episode36 「……可愛いじゃん」
──来なきゃ、よかった……。
独りになった直後。当の佳奈は本気で、そう思っていた。
目の前の浴衣売り場。商品棚や台の間をウロウロしながら、仲良さそうに喋り笑いあうカップルたちの姿を、目にしたからだった。
──何、これ?私への当て付け?ユア、もしかしてこうなることを分かってて私を置いて電話に出に行ったの?
ぽつねんと浴衣売り場の前に佇むその姿は、もう周囲から抜群に浮いている。チラリチラリと、こっちを見てくるカップルたち。とても顔なんか上げられなくて、佳奈は独りその場で俯いていた。見せつけられているみたいで、悔しかった。けれど、何ともしようがない。
──ユア、どこへ行っちゃったんだろう……。早く帰ってきてくれないかな……。
雄介も全く同じことを考えていた。
──なんてこった。俺だけ、独りかよ……。
周囲をいくら見回しても、カップルばかりが目についた。実際はそうでもないのだが、思い込みというものは怖いもので、カップルばかりだと思ってしまうとそれしか見えなくなる。
しかも、目の前には明らかに女物の浴衣売り場。男子中学生が独りでいるなんて、もう犯罪臭しかしないではないか。
──これじゃ、まるで公開処刑だ。コータの奴、頼むからさっさと帰ってきてくれ……。
唯亜の姿を必死に探す佳奈の目と、所在なげに空を漂う雄介の目が合ったのは、その時だった。
「あ」
「あ」
無意識のうちに、一歩、また一歩と足が進んでいた。
ここまでは、唯亜の計算通りだ。なるほど、確かに二人いれば取りあえずカップルには見える訳で、佳奈をチラ見していた他所の輩も興味を失ったように周りから離れていった。
そこからが誤算である。如何せん、超が付くほどシャイ&不器用な二人。二十秒後、目を白黒させながら雄介がやっと搾り出した二言目は、
「…………………………ど、どうして……ここに……?」
「………………とっ、……友達を待ってて……」
「……………そ、そっか…………俺も、なんだよな………」
途切れる。沈黙多すぎる。
そして結局、
「…………。」
「…………。」
こうなる。
「ああもう!もどかしいな!」
絢南の横で唯亜が大声を上げた。「話のネタもある、相手もいる!この条件でどうしてあんなに黙ってられるわけ!?」
お喋りな唯亜にしてみれば、二人の会話はもどかしい以外の何物でもない。すると、
「ちょっと、あんまり大声で喋んないでよ」と絢南も声を荒げた。
「はいはい。ここ店内、とか言うんでしょ」
口を尖らせる唯亜だったが、
「やりとりが聞こえないじゃん!」
「……はい、すいません……」
──どうしよう。
脳が、リセットボタンを押されたみたいに動かない。
緊張のせいか、他の人の話し声も放送も聞こえてこない。静寂の世界の中に、自分と雄介だけが立っているように佳奈には思えた。なのに目の前の憧れの人はやっぱり近いようで、遠い。
──私、聞きたい事いっぱいあったはずだったのに。確かめたいこともたくさんあったはずなのに。
口を動かしたくても、錆び付いたみたいに開かない。
気づけば佳奈は、すぐ身体の脇に設置されていた商品棚へと手を伸ばしていた。口に回すはずだった力が変換されたのか、それとも何の関係もないのか分からなかったが、とにかく手を伸ばしていた。
「…………それ、見てんの?」
え?
顔を上げると、雄介の目が佳奈の手元の浴衣へと向いている。
「……っいやっこれは……その…………」
慌てて手を引っ込める佳奈。そんな、買うつもりだなんて……………。
……山吹色、とでも言うのだろうか。そこに細々と大小様々な刺繍が施され、所々に可愛らしいハートマークがあしらわれたその浴衣。
派手。とにかく派手。こんなの着たら、ユースケくんも気に入ってくれるのかな。……ううん、無理。私こんな派手なの着れないよ。もっとこう、シンプルなのとか地味なのでいい……。
はぁ。雄介から顔を背け、佳奈はため息をついた。私って、誰に遠慮してるんだろう。
「…………。」
手に取って、眺めてみる。すると、傍に雄介がぎこちない足取りで歩いてきた。
心臓の脈打つ音が、重く響いた。
「……可愛いじゃん」
「キタ!」
歓喜する、唯亜。
「いまの聞いた?これはいい流れきたよぜったい!」
「はしゃぎすぎだって……。あんまり大声だすと向こうに聞こえるよ?」
大興奮の唯亜を宥めながら、絢南は直射日光でも見るように目を細めた。そりゃ絢南だって佳奈が羨ましい。理想の人に誉められる気分って、どんなものなんだろう。
──後は、これで流れに二人が乗ってくれれば。
フリーズしたパソコンの如く、佳奈は動かない。動かないが、見開かれた目だけは雄介の事を追っていた。
──俺、なんか気分悪くするような事言っちゃったかな……。
急に、不安が押し寄せる。
すると、佳奈が動いた。突然その浴衣を掴むとそれを広げ、自分の身体に重ねてみせると、雄介の方に身体ごと向き直る。
そして。ちょっと首を傾げて、恥ずかしそうに言ったのだ。
「……どう?……似合う、かな…………?」
その瞬間の何とも言えない嬉しさを、どう表現すればいいだろう。
──そりゃもう、
「…………似合うと、俺は思うよ」
雄介は、やっとの思いでその言葉を吐き出した。一度口が開いてさえしまえば、後を続けるのはそんなに大変ではない。
「……二宮はさ、髪とか短めだしすごく……さ、爽やかなイメージあるんだよな。……だから……、……そういう明るい色の浴衣よく似合うんだと思う」
佳奈の顔が、パッと花が咲くように明るくなった。もう、さっき浴衣を手に取った時に見えたあの暗い影はどこにも見えなかった。
──そう、二宮にはそういう顔でいてほしい。笑っていてほしい。悲しい顔なんか、見たくない。
「っで、でもさ、なんで俺にそれを?」
気になった事を、そのまま口にする。するとその花はさらに色を紅くして、尋ね返してきた。
「……ダメ……?」
「よっしゃ!」
トイレの脇で一樹も歓喜していた。
「あれ、どう考えても二宮はユースケの事好きだろ!これは決定的!」
「……元から決定してたって話じゃなかったか?」
宏太の言葉を完全に流し、ポケットから妙な形の機械を取り出す一樹。
「なんだそれ」
決まってんだろ、とでも言いたげに彼は笑った。「指向性集音マイクだよ。やりとりをばっちり録音させてもらう」
「お前って奴は……」
苦笑いしながら、ふと遠くに目を遣った宏太の顔が、
……青くなった。
「おい、あれ……」
言われて指差す方を、一樹も見遣る。その顔も、サーっと波が引くように青ざめる。
「まずいな、こりゃ……」
「……想定外の刺客が来やがったな。どうする、止める?」
腰を上げた宏太を、一樹は腕で制止した。「…………いや、待て。これはこれで面白そうだ」
「え?」
「ちょっと、このまま見ててようぜ」
腕を引っ張られてまた腰を下ろす宏太。
「……ったく、どうなっても知らないぞ」
「……似合う?」
「……似合う、だろ」
せっかくうまく行きかけた会話は、結局またそこでストップする。無茶なお願いをしたから、悩んでるのだろうか。ちょっと、聞いてみただけだったのに。
──どうしよう。何か、言わなきゃ……。
焦りを募らせた佳奈が「…………あ、あのね……」と言いかけた時だった。
突如雄介の目が、爆発物でも見つけたように見開かれたかと思ったら。佳奈の手をつかんで、正しく「あっと言う間に」棚の並びの中に引きずり込んだのだ。
「!?」
声の出かかった佳奈の口を、雄介の手がやんわりと塞ぐ(間違っても唇には触れない)。「シーッ」と沈黙を促すと、雄介は黙りこんだ。言われるがまま、佳奈もそうした。
目の前の廊下を、中学生くらいの男女が通過していくのが見えた。どこかで見たことのある、ツインテール……
「あっ……アカネちゃん!?」
気づいたら佳奈は思いっきり叫んでいた。バカ、とでも言いたげに雄介が後ろで縮こまる。
──アカネちゃん!?なんで!?確か数日前にユースケくんに振られたばっかりだったはずなのに……!
「あれ、ニノじゃん。何してんの?」
明音が男子の腕を引っ張りながら、近寄ってきた。やはり顔を合わせたくないのか、雄介が佳奈の後ろに隠れる。
「えっ、えっとっ……」
どうしよう。ユースケくんと一緒にいたのがバレたらヤバい。かなりヤバい。
「……おっお金を落としちゃってっ、棚の下とかにないかなって思って……」
吃り気味に言いながら、立ち上がった。「しゃがんで?」と明音が尋ねてきたので、頷く。
ふーん、と呟き、明音は佳奈をじろじろと眺め回す。あ、何か嫌な予感が……。
「……まさか、その短いスカートでしゃがんだんじゃないよね……?」
訝しげに明音は尋ねた。
!!!
反射でスカートを押さえる佳奈。背後で泡を食ったように雄介が後ろを向くのが感じられた。
「こっ……これは…その…ち、違……」
自分でも何を否定しようとしてるのか分からない。ああ、制服を着てればよかった……。
「……まぁ、いいや」
尚も首を傾げる明音。話題を変えようと、今度は佳奈が口を開いた。
「……そう言えば、どっどうしたの?その横の人……」
「ああ、こいつ?」
笑う明音は珍しく、ちょっと照れ臭そうだ。「B組の、座間。ちょっと色々あって、今付き合ってるんだ」
「あ、ども座間晃です」
座間と名乗ったその彼を、佳奈は見上げる。背、高っ……!
「色々って、どうしたの?」
半分くらい事情を知りながら、佳奈はそう訊ねる。「色々は色々だって」と明音は答えた。
「こないだ、あたしが落ち込んでる時に座間が励ましてくれて、すごくありがたくって。今日ここに用があるっていうから付いてきたんだ」
そっか、と佳奈は笑った。
明音にしてみれば、フラれたなんて経験は初めてのはずだ。きっと、色々と思うところがあったに違いない。少しはにかんだ表情に、佳奈はそんなことを思う。
一瞬、目の端に複雑な表情の座間が映った。
「あ、それであたしたちこれからそこの水着売り場行くんだけど、来ない?」
――え?
佳奈は座間をまじまじと見つめた。
座間は座間で、照れ笑いとも苦笑いとも掴めない笑みを口元に浮かべながら、明音を見ている。
さては、座間の用事に乗じて明音が強引にここまで引っ張ってきたのか。
「ねーニノ、どうする?」
明音の目はまた、いつもの光に戻った。来ようよ、と言っているようにしか見えない。しかも変に遠慮すると、後が怖いのが明音だ。「えーなんで行かないのー」などと言いながら、場所も性別も構わず抱きついてくるのである。
「………………うーん……」
長いこと躊躇った挙げ句、佳奈は微かに頷いた。頷くしかなかった。
――ごめん、ユースケくん……。
「んじゃ行こう行こう」
二人はもう歩き出している。振り返った佳奈は雄介に小さく手を合わせる。雄介は指でバツ印を作っていた。あれはきっと、見てないって意味だろう。
こうして、第一回ランデブー作戦は闖入者のせいで唐突に終わりを告げたのだった。




