episode44 「ユースケくんも、苦しかったんだよね……!」
辻堂の駅前広場を横切っていた理苑が佳奈の姿を見つけたのは、四時を回ったくらいの時間だった。
「あ、カナいた!」叫ぶなり、駆け寄る。
「ねー、試験終わったあとカナ何してたの?」
振り向いた佳奈の顔には、いつも通りの笑顔が貼り付いていた。
「勉強してたよ。学校はアレだから、駅前で」
それ以上の追及を許さない口調に、理苑の口は詰まる。
「……そっか」
「リオちゃんは明日の教科大丈夫なの?」
逆に訊かれた。――う、それ言われると痛いです。
いや、待て。逆手にとれば、会話の糸口に出来るかもしれない。
「大丈夫じゃないから、さっきまで古文とか色々教えて貰ってたトコだよ」理苑はそう言うと、ちょっと不満そうな顔をした。「ホントはカナに教えて貰いたかったのに、呼び止めても答えてくれないし。けっこう探したんだよ?みんな心配してるよ」
が。佳奈の表情はまるで本当に貼り付いたように、何も変わらない。
「そっか、ごめん。じゃ、私帰るね」
強引に会話を強制終了。ぽかんとする理苑を尻目に、佳奈は改札口へと消えていってしまった。
「……あれ…………?」
絢南との、約束。
もう、泣かない。どんな事があっても、笑って生きていく。
それがこんなに辛い試練だなんて、思わなかった。
たまたま座った座席は、車両の真ん中にあるロングシートだった。と言っても、その車両に限って乗客が極端に少なく、座ろうと思えばどこにでも座れた。
ドアが閉まる音が、骨を伝って直に耳に届く。下りの東海道線小田原行は、定刻通り辻堂を発進した。さっきまでいたあのショッピングモールが、辻堂の景色が、平均時速八十キロで遠ざかっていく。
膝の上に鞄を置き、窓に寄りかかって、佳奈は座っていた。
まだ少し、喉が痛い。さっき雄介に掴まれた所が、痕になっている。だけどあの時は異常なまでの雄介の変貌に戸惑う方が強くて、痛みも苦しさも二の次だった。
怖かった。
──私のせいだ。
私が、余計な事を言ったから。サイキックだなんて言ったから。
きっと、ユースケくんには完全に嫌われただろうな……。つい、私も色々言っちゃったもん。
ともかくこれで、はっきりした。私には、恋なんてやっぱり無理なんだ。
結局、こうなる。それが分かっていて、ちょっとでも自分に期待した私がバカだったんだ。
あはは、と佳奈は笑った。
あの日絢南と約束した笑いではない。それは、自嘲という名の笑いだった。
──勉強でもしようかな。
普段やりもしない、車内勉強。何をすればいいのか分からないが、取りあえず教科書でも読んでればいいだろう。佳奈は鞄を開け、適当に教科書やノートの束を引っ張り出す。
一枚の紙が、抜け落ちた。
「これ…………」
それはあの、雄介への想いを綴った紙だった。
ノートにでも挟まっていたのだろう。佳奈はそれを拾い上げ、鞄の中に戻そうとした。
〔私はもう、独りじゃないから〕
その一節が、目に入った。
──結局、いま私、独りじゃん。
佳奈は、ペンケースから取り出したシャーペンを手に持った。
ちょうどいいじゃない。この恋で学んだこと、ここに書いておこうっと。ついでに、憂さ晴らしにユースケくんの悪口でも書いてやろう。
嫌味な笑いを口許に浮かべ、佳奈は握ったシャーペンを紙に走ら……
「……………………………………出来ないよ……………」
紙に突き立てられたまま、シャーペンが止まる。あの紙には、未だ何も書き加えられていない。
──悪口なんて、書けない。思いつかない。もう、好きじゃないはずなのに。
気づいたら、無自覚のうちに手が紙の上にペンを滑らせ始めていた。
〔こんなに辛い思いをするなら、いっそ心にカギでも掛けてしまいたい。閉じ籠ってしまいたい。もう誰にも、会いたくない。独りになってしまいたい。だけど、もう抑えられないよ〕
それでも手は、止められない。
丸っこい文字たちが、隠された本心を代弁するように次々と生まれてゆく。
〔どうしても、君がよかった。君じゃなきゃダメだった。なのに私は、嫌われたんだ〕
いつしか佳奈の顔からは、“笑み”が消えていた。
窓の外を、平塚の街並みが過ぎていく。佳奈の車両に乗っていた乗客は全員さっきの平塚駅で降りてしまったらしく、今はほとんど貸し切り同然だ。
〔この心が近づけたなら、何だってするのに。だけど、きっともう全てが手遅れだ〕
「……そうだよね……もう、ダメだよね……」
呟いた言葉は誰にも拾われる事なく、膝の隙間へと落ちていく。
シャーペンを止め、佳奈は無表情な顔で紙を見下ろす。
その紙に突然、小さな染みが出来た。
また、ペンが進む。
〔たとえ瞬間移動出来たって、〕
染みが、増えていく。
無表情の仮面が崩れ、隠されていた本当の気持ちが顔を埋めていく。
──ごめん。本当に、ごめんね……。あの時、あんな言い方しか出来なくて……!
ペンは、最後の一行を書き終えた。
〔開いてしまった心の距離はもう、縮められない〕
「……っわぁぁぁああんっ!」
もう、堪えきれなかった。ロングシートに腰掛けたまま、佳奈は泣き崩れた。
自分自身が自分自身に突きつけた、現実。認めたくなかった、事実。掴みかけた明るい未来を粉々に打ち砕き、雄介を奪っていった、真実。
誰もいない車内に、佳奈の泣き声だけが波紋を広げていく。
「……ごめんねっ……!ユー……スケくんっ!……ユースケくんも、苦しかったんだよね……!」
後悔の思いは、そのまま泪となって流れ落ちる。否、それは後悔だけではない……。
「……今、だって……大好き……なのに……っ……!わっ、忘れる事なんて、出来ないよ……っ!」
泣き叫びながら、涙で光る桃色の紙を、佳奈は握りしめた。
ぐしゃり、と手の中で響いたその音は、佳奈のココロが潰れた音でもあったのかもしれない。
夕暮れの湘南を疾走する、東海道線。
それは同時に、佳奈と雄介の物理的距離も、そして二人の心の距離をも、時速八十キロで引き離していった。




