「幸せな子供たち」
子供の頃、本当に小さな頃、あたしには夢があった。
あたしの優しいお父さんとお母さん。
楽しくて面白くて、いつもあたしを構ってくれるお姉ちゃんとお兄ちゃん。
そして、小さくて柔らかくて、みんなからかわいがられている仔犬のルツ。
その頃確かにあたしを取り巻いていたような幸せを、大人になったら自分で築き上げようと思った。
好きな人に好きだと伝えて、好きな人に愛されて、赤ちゃんを授かりかわいい犬を飼う。誰も傷付けず誰にも傷付けられず、いつでも朗らかに笑っていられるような、そんな幸せを。
そんな未来に憧れ、迷いなく信じていたあの頃のあたしは、とても幸せでかわいい子供だった。
あたしだけじゃない。
お姉ちゃんもお兄ちゃんもみんな、バカで純粋でかわいらしい幸せな子供たちだった。
―――――
いつまでたっても見慣れる事のない黄ばんだ色の天井を見上げて、今日がまた始まる。
外はまだ暗いのにもう7時半だなんて信じられない。雨でも降っているのだろうか。
足元をずぶ濡れにしながら市街地の大学へ向かう煩わしさを思うと、図々しくベランダに飛び込んできた雀たちの鳴き声が、寝起きの頭をことさら不快に刺激した。
「やはず、もうそろそろ起きなさい」
ドアの向こう、階下のリビングから聞こえてくる心地よくも耳障りな声に返事をするのが億劫で、わざと大きな音を立ててベッドから飛び降りる。
着ていく服はじっくり考えないと、と小さくため息をつき、彼女は寝間着のままドアを開け母の待つリビングへと降りて行った。
「着替えもまだなの? 学校に遅れるわよ」
「今日は2限からだから大丈夫なんだって……」
顔を見るなり口うるさく心配する母にめんどくさそうに答え、彼女は朝食のテーブルに着いた。
毎回変わり映えのしないぬるい味噌汁と茶碗の底で乾きかけた解凍ご飯というメニューに、今朝はなぜかミスマッチなヨーグルトが添えられている。こんなかぴかぴのご飯、味噌汁で流し込んでも朝っぱらから飲み込みづらいのよね、と思いながら、沈んだ声でのろのろといただきますを言った。
息永 抜というのが彼女の名前だ。おきなが やはずと読む。
苗字もなかなか珍しいのだが、さらに難解なのが下の名前の方だ。これを一発で読める人はまずおらず、そのため彼女自身も必要な時以外は名前は「やはず」とひらがなで書く習慣にしているほどだった。
おまけに名前だけでは性別も判断しづらく、特に小さな頃はよく男の子に間違われたりもしていて、抜はあまり自分の名前が好きではなかった。むしろ自分が、かも知れないが。
「バイト探し、はかどってる?」
「うん」
斜め向かいの席に着いて自分も箸を取った母に、抜はぎくりとしながらも即答した。二人が座るそれぞれの席は、家族が5人で暮らしていた頃の位置のままだ。
「やっぱりね……やっぱり私、駅前のスーパーのパートも始めようかと思ってるの」
それ以上何も答えない抜をぼんやりと見つめて、母はすべてを見透かしたように言った。手にした茶碗に箸を付けるでもなく、彼女の表情はただ不安げに沈んでいた。
「え、うそ、それはやめて。なんか嫌だよ、50歳も過ぎた母親にダブルワークさせるなんて」
母の言葉に無視しがたい抵抗を覚え、抜は先ほどまでよりはるかに明瞭な口調で言った。
母は抜の学費の足しにするため、すでに2、3年前から地区の小学校の学童保育所で働いている。その稼ぎがどれほどのものかは知らないが、それがなければ抜のこれまでの学生生活も幾分苦しいものになっていたに違いない。
自分のために余計な苦労をさせている母にこれ以上負担は掛けたくなかった。すでに試食販売員のアルバイトをしていた抜が別のアルバイトを掛け持ちしようと思ったのも、そもそもは心のどこかで感じていた母への罪悪感のためだったのだ。
「もう下宿もやめたし、年間で100万くらいは浮くはずよ。そりゃ新しいバイトはなかなか見付からないけど……マネキンの方だって、土日両方入れば月6万くらいの稼ぎにはなるし。時給良いんだから」
「毎週土日って、あんた勉強どうすんの」
「いや、週2のバイトなんて少ない方だから。第一、今はそんな事言ってる場合じゃないんでしょ」
抜は苦笑して、掻き込むように味噌汁を飲み干した。
抜が大学入学から1年半ほどの間続けていた一人暮らしをやめたのは、一家の中心となって家計を支えていた父がこの秋に亡くなったためだった。
アウトドア派で体を動かすのが好きだった父は、残暑厳しい9月の暮れに近所をランニングしていた最中、突如脳溢血を起こして倒れ、間もなく病院で息を引き取った。
あまりに唐突すぎて泣くに泣けないなかで、家族にとっては通夜も葬儀も初七日も、四十九日もただ淡々と終わっていった。それどころか、父方の祖父母と同じ仏壇に据えられた真新しい父の位牌を見ても、抜の心には悲しいとか寂しいとかいう感情よりもただひたすら困ったな、という暗澹とした気持ちが満ちていくだけだった。
――いくらなんでもこんなに気丈でいられるなんて思わなかった。肉親である以上は死んでしまったら涙くらいいくらでも流せると思っていたのに……。あたしは本当にとてつもなく冷たい人間なんじゃないだろうか?
けれどそれ以上に差し迫った問題は、シビアな話で死人には申し訳ないけれど、父亡き後に残された家族4人の今後の生活についての事だった。
年相応に老いた54歳の母と、今年で27歳になる姉と25歳の兄。そして1月に成人式を控えた自分。
当然下宿はやめざるを得なかった。実家となるべき家――つまりこの一戸建ての事だが――は、理由あって抜の1回生の終わり頃には大学からそう遠くないこの場所に建っていたし、何より彼女が家を出なければならない理由ももはやないはずだったから。
「ソックス、もう散歩行ったの?」
寝床から不意に起き上がり脚にじゃれついてきたボーダーコリーの頭を撫で、母と犬、どちらにともなく抜は尋ねた。こんな風にたまにでも家に入れて貰えてたら、ルツももう少し長生きできたかも、と思いながら。
「ううん、まだ。あんた時間あるなら行ってくれない? お母さん今日は仕事前に銀行に行かないといけないから、あまり時間ないのよ」
「そう。うん、着替えたら行くわ」
太腿に前足を掛けておやつをねだろうとするのは餌もまだだかららしい。
ソックスの温かい両脇の下に手を差し入れて引き離し、空になった食器を重ねて抜は席を立った。キッチンの流し台に食器を置きに行く彼女の後ろをソックスが金魚のフンのように付いてきた。
「ねえ、あんたもさ……」
やがて抜は振り返り、ソックスの前にしゃがみ込んだ。小さな頭を抱きかかえるようにして顔を近付けると、彼女はリビングの母に聞こえないように声を潜めてかわいい愛犬にささやいた。
「…お父さんが死んでからの方が、あんたも幸せかも知れないね」
飼い主の目を見つめ、間抜けに口を開いたままでかすかに首を傾げるような仕草をしたソックスに微笑むと、抜はキッチンのドアを出て洗面所へ向かった。
顔を洗い歯を磨いて鏡に映る自分を見直し、初めて前髪にひどい寝癖が付いている事に気付く。
「大丈夫……あたしは幸せ」
手を水で濡らししかめつらしく寝癖を撫で付けながら、呪文のように低くつぶやく。ソックスはもう付きまとっては来ないようだ。
「あたしは幸せ。これまでもこれからも……あたしはこのままずっと、一生幸せに生きるんだ」