episode05 「もう一度、会いたい」
頭の中で火花が散る。痛撃のショックで、意識が戻ってきた。
「ぁう……」
呻きながら、佳奈は自力で俯せの身体を起こす。ふらふらする頭で周りを見回すと、やっと正常な運転を再開した視神経が真っ先に捉えたのは、横で心配そうな(でもやっぱりちょっと羨ましそうな)表情を湛えている二人と──特に「やっちゃった」顔を浮かべる唯亜と、
……すぐ隣でまだ起き上がれずにいる、一人の知らない男子生徒だった。
目が、合う。
「──、」
「──。」
お互い、あまりに唐突な展開に声が出なくなった。横で絢南が「よかったカナ、無事で──」と今にも泣きそうな顔で言いかけて黙りこんだが、佳奈には見えていないし聞こえてもいない。
───えっ……どういう、こと……?
少しの間、完全に思考回路の停止した佳奈は瞬ぐのも忘れて呆然と相手の顔を見つめる。
なぜかずいぶん乱れているが、標準サイズくらいの長さを保っている墨のような色の髪。半分隠れたようになっている二つの黒目は今、驚きのせいか瞳孔が開ききっている。瞳孔が見える、ということは……
──ちょっと待て!?今もしかして私たち…見つめあってるの!?
佳奈はすぐさま目をそらした。別に嫌だったからではない。ただ何となく恥ずかしくて、目をそらそうとした。
それる寸前だった。
佳奈の目に、彼の表情の変化が映ったのは。
否、表情は変わっていない。目付きが、変わった。それも、まるで何かに失望したかのように──。
目をそらした姿勢で固まったまま、"何か"が何かを考える佳奈。とその時、先に向こうが(少し頬を赤らめながら)控えめに口を開いた。
「……あのー…」
佳奈が顔を上げると彼は逆に、視線を下に向ける。
「?」
つられて下を見た佳奈。
自分の下敷きになっている、身体。そういえば不思議とあまり感じない、痛み。
佳奈はそこではじめて、自分が相手の身体の上に倒れ込んだのだと知った。
──じゃあ、この人は私を助けようとして……。
急に、何かに祈りたいような衝動に駆られる。神様は、こんな私を見捨てなかったんだ!
「……あ、あのさ……お、重いん…だけど」
──え?
再びの男子生徒の遠慮がちな声。てか、重い……?
何が重いんだろうか。心の中で首をかしげながら佳奈は足元を見、
気づいた。
未だに倒れて乗っかったままの自分の半身が、彼を起き上がれなくしている事に。
佳奈は驚愕の色をした目でゆっくりと顔を上げ……
「きゃっ…!」
顔の火照りを感じながら飛び退いた。その途端、
ズキンッ!
はずみで額と太ももに痛覚が蘇ってきた。あぁ、何も蘇ってくれなくてもよかったのに。
──あれ?てか私いつの間に額なんて、
と思う間もなく、そのまま佳奈はその場に頽れるように座り込んで、やや赤く腫れたようになっている額をおさえる。
「っ痛った……」
「あ、ごめん!私うっかりしてカナの頭取り落としちゃって……」
佳奈の呻き声に呼応するように、唯亜が申し訳なさそうな顔で頭を下げる。……捉え方を一つ間違えるとこの言葉は相当怖い。
横から絢南が口を挟んだ。「ま、でもカナが無事で良かったよ。あんた、誰だか知らないけどカナを助けてくれてありがとうね」
最後の方はいま身体を起こそうとしている彼に向けられてるらしい。謙遜するように「いや、俺は何も……」と頭をかく男子生徒。
……あんまり唯亜が真剣な顔で謝るので、なんだか可笑しくなってきた。 クスッ、と笑うと、
「ううん、大丈夫。二人とも、心配かけてごめんね」
困ったような変な笑顔を浮かべ、佳奈は立ち上がろうとした。
が、
「……やっぱ無理」
床にへたりこんでしまう。
足が、想像以上に痛い。いや、ケガ負ったのは明らかに私のせいなのだけど。
特殊樹脂製の床が湛える氷のような冷たさが、ソックスから伸びる肌から直に感じられた。
もしあの男子生徒が自らを省みずに助けに駆けつけてくれなければ、佳奈の身体はこの冷たい床に叩きつけられていたのだ。
今更のように、背筋が寒くなってくる。佳奈はそのまま、立ち上がれなかった。
その時、だ。
「ごめん。上手く受けとめられなくて」
そんな、ついさっきどこかで聞いたような声が、佳奈の後ろから掛けられたのは。
「……?」
振り向くと、立ち上がったあの男子生徒がへたり込む佳奈に手を差し伸べていた。呆然と彼を見上げる、佳奈。
少し気恥ずかしそうな、でも優しさと安心感に満ち溢れた表情に、思わず何か言わなければならないような義務感に駆られる。──こういうとき、私は何を言えばいいんだろう……。
「え、えっと」
「立てる?」
……立てない。
そういう聞き方をするという事は、「無理そうだったら俺の手に掴まって立ち上がれ」っていう意味なのだろうが、後ろの二人の存在を考えるとそうもいかない。きっと、唯亜も絢南も佳奈の事を見ているに違いない。二人の前でそんな……。
──『カナがそうしたいんなら、後ろの二人に気兼ねなんてしなくていいんだよ。その手を握って、立てばいい』
その声は、突然佳奈の脳内で反響すると、すぐにまた消えていってしまった。一瞬の出来事に、佳奈は唖然としてその声を見送る。
──今の、誰?まさか…もう一人の自分、とか?
だがその声はもう、聞こえてはこなかった。
佳奈はおそるおそる、差しのべられたその手を握った。
その途端。
──え、なに、これ……。
何か温かいモノが体内に流れ込んだような不思議な感覚が、佳奈の身体を包み込んだのだ。
男子生徒の顔を、見つめる。さっきの落下でやはりどこかをぶつけたのか、時おり痛みを堪えるように顔を歪めつつも、彼はけっして微笑を崩さない。よっ、と彼が腕を引き上げると、あれほど痛かった足の怪我は耐えられるくらいにはおさまっていて、佳奈はあっさりと立ち上がる事ができた。
シワだらけになった彼のブレザーの胸ポケットに、目が行く。
そこには、真紅の縁に彩られたブローチが金属独特の光沢を放っていた。
──!!
一瞬口を開きかけて、やっぱり閉じた。
何だか心地よくて、いつまでもそうしていたかった。
けれど、背後から闇のオーラを纏って飛んで来る(恐らくは唯亜と絢南の)視線を無視するのも、何だか後が怖かった。
──これ、あとで散々いろいろ言われるなぁきっと……。心の中でげんなりした顔をする。
どのみちいつまでもこうしてる訳にもいかない。佳奈は、ゆっくりと手を離した。
……握っていた時間は大したことなかったはずなのに、なぜだか今の佳奈には無限の長さにも感じられた。
さて。手を離した瞬間、
──くそー、やっぱり誤魔化せないよこの痛みは……。
案の定またあの痛みがカムバックしたのであった。
「……やっぱ痛い」言いながら振り返った佳奈は、それまで見た者を凍らせそうな冷たい目をしていた唯亜が瞬時にあきれ笑いの表情を装う瞬間を見てしまった。……冷や汗タラタラ。
「そっか。やっぱ保健室、行く?休んでることはあたしたちが先生に言っとくからさ」
──完全に棒読み……。
「言っとくよ。"二宮さんは知らない男子とイチャついてまし」
「いやイチャついてないよ!てゆうかそれはやめて!お願いだからそれはやめて!」
「いやぁ、でも目の前であんだけいいもの見せてもらったら、そう言うしかないよねぇ」意地悪い笑みを浮かべる唯亜と絢南。
「いいものって……私これでも階段から落ちてケガまでしたんだよ!?」
「でもいいじゃん代わりにいい経験が出来て」
「ホントホント。逆に羨ましいくらいだよ。今度あたしも階段から身を投げてお姫様抱っこ風にキャッチされてみようかな(笑)」
「お姫っ…悪い冗談やめてよ!!」
──佳奈達がギャーギャー言っている間にさっきの男子生徒は行ってしまったが、三人の誰一人としてそれには気づかなかった。
◆ ◆ ◆
視聴覚室と同じ階に教室のある、芸術。メガネの少年、大和一樹は今月の画題:ワイングラスを箱から取り出しながら、相棒の到着が遅いのに気を揉んでいた。
──おかしい。もうとうの昔に鐘は鳴ってる。でも普段あんなに生真面目なユースケが遅刻なんてそうそうするはずがない。
放送設備の故障にまで考えが至ったところで、やっと彼はやってきた。
「遅かったじゃん。多分お前遅刻ついてるぞ」と忠告すると彼──伊勢原雄介は、
「あぁ、ちょっとな」
それだけ言って椅子を机の下から引き出し、腰掛ける。座った瞬間少し顔を歪めたのは、気のせいか?
「珍しいな、お前が遅刻なんて」スケッチブックを開きながら一樹は顔を寄せてくる。「何してたんだよ。言ってみな、俺なら絶対に他人にバラしたりしないから」
「ちょっとな、って言ったろ。だいたい守秘能力はお前が一番信用が置けない」
取りつく島もない言い方をする雄介。「何だよちょっとは信頼しろよな」と絵筆を手に取りながら一樹が口を尖らせると、向こうから美術の先生のよく通る声が聞こえてきた。「はいそこお喋りしなーい!今回で完成なんだからしっかり描きなさーい!」
「芸術って強制されなきゃならないもんなのかよ?」苦笑する一樹。無視しながらも、フッと口許に笑みを浮かべた雄介の頬が、
心なしかほんのりと赤らんでいた。
◆ ◆ ◆
夕方。
プラットホームに立って下り電車を待ちながら、はあ、と佳奈はため息をついた。
そう、いまさら気づいたのだ。
六限の授業も無事終わって、階段から落ちてお姫様抱っこ風キャッチされ(損なっ)た事はなんとかみんなにはバレずにすんだ。
──だけど。
あの時、謝れなかった。落ちてきたのは私なんだから、ホントは謝らなきゃならないのは私の方なのに。
カバンを握る手に、力がこもる。
──しかも私、お礼も言い損なった。あの時、真っ直ぐあの人の目を見た途端に、何だか恥ずかしくなってそのまま何も言えなかった。私って、最低だ。
右手を、見る。全身の他のどの部分よりもそこは熱を持っていて、まるで火で炙られたように温かくて、佳奈は思わず右手をスカートのポケットに突っ込んだ。
──もう一度。
もう一度でいいから、
あの手を握って、
あの人の目を見て、
ちゃんと「ありがとう」って言いたい。
ううん、私にはそれをする義務がある。
下りの電車が滑り込んできた。適当に空いている席を見つけて座ると、佳奈はカバンから学年名簿を取り出した。
──落ちた時、誰かが名前を呼ぶのが聞こえた。
確か、「ユースケ」って。あれが、助けてくれた人の名前だったのかもしれない。調べてみよう。
もう一度、会いたい。
その主眼がいつしか、「ありがとうと言いたい」から「手を握りたい」に移っていた事に、この時まだ佳奈は気づかなかった。
それが持つ、意味も。




