episode53 「ホントにホントに、嬉しかった」
午前十一時五分。
ぐったりと壁に凭れていた雄介は、耳の奥で誰かが叫ぶような声を耳にした。
──誰の……?
よろよろと立ち上がる。血塗れの制服が重たい。まだ意識があるなんて、正直驚きだった。
――俺、どうしても死にきれないんだな……。
と。
空気が収縮するような微かな音が、立ち上がった雄介の耳を掠めていく。
そして、
───────…………
それは、聴神経が全部まとめてぶっ千切れたかと思うほどの、爆発音だった。
バラバラと細切れになった金属片や塵が、竜巻のように吹き荒れる。
次に目を瞬いた時。
そこには、
佳奈がいた。
手が届かないと諦めたはずの存在が、そこにいた。
左肩と後頭部から、どくどくと流れる血。制服が裂け僅かに覗く肌からも、血。髪には埃や赤黒い液がこびりついている。あまりにも痛ましい、その格好。けれど見誤るはずがない。
雄介があれほどまでに探し求め、もう会えないと一度は諦めた、その人なのだから。
「──────、」
「──────。」
向かい合ったまま、二人はその場で固まる。
あまりに呆気ない発見に、佳奈の思考回路は完全に停止していた。が、感覚センサーは絶賛稼働中だ。
佳奈から見ても、雄介の出で立ちはあまりにも痛々しかった。制服の半分近くが赤く染まり、怪我の凄まじさを物語っている。腕も何もかも泥だらけ、埃だらけだ。
また、用意してた言葉が出てこない。
否、今回は言葉の用意すらしていなかった。何を言えばいいというのだ。何を求められているというのだ────
「カナ……!」
傷付いた身体に掛かる、強い力。
気がついたら、佳奈は雄介に抱き締められていた。
「ごめん……!こないだの事、本当にごめん……!俺、言い過ぎた……!ごめん……!」
佳奈を自分の胸に引き寄せ、雄介は震える声で何度も何度もそう繰り返す。紅炎の唸る音に混じって、それが涙声に変わってゆくのが分かった。
佳奈の両目から、透明な雫がこぼれ落ちた。今度は蒸発する事なく、床へ落ちてゆく。
「ユースケくんっ……!」
雄介の背中に両手を回し、佳奈も雄介を抱き締める。泣きながら。
「わっ……私こそ、ごめんね……!もっと、ちゃんと……!」
思うように、言葉が浮かばない。
それでも、気持ちは伝わっている気がした。雄介の想いを、佳奈も受け取っていたから。
「もう……、ぜったい離さない……っ!」
そう叫ぶたび身体中から力が抜けそうになって、佳奈はますますぎゅっと雄介を抱き寄せた。それに呼応するように、雄介も腕にかかった力を強く、強くする。
赤熱の火焔に包まれた図書館の一角で、再会を果たした二人は止まらぬ涙を流しながら、しっかりと抱き締めあった。
物理的距離も、心の距離も、今はゼロだった。
例え、それが今だけの幻想だったとしても……。
「こちら、DH2ー30。現在、神奈川県藤沢市上空へ到着しました。確認ですが、要救助者は八名。場所は辻堂駅前の高校校舎ですね?」
握り締めた無線のマイクにそう吹き込むと、機長はコックピットの窓から下界を見下ろす。遥か眼下に、巨大な校庭を持つ横長の建物が見えた。その脇に建つガラス張りの建物の一角から、竜のように炎が巻き上がっている。
「DH2ー30、了解。確認事項、全てあっています」
管制室からの応答を聞くと、今度は横で難しい顔をした救急隊員に尋ねる。「泉さん、あそこに見える校庭の中央に着陸でいいかな?ちょっと建物からは距離があるが……」
「大丈夫です」苦い顔の泉。緊張しているのか。「しかし、すごい火と煙ですね……」
「なに、着陸に影響はないさ。周りの木に燃え移られたらヤバイがな。むしろ怖いのは火山灰の方だ、下手するとローターに詰まって動かなくなっちまうかもしれないからな」
余裕の笑みで返しながら、彼はまた操縦捍を握り直す。
眼下に見える湘南中学高等学校の図書館棟は今や、痛みに耐えられず流す涙のように炎を吹き上げ、倒壊へのカウントダウンを刻んでいた。
ボンッ!
「!!!」
腹から突き上げるような爆音に、二人は思わず肩を震わせる。
「……何が、起きてるの……?」
「……多分、ガス漏れだ。さっきから、あちこちで爆発が起こってる……」
雄介が言うのと同時に、どこかで金属の折れ曲がる嫌な音が響いた。
もしや、建物の崩壊が始まったのか。
「……どっ、どうしよう……!」
しゃくり上げながら佳奈が漏らした途端。大きな音と共に近くの柱が倒れ、天井が歪んだ。
「……ヤバイな……」
呟いた雄介の目が、さっき佳奈が穿った大穴に向かう。「このままじゃ、逃げ遅れる……。そっから下りられれば……」
だが。ううん、と佳奈は首を振った。「高さがあるの。あんな所から飛び降りたら……」
「何言ってるんだよ」
目の端を拭い、雄介は佳奈の目を真っ直ぐ見つめる。
「お前、超能力者なんだろ?」
「でっ、でも……ユースケくん超能力が嫌いだって……」
「今はそんな事言ってる場合じゃない」
そう言うと、雄介は震える佳奈の手を取る。「大丈夫、俺がちゃんと見てるから」
頷いた。
――それなら、力を使おう。私はただ、超能力のせいでユースケくんに嫌われるのが怖かっただけなのだから──
恐ろしい事に、気がついた。
真っ青な顔で佳奈は雄介を見上げ、言う。「……私、あと一回しか超能力を使えない……!」
「一回!?」怒鳴り返す雄介。「なんで……!回数制限があるのかよ!」
「わっ……私、完璧なサイキックじゃないの……。だから……だから、ぜんぶで十五回しか使えないの……!」
絶望的な表情を浮かべる雄介が目に入り、佳奈はまた顔を覆ってしまった。「……ごめんね……!肝心な時に役に立たないなんて……サイキックの意味ないよね……!」
だが。
「そんな事ない」
強い声でそう言うと、雄介は再び泣き出した佳奈の肩を優しく掴んだ。
「一回で出られる方法を、考えよう。きっと何とかなる。悲嘆に暮れるのは、まだ早い」
それに、と佳奈の脇腹に手を遣る。「カナ、身体中傷だらけだろ。脱出よりも先に、そっちを治す方がいいかもしれないぞ。脱出する前に怪我で斃れたら、お仕舞いだから」
……この状況でも佳奈を思いやってくれる雄介の優しさに、佳奈の嗚咽は余計に酷くなった。
──もう私、今すぐ死んでもいい。ユースケくんが生き残ってくれさえすればいい。どのみち、この怪我では私の身体はもたないよ。それなら、大好きな人に生き延びて欲しい……。
「…………私が、私がユースケくんを転送するから……」
泣き止んだ佳奈は雄介から一歩離れた。その指で、床の一点を指差す。「転送、なら、隙間がなくても使えるの。そ……外にはもう、私がさっき助け出した人達がいるはずだから……。その人達と、合流……して」
返事を待たず、瞼を閉じた佳奈は雄介の胸に向かって手を広げた。その手を、雄介が掴む。
「待てよ。それじゃカナは……!」
見開かれた雄介の瞳から、光が薄れてゆく。こくん、と佳奈は頷いた。
「……十五回超能力を使ったら、私は三時間気絶しちゃうの。その間に火が回ってくるだろうから、多分もう、これでお別れだね……」
「そんな……!」
雄介は叫んだ。「ふざけんなっ!まだ諦めるのは早いって言っただろっ……!」
それでも、頑なに佳奈は首を振った。
「……私ね、嬉しかったんだ。ユースケくんに抱き締めてもらえて。ホントにホントに、嬉しかった。だから、もうこれ以上何も要ら────」
ズキンッ!
刹那、血で汚れた腹部に強烈な痛みが走った。
「っくう……っ!」
声にならぬ声を漏らし、佳奈はその場に踞る。思っていた以上に、大怪我だったのだ。
肩を掴み「おいしっかりしろ、カナ!」と怒鳴る雄介さえ、今はもう見えない。
けれど、急がないと手遅れになるという危機感だけは、頭の隅に刻み込まれていた。。
薄れてゆく意識の中で、叫ぶ。
「転────」
パンッ!
左頬に走る、ひりひりとした痛み。
ショックで目を開いた佳奈は呆然と、前を見上げた。
「……ごめん。こうするしか、なかった。こうしなきゃ、止められなかった」
平手打ちの姿勢を崩さぬまま、下を向いてそう言う彼の姿があった。
ぺたん、とその場に座り込む佳奈。その肩を手に取り、雄介は言った。
「……けど、分かってくれよ。俺だけ生き延びるなんて、嫌なんだよ。一人だけ脱出出来たって、お前がいなきゃ、意味ないんだよ。だから、」
笑った。
「……例えどうなっても、一緒がいいんだ」
遥か彼方に見える横長の校舎の向こうから、突如上がった火の手。
「カナ……!」
立ち上る煙に向かって手を合わせ、絢南は瞼を固く閉じた。
──大丈夫。きっと、大丈夫……。
「……ドクターヘリ、現場上空に到着したそうだ」
少し弱々しい、けれど芯の通った声が横で響く。磯子だ。
「後は、カナちゃんを信じるしかない。彼女なら閉じ込められた人達を助け出せる、って……」
「カナ……死んだりして、ないよね……」
ケータイの画面を見つめ、唯亜は消えそうな声で言った。さっきから何度も呼び出しをしているのに、返ってくるのは電波不通を伝える冷たい機械音声ばかり。木々の向こうで昇り竜のように暴れる炎の渦は、そのたびにどんどん大きくなっていっているように見えた。
「……ケータイが繋がらないくらいで死んだなんて考えるのは、早とちりだろ」
斯く言う一樹の顔からも、色が消えている。
不安なのは誰だって同じだ。二人の背後では理苑と魅夕が、まさしく顔面蒼白で学校の方を見つめていた。佳奈の話は既に学年中に広まっている。体育館の中でも、きっと沢山の人が祈っているはずだった。
今は誰もが、祈る事しか出来ない。
「カナっ!」
燃え盛る火柱に向かって、唯亜は叫ぶ。
「大怪我したり死んだりしたら、許さないからね!まだ謝ってもらわなきゃならない事が、いっぱいあるんだからねっ!これからはもっと、もっと……!」
最後は、声にならなかった。呼応するように、激しい爆発音が轟いた。
宏太が。
泰雅が。
安否確認に奔走しながら、茅ヶ崎が。
小田原の家で行方不明の報を受けた、母が。
被災したビルの窓から箱根を見上げ、父が。
座間の腕にしがみつき、飛鳥が。
青白く輝く画面を前に、青葉が。
特能対の刑事たちが。
戸塚が。
佳奈と関わる全ての人が、祈っていた。
脱出の成功を。
怪我のないことを。
行方不明者の全員発見を。
生存を……。




