episode22 「アカネ、伊勢原に告白しなさい」
翌日、朝。いつものG組の教室。
「よっしゃ出来たーっ!」
天高く画用紙を掲げ、恍惚の表情で歓喜の声を上げたのは、唯亜だ。
門が開く午前七時にあわせて登校、強制連行してきた理苑をモデルに絵を描くこと一時間。やっと、やっとこの苦労が報われた……。
「……私、もうこの課題終わらせてたのに……」窶れた声の理苑に、唯亜はドヤ顔で完成品を披露する。「どう、これなら提出しても恥ずかしくないでしょ?」
鼻先に絵を押しつけられた理苑は、迷惑そうにその絵を一目見て、率直な感想を述べた。
「……なんか、顔が怖いんだけど」
「怖いってどういうことさ」絵を裏返して眺めながら唯亜は訝しげに尋ねた。「モデルのあんたにそっくりだと思うけど」
「そうなんだけど…何となく怖いって言うか、不気味って言うか。目が虚ろって言うか」
「うーん……」唸る唯亜。見るからに納得してなさそう。とはいえ、理苑にも上手く説明できる自信はなかった。
唯亜の絵は、基本的に大雑把だ。全体的なバランスは取れていても、部分々々の微調整が上手くいっていないから、何となく絵の印象がバラけてしまう。で、魅力が半減している、というような感じなのだ。しかも実物画だからこの程度で済んでいるが、抽象画ともなるともはやピカソの絵のようになってしまう(決してピカソを貶しているのではない)。こんな抽象的な説明、どうやってしろと言うのだ。
もっとも、本人にその自覚があるのかは不明──いや、断言してもいい。ぜったいない。
「おはよー……」
ガラッと扉のスライドする音とともに、目をこすりながら佳奈が教室に入ってきたのは、その時であった。
「おっはカナ」途端、唯亜の目が獲物を見つけたように輝いた。「ねぇちょっとこれ見てみてよ!リオの奴、これを薄気味悪いとか言ったんだよ!どうかしてるでしょ!」
一目見た佳奈は、一言。
「……リオちゃんの言う通りだと思うよ」
ガーン!
「え…そんな…マジで?」
うん、と躊躇いもなく頷く佳奈。唯亜はがっくりと椅子に座り込む。
「……具体的に、どのへんがどう不気味なの」低くつぶやきながら、ペンを手に取る。「え?私?」と佳奈が訊ねると唯亜は首を縦に振った。
「そうだね………例えば、目ってそんな素直に輪郭全部描く必要ないんじゃないかな。ほら、マンガとかだと目の下の部分って省略されてるでしょ。実際の人間で見ても、あの辺りって光で照らされてるからあんまりはっきりとは見えないんだよね。逆に、そんな濃く描くと何だかアイシャドウみたい。アイシャドウなんてリオちゃんぜったい似合わないし、なんかかえって怖いよ」
ゆっくりゆっくり佳奈が指摘するそばから、超高速で手直しを進めてゆく唯亜。スピードにズレこそあれど、この二人は案外いいコンビなのかもしれない。再びモデルにされながら、ふと理苑はそんな事を思った。
「まぁ、だいたいいいんじゃない」
絵を手に佳奈がつぶやくと、唯亜は今度こそ歓喜した。
「やった終わったーっ!!」
「……確かに、改善はしたね」佳奈の広げた絵を覗き込んだ理苑、そうは言ったもののまだ少し不満げだ。「そもそもさ、なんで私体操着着てる設定になってるのよ。今ブレザーなのに」
「体操着の方が描きやすいから」
実にあっさりした回答。言ったあとで「あ、あとそっちの方が男子には人気出そうだしね」と付け加える唯亜。
「……出さなくていいよ」
理苑の冷ややかな視線などものともしない唯亜、ふと佳奈に尋ねてきた。
「そういえばカナ。あんたの絵はどんな感じなのよ」
「え?いや、別にフツーの絵だよ。ウチのお母さんの」
素直に返答する。美術は二限なので内職は不可能、結局自作の絵が一枚すら完成しなかった以上、昨日の夜に母に書いてもらったアレを提出するしかない。そう思って、スケッチブックにはあの夜母が描いたあの絵を挟み込んで来た。それっぽいサインも書いたし、母親が描いたとはまさかバレまい。
「見せて見せて」寄ってくる唯亜の面前に、佳奈はその絵を掲げた。理苑が「おおー」と歓声を上げる。
「すごいねカナ、こんな絵上手かったっけ?」
素直に褒めてくれる理苑の横で、猜疑心丸出しの顔をする唯亜。「あり得ない…カナがこんな上手く絵を描けるなんて…そんなのあり得ない……カナ、あんた何やったの素直に白状しなさい」
「いやだから私が描いたの!」
「……これ、ホントにカナが描いたんだよね……?」
理苑まで引きずられて疑心暗鬼になっている。
「ほ、ホントだよ~…」苦笑いの奥で実はけっこう冷や汗をかいている佳奈であった。
──私が描いたんじゃないってバレたら、割とマジでやばそう。ぜったい隠し通さなきゃ。
「も…もういい?」
なおも見たげな二人から絵を回収しようとしたその時───
「あれ?カナこれ誰?」
のんびりとした声が、佳奈の背中を叩いた。この声、ミユ?
振り返ろうとした瞬間。
「……ちょっ…カナ……」
声のした方を向いた唯亜の顔が、驚き混じりのニヤニヤ顔にフェードしていくのが視界の端に消えた。
──まさか。いや、そんなはず…あの絵は確か……
「キャアアアアアアア!!」
振り返った瞬間。佳奈絶叫。
そこには、確かに今朝自分の机の上に置いておいたはずの、雄介の絵が!
「ねぇ、これ誰なのカナ?」
「教えてやりなよカ…って、もしもーしカナさん聞こえてますかー?」
眼前で手を振る唯亜。佳奈からの反応はない。気でも失ってるのか。
「んじゃ私が教えちゃうよー」
耳元で唯亜はそう囁いた。
途端、
「──それはやめてお願い!」我に返ったように叫んで、佳奈が飛びかかってきた。
唯亜ではなく、魅夕に。
教室の端にいても見えるくらい絵を高く掲げている魅夕に向かって。唯亜と机の存在を完全に無視して。
ガターンッ!
膝を抱え、佳奈はその場に踞る。
「……あんたってホントにそこ痛めるの好きだねぇ」呆れ声を吐く唯亜。「い…痛めたくて痛めてるんじゃないもん!」と鼻声で喚きながら佳奈は再び魅夕に飛びかかろうとした。が。
魅夕は既にただならぬ気配を察してか、絵を理苑にパスしていた。
「何だか知らないけど私ダメージ受けたくないからっ!」
「それ私もなんだけどっ!」
理苑もそのまま誰かにパスしようとする。ちょうどよく伸びてきた手があった。あ、これで──
「バカ────!」
佳奈の金切り声が響き渡った。手を伸ばしてきたのは、唯亜だったのだ。
「さんきゅーリオー。さてカナぁ、これはどうしたの?まさか伊勢原の事ストーキングして」
「それやるとしたらユアでしょ!ってか返してよぉ!」声を枯らす佳奈。ああ、前にもこんな事あったなぁ……。
「やだ。質問に答えたら返してあげてもいいけど」
もう涙声である。「……分かったよ!答える!答えるから返してっ!」
「んじゃ質問一。あんた、伊勢原の事好きなの?」
「ダイレクト過ぎるよっ!」
……こんな具合に、一時限目が始まるまでの間佳奈への追及は続いたのであった。
◆ ◆ ◆
「……でさぁ、カナ最後まで伊勢原の事は否定してたんだけど、あれ絶対好きだと思うんだよ」
「あはは、本当ユアはよくやるよねぇ。なんかニノが可哀想」
放課後の帰り道。ベンチに座って談笑しているのは、唯亜と絢南。そして明音だ。
「でも、その絵ってニノのスケッチブックに挟まってたんでしょ?ならもう言い逃れ出来ないじゃん」
「そーなんだよね。だけど、あんだけ上手い絵がカナに描けるはずないとあたしは思う」絵の写メを見せながら絢南は首を捻った。唯亜が撮って転送したものだ。絢南ではない。
「確かに上手いねー」
熱心にその絵を眺める明音。「ねー、これあたしのケータイにも送ってよ」
「いいけど」
絢南が言った時には、もう唯亜が送信ボタンを押していた。「って早っ!」
「ふふふ。年季の入り方が違うんですよ」
「入んなくていいから」
「 」
「…………あれ?」
割り込んで来るとばかり思っていた明音の声が、聞こえない。唯亜と絢南が横を見ると、明音は送られてきたその画像に釘付けになっていた。目を輝かせて。
「……どうしたの」
訊ねられ、明音は絢南を振り返った。「うん、上手いなぁって思って」
「……え、そんだけ?」
「そんだけだけど。ほら、この微妙な表情作りも上手いし、シワとかちゃんと意識して描かれてるじゃん?まんま写真を写したような感じなのに、色分けも考えて描かれてるよ。変だね、これ」
笑う明音を前に、唯亜と絢南は顔を見合わせた。明音に、絵を見る才能があったなんて。
「うん、ホントこれは上手いわ……悪いけどニノが描いたなんて思えない…………」
ケータイの画面に目を落とし、絵を眺める明音。その姿に、なぜか佳奈の姿が重なった。
さっきはあんな言い方をしていたけれど、実際のところ佳奈はどう思っているのだろう。
絢南は佳奈に聞いてみたくなった。邪な考えではなく、本心で。
──そうだ。
「アカネ、この前言ってたのってさ、本気なの?」
「へ?」生返事する明音に、絢南は続ける。「ほらこの前、伊勢原の事が前から気になってたとか言ってたじゃん。あれ、ガチで言ってたの?」
「ガチなわけないじゃん」
何を今更、とばかりに明音は笑った。「ニノの反応が見たくてやったんだから。まぁ、ちょっとやり過ぎたような気はするけどね」
──ぜったいそんな事思ってないだろ……。また顔を見合わせた唯亜と絢南の目に、同じ事が書かれている。
「だけど、カナ割と本気でアカネの嘘を信じ込んじゃったみたいだよ。ホントの事を言った方がいいんじゃない?」
絢南の提案に、明音は目を丸くする。「そんな事したら、あたしニノに撲殺されちゃうよ」
「するだろうな……」
軽いパンチのつもりで本気のフックを繰り出してから、うっかりに気がつく天然少女佳奈の顔が瞼に浮かぶようだ。だけど、
「……そうだと分かってるなら、なんであんな事言ったのよ」
「…………!」
青ざめる明音に、絢南は頭を抱えたくなった。──ああ……ここにもバカがいた……。
「んじゃ、こうすればいいよ」
突然、それまで会話に入ってこなかった唯亜が言った。
「アカネ、伊勢原に告白しなさい」
!!!
思わず唯亜を振り返る。明音が叫んだ。「なんで!?好きでもないのに!?」
「だからこそでしょ」唯亜の目が、光る。「振られたから関係は無くなった、って事にすれば、カナも納得するよ。テキトーにコクって爆死するのくらい、百戦錬磨のアカネなら余裕でしょ?」
なるほど、名案だ。
「だけど……」
それでも渋る明音に、唯亜の顔が迫る。「言っとくけど、カナあの時泣いてたんだよ。責任の一端はアカネにだってあるんだからね」
責任転嫁に聞こえなくもないが、それを言われると返す言葉が無いのか渋々明音は頷いた。「……まあ、そこまで言うなら……」
「それでいいんじゃない?ねえ、アヤ?」
笑った唯亜は絢南の返事も聞かずに話を切り替える。「そう言えば、こないだアヤが辻堂の改札でね……」
「え、何それー」
「――もうその話は蒸し返さないでっ!」
◆ ◆ ◆
思えば、
この時はまだ誰もが、全てが上手く回っていると思っていた。
佳奈も唯亜も絢南も雄介も一樹も、安心の中にいた。各々それなりに葛藤を抱えながらも、それはまだ平穏な日々だった。
裏では着々と、崩壊へのカウントダウンが始まっていたとも知らずに。
運命の歯車はもう、止まりはしない。




