episode55 「俺達って、世界一傷だらけなカップルだな」
「うわぁぁっ!」
強い横向きのベクトルに、二人は壁に叩きつけられる。特に、雄介が。先に起き上がった佳奈が「ユースケくん!?」と駆け寄ると、彼は薄目を開けた。
「……何とか、な……」
手を差し出そうとして、はっ、と息をのむ。
頭の上から、だらりと赤い何かが垂れてきたのだ。いや、この期に及んで「何か」もなにもない。
「ユースケくん!頭、怪我してるよ!」
だが。ああほんとだ、とだけ言うと、雄介は立ち上がる。「大丈夫。歩けるから。早くこの階段を降りきらないと……」
言った途端、またも走った強い衝撃が二人を階段から突き落とした。
「っ──……!」
階段の下で、地面に這いつくばりながら佳奈は呻く。さっき包帯を巻いた場所はもう、鮮血色に染まっていた。
霞む視界に、地面に倒れたまま動かない人影が映る──
「ユースケくん!?」
立ち上がる力さえ残っていない。やっとの思いで雄介に躙り寄ると、身体の周りが血の池のようになっていた。血管という血管に、冷水を入れられたようなショックが走る。
「……割と、ヤバい……」
今にも崩れてしまいそうなほど弱々しい、雄介の笑み。
佳奈は、雄介の上へと手を広げた。
「治──」
その手をまたしても、雄介が握る。「……待った。今超能力を使っちゃ、ダメだ……!」
「……だって、だってっ……!」
もう何度目だろう。鼻声で佳奈は叫ぶ。「これ以上怪我したら、ユースケくん死んじゃうよっ……!一緒に逃げようって言ったの、ユースケくんじゃんっ……!」
血や埃に塗れた襤褸雑巾のようなその身体を見るたび、愛しいその人が傷付いてゆく姿を見るたび、際限もなく涙が込み上げてきた。
けれど。
「俺は、大丈夫だから」
言い切った。さっき「割とヤバい」と言ったのと同じ口が、そう言い切った。
シャツの襟元をつまみ上げ、雄介は笑いかける。「……すげぇ色になっちゃった。けど、赤と黒ってすごく相性いいんだってな」
「……やめて……やめてよぉ……っ……!」
泣きじゃくる佳奈の肩に彼はそっと手を添える。
「大丈夫。俺たちは赤じゃなくて、黒だから。黒は何にもぜったいに染まらない。血だろうが何だろうが、さ」
佳奈は目を伏せる。
雄介が自分を気遣ってくれているのが、痛いほど分かる。自分の怪我なんて気にするな、って伝えようとしてる事くらい。
けれど、雄介は分かっていない。その優しさが、その思い遣りが、今の佳奈には辛いのに。
メキッ。
「!?」
不気味な音に上を見上げた二人。炎に包まれた視線の先から、何かが降ってきた。
それは細かな、コンクリ片だ。
「まずい」
雄介の顔から、赤色が抜けてゆく。「壁が、崩れてくる気がする……」
裏付けるように、微かな揺れが足元からやってきた。終焉が、やってくる……。
「――カナ、歩ける?」
訊ねられ、佳奈は頷いた。
本当は、頷けない。だけど、余計に心配をかけたくない。
「早く、ここから移動しよう」
そう言って立ち上がりかけた雄介だったが、
すぐにガクッと座り込んでしまう。
「……ダメ、か……」
意を決し、佳奈は雄介の肩を担いだ。
「カナ……」
「意外と、軽いんだね」
頑張って、微笑んだ。笑う余裕なんてない事は雄介にも分かっているだろう。それでも、佳奈は笑った。
「私が、この先にある物をぜんぶ念力で持ち上げる。そしたら、その下を通って出よう」
「……どれくらい、持ちそう?」
「分かんないや。こんな事になるなんて思ってなかったから、練習した事もないし。だけど、諦めない。壁が崩れてくるなら、これが最後のチャンスだもん。やれる限り、やってみる」
残った腕で涙を拭い、
「……私、途中で力尽きちゃうかもしれない。そしたら、その後はユースケくんに任せるね。その場に置いて、一人で逃げてくれたって構わない。ユースケくんの判断なら、恨まないから」
もう一度、笑顔を作った。
「………………」
返事はせず、雄介も佳奈の肩に腕を回す。足元に落ちた真っ赤な木片から、燻ったような臭いが流れ出していた。
それを見て、くすっ、と雄介は笑った。
「…………俺達って、世界一傷だらけなカップルだな」
そうかもしれない。
身体も、心も、傷だらけ。
でも、機能停止には至っていない。
私は、私の出来る事をやり遂げるんだ。
二人は、次々落ちてくる瓦礫の山の前に立った。掌を広げ、佳奈が叫ぶ。
「念力───!」
ぶわっ。
突然、ヘリの機体が浮かび上がった。
「何だ!?」
怒鳴る機長。「分かりません!下から持ち上げられているみたいで……!」と副操縦士が呼応した途端、バキン!という鋭い音が頭上を掠めた。
エンジン音が大きくなる。ローターの回転が、再開しているではないか。
「持ち上がって引っ掛かりが外れたんだ!」驚いたように機長は言った。「航行に影響は出ていない!何だか知らんが、全速力離脱!このまま校庭の中央部まで移動して、着陸するぞ!」
「了解!」
力一杯、操縦桿を引き上げる副操縦士。
……足枷を失ったヘリは軽々と空へ舞い上がり、ゆっくり校庭に下り立った。
泉たちは外へ飛び出した。
「急げ!生存者の確認をするぞ!」
「了解っ!」
叫んだ部下たちが、校舎中へと散開する。自分も駈け出そうとした泉の耳に、機長の声が聞こえてきた。
「……おい、何だありゃ…………」
……信じ難い光景が、広がっていた。
目の前の図書館は、微妙に地面から離れているではないか。
瓦礫という瓦礫が、浮き上がる。というか、建物丸ごと浮き上がったみたいだった。それほどまでに、念力の力は凄まじかったのだ。
「歩くぞ」
頷くと、二人はゆっくりと歩き出す。掴んだ佳奈の腕からはだらだらと血が流れていたが、雄介は決して掴む力を弛めなかった。弛めたら最後、永久に離れていってしまう気がした。
三分も歩いただろうか、目の前に光が広がる。浮いた瓦礫の向こうに、図書館のロビーが見えた。その先が、出口だ。
「あと、ちょっとだ……!」
歯を食い縛る、雄介。
──早く、早くあそこまで……!
「……もう……ダメ……かな…………意識、遠く……なってきた……」
その時だった。そんな、か細い声が聞こえてきたのは。あちこちで、瓦礫が崩れ落ちてくる音に混じって。
はっとして佳奈を見る雄介。その目から、ゆっくりと光が消えていく。「……ごめん、ね……最後まで持たなくて……。私、……もう……これ以上……」
がくん。
腕に力がかかる。
重い、力が。
「カナぁぁぁあああああああ────っ!」
どんなに声を枯らしても、閉じられたその瞼は開きはしなかった。
それでも、雄介は担いだ腕を下ろさなかった。
放棄しなかった。
ただ、炎と瓦礫の雨の中を、一歩一歩進んでいった。
避けられはしなかった。固いコンクリの破片が、木材が、雄介の身体を何度も痛めつけた。
それでも、一歩、一歩……。
最後に見えたのは、動かない佳奈の顔だった。
そこにはただ、穏やかな笑みが浮かんでいた。作り笑いでもお世辞笑いでもない、純粋な笑み。
それこそが、雄介の守りたかったモノだったことを、彼は思い出した。
──ハッピーエンド、でいいのかな……。
最後の瞬間。雄介も、微笑んでいたのかもしれない。
一分後。
地震、火災、それに落下の衝撃で壊れ方の激しくなった図書館棟一階は、爆音を轟かせながら潰れた。
そして。空を覆い尽くすほどの炎と煙の中、満身創痍の白いヘリコプターが一機、立ち上る粉塵をローターで切り裂きながら飛び立っていった。
その跡を、火山灰が無音で埋めてゆく。ただただ、そこには完全な静寂が広がっていった。




