episode06 「何私、緊張なんてしてるんだろ……」
伊勢原雄介。
「ユースケ」と呼ばれる可能性を少しでも含むような名前は、佳奈の持つ学年名簿の中には少なくともその一人しか見当たらない。中学三年C組の先頭、一番に彼の名前は書かれていた。
ブレザーの胸に着けられたブローチの色を見間違ったのでなければ、絶対にこのリストのどこかにいるはずだ。ここ湘南中学高等学校では学年区別のために、各学年別々のカラーリングが施されたブローチを胸ポケットに付けることになっていて、真紅のブローチを付けていたことは中学三年──つまり佳奈たちと同学年である証拠なのだ。途中編入なんて制度上あり得ないから、このリストで全てのはずなのである。
佳奈はわら半紙の名簿を見下ろした。ずらりと並ぶ名前の中で、堂々の一番「伊勢原」の苗字はなぜだか少し誇らしげだ。根拠はないけれど、名前って漢字が難しいほど威厳が増す気がする。
さっき手を差しのべてくれた時の、彼──雄介の顔が浮かぶ。あの時、もっと色々話しておけばよかったと今は後悔するばかりだけれど、まあ後ろで唯亜たちが見てたことを思えば無理ってものだろう。
「いせはら、ゆうすけ」
口に出してみる。なんでだろう、ちょっと楽しくなる。
「にのみや、かな」
──あぁ、なんか弱そう。なんかふにゃふにゃしてそうな名前。自分で言うのもなんだけど。
「いせはら、ゆうすけ」
自分の名前と比べてみる。──そっか、画数も文字数も読み仮名の文字数も、ぜんぶ「伊勢原雄介」の方が多いんだ。
何だか気分がよくなってきて、もっと繰り返す。調子に乗って韻まで踏み始める。
「にのみや、かな」
「いせはら、ゆうすけ」
「にのみや、かな」
「いせはら、ゆうすけ」
……一人でお経のようにぶつぶつ繰り返す佳奈に遠慮(あるいはドン引き)してか、佳奈の座るロングシートには終点の駅に着くまで他の誰も座らなかった。
◆ ◆ ◆
時間は少し戻って、帰り際のホームルーム後。残るよう指示されて担任の先生──茅ヶ崎の元へ向かった絢南は、唐突に教室掃除を命ぜられた。先週一週間ちゃんと掃除当番を務めたにもかかわらず、だ。
「ちょっと冗談じゃないわよ!あたし今日このあと用事あるんですよ!」猛烈な勢いで不服を申し立てる。が、茅ヶ崎は申し訳ないと手を合わせながらも、依頼を取り下げようとしない。
「すまん、今日当番の保土ヶ谷が急用でどうしても掃除する前に帰らなきゃならないらしいんだ。で、愛川が先週ずいぶん丁寧に掃除してたって都筑に聞いたもんでピンチヒッターを頼もうと思ってな。次に愛川が当番の週、一日は休んでいいから。なっ」
机に手をついて頼み込む先生に、上げた拳の行き場がなくなってしまった。仕方ない、そこまでされてやらないのはさすがにないよね。腹を括った絢南、とっとと終わらせようとホウキを手に取る。
今日はこのあと、塾に行かなきゃならない。だからこそ今日はやりたくなかったのだ。振替の手続きがやたら繁雑なので、休みたくない。さっさと終わらせなきゃ。そう、肝に言い聞かせて。──都筑(クラス長)のやつ後で覚えてろよ。
……だが、メンバーが悪かった。
絢南を除く五人。うち、サボってチャンバラごっこをしてる男子二人。サボって一人で何か知らない歌を熱唱している男子一人(と、それを盛り上げているギャラリー数名)。サボって化粧品のテレビCMの話で盛り上がる女子二人。掃除を始めて十分経っても、そんな調子のまま。
「あんたたちねぇっ!!」ついに絢南は怒鳴った。が、熱唱男子は悪びれもせずに、
「お前なぁ、掃除の時間なんて遊ぶ時間だろ」
「そうそう、今日俺たち部活も何もないし。……って愛川は何か用事あるんだっけやべぇ忘れてたあはははは」
……頭の奥で、太いワイヤーが派手にぶっちぎれた音が響いた。
──もーいい。自主的に働く気がないならあたしの手足になってもらう!
もう止まらない。チャンバラ男子からホウキを没収し、熱唱男子をステージ(教壇)から引きずり下ろして邪魔なギャラリーを追い払い、話をやめない化粧品女子に縛ったゴミ袋を押しつけ─────あれこれ努力した結果、
「──結局遅刻ギリギリだぁー!!!」
絢南は今、辻堂駅に向かって本日二度目の猛ダッシュ中なのであった。正確には、駅前の雑居ビルに入っている学習塾を目指して。もうマジで信じられない!とかあいつら後でぶちのめす!とか物騒なことを喚きながらカバン片手に猛然と走ってくる黒色ブレザー姿の女子中学生に、道行く人々が慌てて道の真ん中を開ける。やっとの思いでビルの一階に駆け込み、そのまま階段をかけ上がって自動ドアの中に滑り込む。ぽかんとした顔で出迎えた講師達を横目に流し、教室のドアを蹴り開け(ようとしてスライドドアである事に気がついて引き開け)た所で、ケータイがマナーモードに設定されてない事を思い出したが……まあ誰も電話とかメールなんかしてこないでしょこんな時間だし、とそのままにしておく。
「すいません遅くなりました!!」
……空の教室だった。
あれ!?ここじゃなかったっけ!?カリキュラム表を探そうと必死にカバンを漁り、ついでに中身を少しぶちまけた絢南の後ろから、
「……何やってんだ愛川」
「うわっ!!」
声がかかる。絢南の講師、高津だ。
「な…なんだ先生脅かさないで下さいよ……」超絶ハイスピードで血を送り出す心臓を抑えながら、深呼吸。
「いや…と言うかお前」
その問いには答えず高津の放った言葉に、絢南は凍りついた。
「今日、休みじゃなかったのか」
驚いた拍子にカリキュラム表が(教科書数冊と一緒に)出てきた。すぐさま充血した目で舐めるように睨み回す。確かに、今日は「授業数調整のため臨時休講」──
「そんなぁ……」
床にへたりこむ絢南。
「まぁアレだ、今日はおとなしく家で」と高津が苦笑しながら言いかけたその時──
『♪チャンチャカチャカチャカ、ッチャンチャン♪』
「!!!!!」
──日本人なら誰でも知ってる某バラエティー番組のテーマが、大音量で流れ出す。その発信源は……え!?自分のケータイ!?うそっ!?こんなの設定した覚えないよ!?
パニクった絢南は大慌てでケータイを引っ張り出そうとする。が、引っ掛かっているのか一向に出てこない。
「あーもう!」叫んでも出てこないものは出てこない。あぁさっきマナーモードにしておけば……。
「……愛川、お前その着信音」
「ギャー──────!」
高津の声を強引に遮る絢南。それでもカブ、もといケータイは抜けません。
電話らしく、着信音は止まらない。当然その間「ッチャンチャン♪」は塾のロビーに流れっぱなし。何だ何だと集まってくる講師や事務員、それでもカブは以下略。
「もうイヤぁ───っ!!」
絢南の悲哀の雄叫びが、狭い雑居ビルの廊下で何度も反響した。
「おっかしいなぁ」
かれこれ五分間も変化しないケータイの待受画面を見つめ、佳奈は首をひねった。
電話は拒否され、メールを送っても返事がないなんて。
とはいえ、
[さっき階段から落ちたとき助けてくれたの、伊勢原って人だったよ]
伝えたかったのはそれだけ。それだけだ。
何だか見つけた事を誰かに報告したくて、とりあえず絢南に送った──それだけなのだ。別に迷惑かけようとか、そういう悪意は全然無かったのだ。
……車内に終着駅のアナウンスが流れる頃、やっと返信は返ってきた。
[カナのバカ!!もうぜったい許さない!]
と。
「……えっ……?」
◆ ◆ ◆
翌日。
湘南中学高等学校中学三年C組の教室前に、自教室にカバンを置いた佳奈はやってきた。
三年連続G組で交流関係も比較的後半に多い佳奈は、滅多な事ではここまで来ない。そもそも知らない顔ばかりだ。逆に向こうから見ても佳奈が誰か分からないのだろうが、だからこそ何だか怖かった。クラスが多すぎるのも考えものなんじゃないんだろうか。
伊勢原雄介の出席番号は一番だ。C組はまだ、席替えをしていないと聞いた。ここ湘南中高はデフォルトの座席はぜんぶ出席番号で固定となっている。とすれば探すのはカンタン、一番奥の席を見ればいい。
果たして、雄介の後ろ姿はそこにあった。
刑事ドラマのように、佳奈は見つからないように顔を半分壁に隠して雄介を観察する。間違いない、あの人だ。別の知らない誰かとトランプをやっているその横顔は、紛れもなく昨日助けてくれたあの顔だ。
急に雄介はこちらを振り返った。目が合いそうになって,佳奈は瞬時に顔を伏せる。
途端、胸が締め付けられるような感覚が佳奈を襲った。
思わず一歩後ずさって、高鳴る左胸をおさえる。
やだ…何私緊張なんてしてるんだろ……。普通に向こうに行くかこっちに呼び出して一言「ありがとう」って言えば済むことなのに。クラスにだって普通に男子はいるし、あの人たちとは普通に話せるんだもん大丈夫リラックスしていけばきっと普通に……。
突然弾かれたように雄介が後ろを向いたので、「うわっ」と思わず一樹は声を上げた。
「どうしたんだよ急に」
「え?あれ……」
何かを探すように雄介はキョロキョロと教室の中を見回す。「おかしいなぁ、誰か俺を呼んだような気がしたんだけど……」
「気のせいじゃねえの。こんだけ人がいたら誰かがお前の名前そっくりの単語吐いててもわかんねえよ」
「いやそーいうんじゃないんだよ。何て言うか───誰かに名前を呼ばれたんだよ」
「一緒じゃね」
「──いや、音じゃない。てか、声じゃないんだ」
「???」
「ほら、なんかこう……虫の知らせ、的な───」
そう言うと結局探索は諦めたのか、雄介はまた手元のトランプに手を伸ばした。
「あ、俺トイレ行ってくる」
カードを置くと一樹は席を立つ。「何だよ」と雄介が伸ばした手を引っ込めた。
実際、気のせいではなかったのだが。
その頃。
佳奈は妙にガラの悪い連中に、囲まれていた。
胸をおさえたまま上の空でフラフラとしていて、歩いてきた奴らとぶつかってしまったのだ。もっともガラが悪いからといってヤンキーの類いではなさそうだけれど───
「おい危ねぇだろうが。ちゃんと前向いて歩けよ」
あからさまに不快そうな大柄の男子生徒のブローチは、深緑。高二だ。
「すっすみませんっ!ちょっと考え事をしてたもので……」佳奈は深々と頭を下げた。
そこまでされて怒りの収まらない人など、そんなにいないものである。まぁいいか、と呟いた先輩1。
「つーか、考え事すんなら教室があるだろ。そーいうのは教室でやれよ」
「いえ、ここ私の教室じゃないので……」
横から無駄に勘のいい別の先輩が口を挟む。「あ、もしかしてアレじゃん?誰か探してたとか」
ギクッ。
困惑の表情のまま凍結する佳奈。その手に握られている何かに気づいた先輩1、それを手に取る。
「中三の名簿…って何だ、この伊勢原って奴に付いてる丸印」
キャ──────
「ちょっ…!返して下さいお願いしますっそれだけは勘弁して!」
「あれ、よく見たらこれ丸じゃなくてハーt」
佳奈の思いも空しく、先輩の悪ふざけは暴走する。
「よっしゃ俺がそいつ探してやるよ」「伊勢原、だったよなー」
「やめてそれはやめて!ってか返して下さいよぉ───」
……認識を改める。やっぱこいつら、最低最悪!てか、この状況は本気でヤバい!
誰か、助けて───!
トイレから出てきた一樹がまず耳にしたのは、何やら廊下で騒ぐ男女の声だった。
「中三の名簿」とか「丸印」とか「ハーt」とか。最後のは正確さがちょっとあやしいけれど、そんなセリフの断片たちが一樹の耳へと駆け込んでくる。
一樹は目をこらした。手前で何か嫌がるようなそぶりをしている女子は、胸に真紅っぽいブローチを付けている。ということは、一樹と同学年だ。もう一方で口説こうとでもしているような二人の大柄の男は深緑。高二か、歯が立たないな。
──傍観しているべきか、それともあの困ってる女子を助けるべきか。よく見りゃあの子、けっこう可愛い子だ。助ければもしかしたら……なんて。
いやいや、と手をヒラヒラ振ってその考えを打ち消す一樹。
――俺じゃ無理だ。大して腕力があるでもないのに高二を二人も相手に出来るかっての。
ま、先生の一人や二人通りかかるだろ。
自分とあの女子に心の中で言い訳しながら、一樹は教室の扉を開けようとした。
……途端、であった。
背後で、爆発音が轟いたのは。




