episode25 「物理的な距離なんか、遠くたって構わないのに」
「──そこ、違うんじゃない?」
……頬杖をついて妄想に耽る佳奈の顔の前に、突然指が一本伸びて──
「っわぁあああっ!!」
佳奈は思いっきり叫んでいた。
図書館の中である。カウンターの向こうの司書の先生に凄まじい目で睨まれ、佳奈は必死に手を合わせて謝った。
そのまま、斜め後ろを見上げる。
やっぱり。どこか聞き覚えのある、さっきのあの声色。
真後ろに立って指差していた(今はその指を耳を塞ぐのに使っている)のは、雄介だった。
「……ったく、ここ図書館だろ──」
「ごめん……」
なぜか言いかけて口を噤んだ雄介に、佳奈はしゅんとして謝った。
すると雄介もまたちょっと慌てたように、謝ったのだ。「いや……俺の方こそごめん。驚かせちゃって。普通に声、かけたつもりだったんだけど」
──違う。そのせいじゃない。
ユースケくんだから。
声を掛けてきたのがユースケくんだったから、こんなに私は驚いたんだよ。
そう言いたいけれど、未だに名前で呼ぶ事すら出来ないでいる佳奈にはそんな恥ずかしいセリフを口に出せる勇気は出なかった。
と言うか、そんな事を言おうとする前に雄介が口を開いた。だから言うタイミングを逸した。うん、そういう事にしておこう。
「そうそう、それで」雄介の長い指が、佳奈のプリントの端を指差す。「チラッと見えたんだけど、それ……」
[(2)発展途上国の児童などの支援を行っている国際連合の団体は、(WHO)である。]
「ここの答え。世界保健機関(WHO)じゃなくて、世界児童基金(WNICEF)な」
「え、そうだったっけ?」
「小学校のころよく募金活動してたアレだよ。……ってまさか覚えてない?」
思い出した。思い出しました。
佳奈はあはは……と笑いながら照れ隠しに頭を掻いた。こんなの間違える私って、もしかして小学生以下じゃ……?
「それと、ここの問題。非核三原則じゃなくて核拡散防止条約。非核三原則は勝手に日本が唱えてるだけじゃん。それから、ここの答えは東京議定書じゃなくて京都議定書。確かに名前似てるし、臨海副都心には会議場があるけどさ」
「そっそれはそのっ……分かんないから知ってる会議場のある地名書いたんだけど……」
顔を真っ赤に染める佳奈に、白い目を向ける雄介。「……知ってる会議場の筆頭が東京ビッ〇サイトって……」
「え!?いや、別に深い意味はなくて……中学受験の時にたまたま会場だったから……」
「まだあるな、間違い。……国際連合が戦後に設立した理由が[国際連盟という名前はもう使われてたから]って二宮……」
「……ぜんぜん分かんなくて当てずっぽうで……」
「……参考書、ちゃんと読もうぜ。もう二度と世界中を巻き込むような戦争が起こらないように、って理由だろ」
「だって参考書分厚くて字が細かいから読みたくないんだもん……」口を尖らせる佳奈。
嘆息して、雄介は指を立てた。「そーだな……。音読すれば案外覚えられるかもしんないぞ。読むのが嫌いならなおのこと、一回で覚える工夫しなきゃだし」
一理ある。あるけどさ……。
「……じゃあ伊勢原くんの覚え方、教えてよ」
振り返って肩越しに雄介を見上げながら、佳奈は駄々をこねるような口調で訊ねた。意識した訳ではないけれど、まるで彼女が彼氏に甘えるみたいだった。
すると。
「俺なら──」
そう言って、雄介は机の上に置いたカバンから分厚い参考書を開き、プリントを脇にどけて前に置くと、佳奈のすぐ後ろから手を伸ばして、説明し始めたのだ。
吐息さえ、直に感じられるほど近くで。
「例えば、ここ。国連難民高等弁務官事務所(UNHCR)の抱える問題点の所、例えばこれがどうしても覚えられないとき、俺ならラインマーカーで線引いて音読する。何度も何度も覚えられるまでな。そんで次に、簡単な年表を作って丸暗記。文章で見るからいけないんだ、図にしちゃえば分かりやすいかと思ってさ。意外と効果が高いんだ」
忙しなく開閉する唇の間に、白い歯がチラチラ輝きを放つ。ぼーっと佳奈が見蕩れていると、雄介は笑いかけた。「この程度の努力て、点って上がるんだ。今度、やってみなよ」
あんまり佳奈が黙っているので、不安になったらしい。恐る恐る、雄介が訊ねてくる。
「……具体的に分かんないとこ、あるか?」
その言葉で我に返った、佳奈。
教科書をパラパラ捲り、小さな声で白状する。「…………ぜんぶ」
「ぜんぶって……」
一瞬呆れたように雄介は声を上げたが、
「……ま、いいか。んじゃ試験範囲の最初の方から全部説明してやるよ」と言って、参考書の隣にノートを広げた。
雄介の声が、今は何よりも力強く思えた。
──なぜだろう。
あんなに館内冷房が効いてたはずなのに、暖かい。
ユースケくんに勉強を教えてもらってる、私。ちょっと低めの声が、私の首もとを優しく撫でてる。直接触れてるわけじゃない。なのに、腕を握ったあの時よりも暖かく感じるのは、なんでなんだろう。
これが、恋愛の適切な距離っていうモノなのかな。あんまり近すぎると、相手がちゃんと見えなくなるかもしれない。でも遠すぎたら、心はそのまま離れていってしまうかもしれないから。
それなのに。
ユースケくんとの間に心の隔たりを感じるのは、私が間違っているからなのかな。
この距離で何も感じないはずはないのに、まるでユースケくんはわざと私に無頓着な風に振る舞っているみたい。ううん、今に始まった事じゃない。いつだってユースケくんの心は私からは遠くって、どんなに私が追いかけても、手を伸ばしても、届かなかった。
物理的な距離なんか、遠くたって構わないのに。そのぶん心が、近づけるのなら……。
今、この想いを吐露してしまえば、全ての悩みが消えるのかな。
この苦しい気持ちを、解き放ってしまえるのかな。ユースケくんに、気づいて貰えるのかな。
だけど、怖い。私にはやっぱり告白なんか出来ないよ。
振られるのが怖いから?そう、怖い。心底怖い。信じたモノに裏切られるようなあの嫌な気持ちを身をもって知ってるからこそ、余計に怖いと感じるんだ。経験しなきゃ、分からないよ。
だけど必ずいつかは、相手に想いを伝えなきゃならない時が来るんだよね。それはもしかしたら、今かもしれないんだよね。
ねぇ、教えてよ。ユースケくん。
なんであなたは、こんなに私と近くても平気なの?
あなたにとって、今の私はどんな存在なの?
あなたに気づいて貰えない私は、どうすればいいの?
「……つまり、憲法第九条の改訂のために、当時の政府はまず憲法を改訂しやすくする事にした訳。だけど、改憲派の政治家の汚職──確か企業献金が発覚して、一度は立ち消えになった。で、去年の国会でまた議論されはじめてるってわけだ。……って二宮、聞いてる?」
いつの間にか辺りを支配していた静けさ。気になって佳奈の顔を覗き込んだ雄介の口から、
「────寝てんのかよ!!」
……思ったよりもずっと大きな声が出た。
鬼の形相の司書に睨まれ、雄介は肩を竦める。これじゃ俺、人の事言えないじゃん。
佳奈は、眠っていた。どこか寂しげな──悲しい笑みを口許に浮かべながら。
どこか見覚えのあるその顔はまるで、何か苦しみを訴えているように感じられた。
いつから、寝てたのだろう。というか、雄介の説明は聞こえていたのだろうか。
──或いは、説明が下手すぎて聞く気がなくなって、退屈で寝ちゃったとかか。
まさか妄想に耽っていて眠りに落ちたのだとは知らず、はぁ、と雄介はため息をついた。どうして俺は、こうなんだろう。
ふと、佳奈の頭を撫でてみたくなった。別に深い意味があるわけじゃない。ただの衝動だった。ちょっと跳ねた佳奈の髪がまるでボールみたいで、撫でやすそうだったから。それだけだ。
手を、そろそろと伸ばす。腕が震える。ったく何してるんだか、と心の中で自分に毒突く雄介。それでも、伸ばした手を引っ込めはしなかった。
艶のある黒髪に触れた瞬間。
「……むにゃ………」
佳奈の唇が、動いた。
「ぅわわっ……」すぐさま伸ばした手を引っ込める雄介。も……もしかして、起きてた……?
杞憂、だったみたいだ。唇をぱくぱくさせて言葉にならない何かをつぶやくと、それきり佳奈はまた眠りに落ちていった。きっと寝言を言っただけだったんだ、と納得する。
あらためて手を伸ばすと、なぜだろう。今度はすっと腕が伸びた。
手の中で、サラサラと髪が解れる。擽ったいのか、猫のように微かに首を竦める佳奈。その仕草を、無性に愛おしいと感じる自分がそこにいた。
先生や、クラスの奴らの言った通りだ。やっぱり俺、二宮の事がきっと好きなんだな……。
──その感情を確認出来ただけで、今は十分だ。ここは何だかんだで人目もあるし、二宮に起きられたら明らかに俺は不審者だしな。
手を、離す。その瞬間、それまで身体の中を流れていた温かなモノがスッと消えたような気がして、雄介は思わず身震いした。天井で轟音を上げる冷房が、今は強烈に寒く感じた。
それが、佳奈がかつて感じたそれと同じものだとは、雄介には知るよしもなかっただろう。
……雄介はしばらく、自分の腕を枕にして眠る佳奈の穏やかな寝顔を目を細めて眺めていたが、
「……んじゃ、俺は先に帰るからな」
黒髪の間に小さく覗く耳に、そう吹き込んだ。佳奈の首が、心なしか微かに頷いた気がした。
よっ、とカバンを背負うと、雄介はそこを後にした。
差し込んだ夕陽が、綺麗だった。




