episode20 「……そう、固く考える事でも無いんじゃないのか?」
二時限目が、終わった。
「ったくどういう事だよ、クラスの三分の一が居眠りって……」
ぶつぶつぼやきながら、C組の教室を出た茅ヶ崎は長い廊下を歩いていた。一時限目がG組、二時限目がC組だ。
──それにしても今日の寝オチ率の高さは一体何なんだ。C組はまだしも、G組に至ってはもはや半分が眠っている有り様だった。俺の授業はそんなにつまらないのか?
軽く、へこむ茅ヶ崎。
G組と言えば、結局海老名の手の中に何があったのかは分からずじまいだった。尋ねるたびに答えが「音楽プレーヤー」「補聴器」「USBメモリー」「ハンドマイク」という具合に転々としたので、少なくともそれらではないのだろうけれど。
──まぁでも、俺も中学の頃は毎日所持品検査に怯える生徒の一人だったし、あいつの気持ちも分からないではないんだがな。
と言うか、いざ取り締まる側になってみると、ぶっちゃけ所持品検査など面倒臭い。取り上げた後の処分や保管にも困るし、親から苦情は来るし、それならいっそ検査なんてやらなくていいや、なんて気分になる。それもまた、教師になって初めて理解の及んだトコロかもしれないな……。
「先生」
どこか強ばったような声とともに、茅ヶ崎の肩に手が掛かったのは、その時だった。
──誰だ?
振り返ると、そこにはついさっき教えてたばかりのC組の生徒、伊勢原雄介が立っていた。
伊勢原と言えば、この学年でも指折りの秀才だ。去年日本史を担当した金沢先生なんか、「伊勢原に満点を取らせないように問題を作る」などと息巻いていたのは記憶に新しい(結局満点を取られたらしいが)。その伊勢原が俺に声を掛けてくるとしたら、
「どうした伊勢原。質問か」
……あえて優しい口調で尋ねたのは、雄介の表情が何だか冴えていないように思えたからだ。 すると案の定、雄介は活気のまるで失せた声で、
「……はい。ただ、授業に関することではなくて」
──ほう。珍しい。
「授業でないとしたら、アレか?他人に聞かれたくないような話か?」
「まぁ、そうです」
複雑な心境の茅ヶ崎。自分に何を期待しているのか知らないが、あんまり深い話は苦手だし出来る自信がない。でも、頼られていると思うと案外悪い気はしないものである。しかも相手が伊勢原なら尚更のこと。
「そうか。ここは人通りが多いからな」茅ヶ崎は軽く周囲に目をやると、こう提案した。「んじゃ文系教員室に来い。面談室を一つ空けとくから、そこで話そう」
雄介は、こくっと頷いた。
文系教員室と理系教員室、それに特別教員室。この学校の教員室は紛らわしいことに、三つに分かれている。仕方ない。二千人の生徒を抱えていながら少人数教育を掲げるここ湘南中高には、非常勤も含めると教師が二百人超もいるのだ。一つの職員室ではとても面積が足りないし、大学のように研究室を作ったところで根本的解決にはならない。だいたい、どちらにしても生徒が迷ってしまうだろう。結果、文系教科を文系教員室に。理系教科を理系教員室に。芸術や保体、総合学習その他諸々を特別教員室に分類し、なんとかして利便性と効率の問題を解決したのだった。
……ずらりと並ぶ面談室の一つを解錠すると、茅ヶ崎は雄介を中へ招き入れる。
「それで」長椅子に腰掛けるた茅ヶ崎は、早速話を切り出した。「どういう話だったんだっけ?」
「……実は、悩んでる事があって」
机を隔てた反対側の椅子に小さく縮こまって座った雄介。やはり、声に張りが感じられない。
「チガセ……先生は、話してる相手に対してなんか息苦しさを感じたりした経験、ありませんか?」
──いま、チガセンって言おうとしてなかったか?
「無いではないけどな」イラッときてつい低い声で答えてしまった茅ヶ崎。暗い表情を目にし、慌てて元の声に戻す。「もっとこう、具体的に言えないか。例えばそうだな、誰々っていう女子相手だと急に胸が締め付けられるような感覚に陥ったりとか、そういう風に……」
冗談半分の例えだ。いかにも真面目な伊勢原が、そんな感情を抱くとは到底───
「……そうです。まさに、そんな感じなんです」
「ゲホゴホンッ!!」
茅ヶ崎は思い切り噎せた。実は笑いを誤魔化すためとは言えない。
──だって!そんな面白いギャグがあるか!?学年一の秀才が社会科の教員に恋愛相談なんてそんな面白い……!
そう、
「そりゃお前、カンタンだ」
(再び笑いを誤魔化すために)咳払いすると、茅ヶ崎は平静を装った顔で言った。「そんな風に感じるのなら、お前は多分、その女子の事が好きになったんだ。俺にも、そういう経験はある」
「やっぱり、そうなんでしょうか……」
消え入りそうな声で、呟く雄介。やっぱり、という事は可能性を考えてはいたのだろう。
雄介はふと思い立ったように、訊ねた。
「先生って既婚でしたっけ」
「そう見えるのか?」苦笑するしかなかった。「結局その恋は、叶わずじまいだったよ。如何せん好きになった相手ってのが超美人でな、もたついてたらあっさり他の奴に先を越されちまった。恋愛ってのは、タイミングが大事なんだ」
雄介も苦笑いする。が、その顔は長くは続かない。
「……でも俺、恋愛になんかこれまで一切興味持ってなかったんです。むしろ、下らないと今でも思います。そんな風に思ってる人間が、恋なんてするものなんでしょうか?」
……改めて、やっぱり真面目な性格の持ち主だと茅ヶ崎は思う。
恋愛をする意味、自分の関心の所在。中二病の一種というのか、誰しも一度はそんな事をとりとめもなく考えるものだ。でも普通の人間なら、そこで話は止まってしまうだろう。何だかんだ考えた挙げ句、結局は自身の欲望に従ってゆくのが常だから。けれど、真面目な雄介は周りに流される事なく、ごく論理的な考えを積み重ね続けた。その結果、恋愛なんか必要ないという結論に帰着したのだろう。そこを否定する気は毛頭ない。理詰めで得られたその考え方は、確かに間違ってはいないと思う。付き合った経験がないから何とも言えないが、相手に気を使うのはあれでかなり大変なんだろうから。
でも、
「……そう、固く考える事でも無いんじゃないのか?」
言葉を選びつつ、茅ヶ崎は敢えてそう言った。
「恋愛なんて経験の一種だ。経験してみなければ、それが良いことなのか悪いことなのかなんか判断出来ない事だって、ある。あんまり積極的過ぎて学業を疎かにされても教師としては困るけど、経験もしないで決めつけるのは食わず嫌いじゃないか?」
「そんなの、効率が悪いじゃないですか」
食い下がる雄介。ふふっ、と笑い声を上げると茅ヶ崎は指を組む。「効率なんて考えなきゃいい。遠回りして答えを出すよりも、問題を遠ざけようとして感情と理性の板挟みで苦しむ方が結局は遠回りだと俺は思うぞ」
「そういうものでしょうか……」
尚も目を上げられずにいる雄介に、茅ヶ崎は微笑んだ。なんというか、新鮮で、微笑ましかったのだ。秀才君がこんな話題で真剣に悩む姿が。
「まぁ、どうするも伊勢原の自由だけどな。けど、お前は認めたくないだろうが、その相手に特別な感情──っても恋慕に限った話じゃない。例えば嫌悪感とか劣等意識とか、そういうのを抱いてるのは可能性としては十分あり得る。俺から言えるのは、そこまでだろうな」
暫しの間、雄介は黙って俯いていたが、
やがて、意を決したようにサッと顔を上げた。その目にはいつもの秀才の光が宿っている。
安心した。元の自分に、戻ったみたいだ。
「わかりました。色々、考えてみます」
ありがとうございました、と小さな声で言って出ていこうとした雄介を、「あー、ちょっと待った」と茅ヶ崎は呼び止める。
「ずっと気になってたんだがな、なんでこんな相談を俺に持ちかけたんだ。生徒相談室もあるだろうし、同じ社会科でもこういうのは倫理の旭先生の方が詳しいだろう」
ああその事か、とでも言いたげに立ち止まると、雄介は言った。
「最初は俺も旭先生に伺おうと思ったんですけど、なんか忙しそうで。そしたら茅ヶ崎先生は暇そうにしてたので」
──聞かなきゃよかった。




