生くん。わかってきてるじゃないか。
『おおっと。なななんと左打者に右投げのポジションにつく山田投手。今度はどんな秘策が飛び出すのでしょうか。』
秘策なんか無いけど、これまでの投球がどれだけ打者に印象付けられたかこれでわかるはずだ。
打者は突然の肩透かしに力が入ったのか、それともストレートを待っていたのか。麻生くんの指示通りに投げた1球目のスライダーを打ち損じた。
『突然のスライダーに戸惑ったのか。ショートの前に転がったぁ。』
ショートがなんなく処理してホースアウト。やっと1回が終わった。ベンチに戻る。
「社長! 目立ち過ぎ。華麗なる先発デビューじゃないですか。」
ベンチで席を温めていた穂波くんが苦情なのか良くわからない言葉を発して立ち上がってグローブを合わせてくる。
「まだ1回だぞ。そういう穂波くんこそ、9連続三振だったじゃないか初先発。」
第3戦に初先発を9連続三振と華麗にデビューを飾った穂波くんはその後がいけなかった。4回の2巡目から単調に豪速球を使いすぎて2者連続ホームランでプロの洗礼を受けたのだった。試合自体は那須くんと麻生くんが打点を伸ばしてくれたため、穂波くんに勝ち星がついている。
「あれは飛ばし過ぎた。反省しているよ。社長みたいに幻惑させてこそ野球だよな。」
穂波くんが珍しく後悔しているようだ。
「終わり良ければ全て良しだ。勝てば良いんだから気にするな。あれはあれで押せ押せタイプをだという印象を持たれたから2戦目から麻生くんのリードが光って勝ち星を上げれたじゃないか。」
「8回まで0点に抑えたのに勝ち星付かなかっただなんて。目立たない上に格好悪いじゃん。」
ああそういう観点なのね。
「大丈夫だよ。査定では勝ち星の内だからな。」
3戦目は交流戦で穂波くんの打順に代打が送られている。延長も危ぶまれたが俺が投げた最終回の裏の攻撃で那須くんのヒットと麻生くんの長打でサヨナラ勝ちをしたんだよな。そのときも穂波くんにブチブチ言われた覚えがある。
「スター選手って。そういう巡り合わせも必要なんだよ。」
「まあまあ。来年から俺が居なくなる分、巡り合わせも変わってくるさ。それに漫画以外では初年度からスター選手と呼ばれる人間は居ないだろ。何年か経ったあとで初年度も着実に実績を残していることも大事だと思うぞ。」
俺が先発しているのに何故こんなことを言っているんだろう。もっと野球に詳しい麻生くんとか監督とかが言う言葉じゃないのだろうか。少なくとも数字で査定を決める球団社長が言うセリフじゃないよな。
視線を感じて振り向くと麻生くんと監督が立っていた。そんな生暖かい目で見なくても・・・どうせ俺は野球を知りませんよ。
「どうした?」
「1回の裏の攻撃が終わったところだ。相手チームはエースだから、投手戦になりそうだな。」
あっさりと監督が報告してくれる。休む暇も貰えないらしい。
「じゃあ5回まで頑張るか。5回が終わったら代えてくれるんだろ・・・「誰がそんなことを言った!」」
監督に否定された。あれ違ったかな。5回も6回も変わらないだろう。ド素人の新人投手の初先発に完投しろとは流石に言わないよな。
『2回の表の攻撃は4番打者だ。ここは是非とも4番の意地を見せてほしいっ。」
おいおい。誰が雇っていると思っているんだ。公平なアナウンスをお願いしていたはずだが、あのアナウンサー。俺に恨みでもあるのだろうか。
次は右打者だ。アメリカンリーグの強打者だったこともあるらしい。右投げの指示だ。しかも1球目は外角低めのギリギリのボール球は見逃された。なかなかの選球眼、流石は4番といったところか。
『グレイト! なんて素晴らしい選球眼ですね。長星さん。」
続いて投げた外角低めのカーブも見逃され、ストライクゾーンギリギリに入り、1ストライク1ボール。
『おおっと。これも見逃したっ。もしかして、手も足も出ないのか。どうしたバッター!』
本当にうるさいな。
内角低めのスライダーも平然と見逃され2ストライク1ボール。何となく嫌な予感がする。
決め球はもちろんド真ん中ストレートの『消える魔球』を全力投球する。
『おおっと。今度はバッターが奇策に出たっ。流石は元大リーガー!』
やられた。
打者がバッターボックス前方ギリギリに足を揃えて立っていたのだ。伸びる球なら伸びる前に打ってしまおうという作戦らしい。
全力で走りながら、紐パンに魔力を注ぎ込むと全力でジャンプする。
『前進守備のピッチャーがジャンプ。・・・ジャンプ・・・ジャンプ! ホームラン性の当たりをなんと弾いたっ。』
打者の打った球が俺のグローブを掠めるとギリギリ紐パンの防御範囲に入っていたらしく上空にはじき出した。
「麻生くん!」
後は麻生くんのグローブが処理してくれた。あれいいよな。取りたいと思うだけで簡単に取れるもんな。俺なんか、なかなかフライの軌道が読めなくて苦労したんだよな。
「全く。すぐ無茶するんだから。テレビを見ていた奥様方の心臓を止める気ですか。」
フライを取った麻生くんが笑いながら話し掛けてくる。笑い事じゃないんだけど。
「アイツらはそんな柔な心臓をしていないさ。」
後で謝っておかなきゃな。
「渚佑子さんがテレビを見ていたら、きっと『転移』魔法で飛び込んできましたよ。」
それはありえそうで怖いな。
「そりゃあ。ヤバいな。グランドに大穴が空きそうだ。」
打者に怒りをぶつけたら死人が出るだろうな。くわばらくわばら。
「そういう問題ですか。あんなところから打ってもホームランにはなりませんよ。大丈夫です。保証します。」
そういうものなのか。打たれると思ったけど外野フライだったのか。やり過ぎだったかもしれないな。
☆
おかしい。7回まであれだけうるさかったアナウンサーの声が聞こえない。放送事故だろうか。まさかあのアナウンサーがヒソヒソと喋っているとは思えないんだが。
それに麻生くんのサインが少しゆっくりとしたペースに落ち着いてきている。まただ。この回に入ってから2度目の初球『消える魔球』を要求された。2アウトを取ったところで俺はタイムを取って麻生くんを呼んだ。
「どうした。ちゃんとリードしてくれよ。」
不安になるほどコントロールミスするわけでも球威が落ちているわけでも無いはずなんだがな。
「でも打たれたら・・・。」
いったいどうしたんだ。いつも冷静な麻生くんらしくもない。何か浮き足立っている気がする。
「別に打たれても構わんだろう。5点差もついているんだし。いつも通りだ。いつも通り。」
この回さえ抑えれば本当のリリーフエースが出てきてそれで終わりだ。
それにしても静かだなあ。この球場ってこんなに静かだっけ。
「本気で言っているんですかっ。」
何故か凄い剣幕で怒られた。訳わからん。
「とにかく、次の初球はカーブでいく。それに5連続で右には右、左には左になっているぞ。次は左打者だが右投げでいくから。」
麻生くんが俺の目を睨み付けてくる。文句があるらしい。だが俺も睨み返してやると、何か諦めたかのように頭を振る。何だっていうのだろう。
それでも前言を翻さずにマウンドに戻っていくと、おそらく80キロ台と思われるスローカーブを投げ込むと相手打者はたまらずバットを振ってしまった。
麻生くんが立ち上がると何かを堪えるように何度も深呼吸を繰り返している。
次のサインは外角低めからボールに外れるストレートだったが、俺は首を振る。次は外角低めからボールに外れるスライダー。何を考えているんだか。俺はカーブを投げたいんだ。先程のスローカーブ。まさか2球続けてくるとは思っていないに違いない。
5回続けて首を振ってやっとカーブが出た。それでも外角に外れるボール球。まあストライクでも取れるだろうと同じ球を投げ込んだ。今度は見逃した。ストライクだった。麻生くんの身体は外角にあったがグローブのお陰で取れたようだ。
麻生くんが尻餅をついてしまう。どうしたんだ。体調でも悪いのか。次の回にはキャッチャーとセットで交代する必要がありそうだ。
もちろん、決め球は『消える魔球』で3球三振。ああやっと、これで解放される。
ベンチに戻ると監督が待っていた。ハイタッチがしたいらしい。
「じゃあ。リリーフエースに引導を渡してくるな。」
俺がブルペンに向かおうとすると監督に肩を掴まれた。
「ちょっと待ったっ! 本気で言っているのかっ。」
おいおい投手の肩は大事にしてくれ。あのフリーアナウンサーが乗り移ったかのような興奮した声を出している。いつも冷静沈着な監督なのに珍しいな。
「本気も何もそういう予定だったろ。一体何があると言うんだ。前言を翻すなんて君らしくもない。」
5回が終わったときに監督に尋ねたところ、最大で8回まで延ばすと聞かされた。その後はリリーフエースが控えているから大丈夫だと念を押されたはずだったんだが。
「しかし、もう後3人でノー「監督っ! 当人を目の前にして、それは言わないお約束です。後で面白おかしく記事にされますよ。」」
監督が何かを言いかけたときに麻生くんが割り込む。隠し事をされていることはわかっていた。やっと本当の事が聞けると思ったのに。
「頼む! この通りだ。もう1回投げてほしい。このままでは球界を辞める羽目になってしまう。お願いだ。」
監督に土下座されてしまった。大袈裟だなあ。
「それほど、頼むのなら仕方がないですけどね。年寄りをあまりこき使わないでくださいよ。」
「ああ中6日でも中7日でも構わない。」
初めは中3日とか言っていたのに大盤振る舞いだな。本当は結構余力があったのかもしれないな。
☆
最終回も打者そっちのけで全球『消える魔球』を要求する麻生くんとの攻防に終始した。
『やったー! 山田投手・・・なななんと完全試合を達成しました。Ziphoneフォルクス球団史上初です。歴史的大勝利です。』
なるほど、ノーヒットノーランというのは知っていたが四球を出さないと完全試合というのか。
ベンチから次々と選手たちが出てきて俺の周りに集まってくる。
えっ。ええええええっ。ど・胴上げまでするの?
ヤバいな。もしかして祝勝会を開いたり、選手たちに特別ボーナスを出したりしなきゃいけないんじゃあ。
『鬼の目にも涙。社長の目にも涙です。感動の涙なのでしょう!』
アナウンサーが勝手に解釈してくれるが、この後にくる出費の嵐に対する涙だ。
祝勝会は球団全ての選手たちを招待しなきゃいけないだろうし、OBや職員やZiphoneの関係者・・・軽く見積もっただけでも1億円を越えるぞ。
俺を除く出場選手登録20名に監督コーチ陣スコアラーなど15名に特別ボーナスで1億円。この試合で活躍した選手に対する査定も加味したら、さらに1億円ほど必要じゃないだろうか。
球団にとっては歴史的大勝利かもしれないが経営者としては大敗北もいいところだ。監督の土下座に負けず9回にリリーフに交代しておくべきだったっ。




