episode04 「大丈夫。俺が絶対に助けるから」
「あれ?」
「今のって……」
振り返って天井の白いスピーカーを見上げた佳奈の顔から、サッと血の気が引く。そう、あれは時報代わりの───
「ちっ……遅刻だー!!!」
鳴り終わりかけの六限開始のチャイムをBGMに、三人は長い廊下を猛ダッシュした。遥か先、階段をおりていく音楽先生の後ろ姿を見つけ、さらに焦りが増す。「廊下は歩きましょう」とかなんとか書かれたポスターが貼られてた気がするが、見なかったことにしよう。
「ユアたちのせいだよ!視聴覚室が馬鹿みたいに遠いの知ってて──!」
「あんただって何だかんだ言って私たちに付き合ってたでしょ───!」
「そーじゃん元はと言えばユアがカナの事を──!」
「いやアヤを巻き込んだのは私じゃないから──!」
何人かを突き飛ばし、息切れで不毛な言い争いが尽きた所で、三人は階段の上に立つ。今や躊躇する時間すら残っていない。
──大丈夫、間に合う。間に合わなくても、こっそり教室に入り込めばいい。あの音楽の先生年寄りでモウロクしてるから、授業始まってからいつの間にか生徒が増えててもきっと気づかないよ。
本人の前で言ったらただでは済まないような事を幾度も自分に言い聞かせながら、佳奈は一歩を踏み出した。眼下には、視聴覚室のある階の廊下が伸びているのが見える。滑り止めのために特殊なプラスチックでコーティングされた、白い床が。
──ふふ。今なら私、鵯越から落っこちる源義経の気持ちが分かるかも。
余念に気を取られながら段を踏み切る。それがいけなかったのか、はたまた先生を小バカにしたせいか、
ズキンッ!!
……さっき痛めた足にまたも激痛が走った。
「ぁ痛っ…!」
あまりの痛みに場所も忘れて足に手をやる。
で、バランスを崩す。
「───きゃああああああ!!」
半分かがんだような姿勢のまま、惰性だけが佳奈の身体を勝手に前に進める。そのまま、階段を猛烈な勢いで駆け降りる。そう、それは某超弩級温泉宿の外階段を疾走する某少女のよう───
「とっ止まらないよぉ───!!!」
絢南の金切り声が、叫ぶ佳奈の背中を突き抜けていった。「カナ足元あぶないっ!!」
刹那。グキッと嫌な音が脳天に届く。と同時に、槍か何かで突き刺されたような強烈な痛みが、佳奈の太ももを直撃する。変な向きに力がかかったのが災いしたのか、またしてもあの太ももが悲鳴を上げたのだ。
一瞬下を見ると、右足がうまく階段を踏み損ねて変な向きに曲がっていた。
さっき二度ぶつけたやつか…!と思った時には、もう遅かった。
ものすごい──打撲とは思えないほど凄まじい──激痛に耐えきれず、両足が階段を完全に踏み外してしまった。
つまり、
宙に、
浮く。
◆ ◆ ◆
階上で響いた絶叫にいち早く反応したのは、すぐ下の階を歩いていた男子生徒の一人だった。
ただならぬ叫び声に非常事態の発生を察した彼は友人が「何だ、あれ?」と言うより早く踵を返し、ついさっき前を通過したばかりの階段へと駆けつける。靴裏のゴムを上手く使って急ブレーキを掛け、階段下に立ち止まった彼が見たのは、ちょうど下から八段目あたりで階段を踏み外し、今まさにこちらに向かって落ちてこようとしている、見知らぬ女子生徒だった。
「ユースケ!」と叫ぶ声を背中で浴びつつ、再び床を蹴る。この位置なら、正面から受けとめきれる。そう読んで階段を一気に三段かけ上がると、彼はジャグリングで鍛えた腕を差し出した。その挙動に迷いは一切ない。
早い話が、うまいこと彼女の身体をお姫様抱っこ風に受けとめるという算段である。本人にその意識があるのかは分からないが、なんとうらやまけしかr(ry
一瞬、目があった。
不安と絶望と困惑の色を浮かべた女子生徒の瞳が、網膜に映る。それは彼が昔、どこかで見たことのある色だった。いつ見たのかは、今となっては思い出せないけれど。
──大丈夫。俺が絶対に助けるから。
少しでも安心させようと強い意志を眼力に込め、彼は素早く弾道予測すると少し位置を補正した。
きっと、伝わったはずだ。ここなら間違いなく……!
──ごく自然に、考えよう。
階段には通常、縁の部分にプラスチックのカバーが掛かっている。したがって階段を踏み外す時、普通なら足は階段の縁に引っ掛かり、転落の原因でありながら一番最後までそこにとどまるのだ。逆に……。
そう。真っ先に突っ込んできたのは、頭だった。
ちょっと考えれば分かりそうなものだが、要は五時間も授業を受けてて彼も疲れていたのである。気づいた時には既に手遅れ、差し伸べられた腕を完璧にスルーした頭は、彼の首もとにモロにヒット!この時点でお姫様抱っこ風キャッチ作戦はもはや完全に失敗!
気管が潰れて息が詰まる!
「がはッ……」と噎せながら仰向けに反った彼の身体は、続けざまに彼女の身体を受けとめる!(つまり彼の身体に彼女がのしかかる!)
衝撃で今度は彼の身体が下から三段目の宙を舞う!床に叩きつけられた彼の上に彼女が落ちて──!
落下の瞬間。佳奈の頭に浮かんだのは、オーバーにも「死」の一文字だった。
だが、階段の八段目といえば高さはだいたい一メートルちょっと。確かに下手すれば十分、死ねる。
──いや!まだ私、死にたくない!死ぬにしても、こんなバカみたいな死にかたしたくない!
バカな死に方だと思える程度に頭は正常に稼働しているということか。けれど、口を開こうにも息が詰まって声が出ない。
高層ビルから飛び降り自殺すると、痛みがないと聞いたことがある。なんでも、落下の瞬間にはもう恐怖で脳が半分停止してしまうので、痛覚がないのだとか。かくいう佳奈の頭ももう、ぼやけかかってきた。
──もう、最期かな……と思った、
最後の一瞬だった。
視神経が、なにか人影らしきものを感知した。続いて、聴神経が音を感知し脳に伝達する。
──ユースケ!
……そのまま、佳奈の意識はいささか大げさにフェードアウトしてゆく。
◆ ◆ ◆
「カナちょっと大丈夫!?」
駆けおりてきた唯亜と絢南。言葉をかけようと口を開いたところで、
目の前の光景に思わず目が点になった。
仰臥している知らない男子生徒の身体に、折り重なるように突っ伏している、佳奈。頭を打ったのか、どうやら二人とも気絶したっぽいが、ほとんど抱き合っているに等しい状況に変わりはない。
そう。これはいわゆる「ラノベ展開」というやつ。
「……。」
助けるのも忘れて、お互いの目を見る二人。
唯亜の瞳には(羨ましい羨ましい羨ましい羨ましい羨ましい!!)の文字が。
絢南の瞳には(ちくしょう悔しいずるいセコい腹立たしい!!)の文字。倒れている二人は放置のままで、二人はアイコンタクト会話を再開する。
(……ねぇおかしくない?なんでこうカナばっかりいい目に遭うわけ?やっぱ不公平だよね、不平等だよね!)
(あたしに言われても困るよ!カナが心底羨ましいのはあたしも同じだよ!いやあたし的には、むしろ下の知らない男子の方が羨ましいよ!)
(なんで下の男子!?もしかしてあんたレズ趣m)
(ちがーう!!気持ちの問題!カナが恋愛対象とかそういう意味じゃない!考えてもみなよ、あんただってイケメンにのし掛かられたら悪い気しないでしょ!そーいう意味!!)
(ちっ。せっかくからかいのいいネタだったのに)
(ちょっと!!!てか大体、あんただってさっきからそこの男子チラチラ見てるじゃんか!)
……噂をすれば何とやら、そうこうしているうちに下敷きになっていた男子が意識を取り戻した。二人揃って「あ」と間の抜けた声を出す。
「大丈夫かユースケ!?」
声とともに、唯亜達に少し遅れて別の男子生徒がやってきた。友人と思しいその生徒に、ユースケ、と呼ばれた男子は「何とかな……」と返事しながら身体を起こそうとした。
で、
「──あ」
自分の身体の上に倒れ込んでぐったりと動かない佳奈を、見る。
……自分が受け止め損なった事に気づいたらしい。
いや正確には、不可抗力とはいえ第二次性徴を既に迎えている男女がこうして重なりあっているという事の危険性に、気がついたらしい。
見る間にトマト化する顔を背け、「うっわ……」とでも言いたそうな友人に「……さき行ってろ」とだけ言うと、ユースケと呼ばれた彼は意識を失っているマネキン同然の佳奈の身体を(極力まずい部分に触れないように注意しつつ)退けようとする。先に凍結の解けた唯亜が「あ、あたし手伝う」と近寄ると、佳奈の身体を抱き上げようとした。
……手が滑った。
ゴッ(佳奈の額が冷たい床に当たった音)




