episode02 「……超能力法、でしたっけ」
「……と言うわけで再び昭和四十八年、刑法、民法、商法は一斉に改訂された。これを第二次三法改訂と呼ぶ」
チョークを片手に説明をし終わると、長身の先生は静かな教室を見渡した。胸ポケットにクリップで着けられた名札には、「湘南中学高等学校社会科教諭 茅ヶ崎啓之」とゴシック体の文字で書かれている。
横長の黒板に整然と並ぶ「憲法改正問題」「司法の独立」といった文字。ここがいま公民の授業中であることを、何よりも如実に示している。ちなみに今は五限、このあとの六限は音楽だ。
見回した茅ヶ崎は心の中で一言、つぶやいた。
──妙に、静かだな。
窓際に目をやる。夏至もほど近くなってきたこの時節、五限のこの時間帯は外からの直射日光が眩しすぎて窓の側はあまり好まれないものだが、いかんせん暖かいので昼下がりの居眠りにはもってこいである。はたして、あの窓辺の生徒は、
絶賛爆睡中であった。
やれやれとため息をつく。この分ならあと三、四人くらいは今ごろ夢の国だろう。大事な所ではないから別に構わないのだけれど、教師として居眠りを見過ごすのはよくない、のだろうな。そう思い改めて教室を見回すと、机を枕に寝ている生徒が他にも二、三人はいるようだった。
とは言え、普通に起こすのはどこか面白くない。
茅ヶ崎はちょっと息を吸い込むと、
「ここ、期末テストに出るぞー」
途端、弾かれたように数人が顔を上げた。
ガタンッと椅子の鳴る音に、さざ波のような笑い声が重なる。何と分かりやすい反応であろうか。
──釣れたな。
内心ニヤリと笑うと茅ヶ崎はまた黒板に向き直った。他方たたき起こされた生徒達はというと、今更のように慌ててノートを開きペンを構えている。
ああは言ったものの、茅ヶ崎にしても本当にテストに出す気などはさらさらなかった。だいたい、中間試験が先週終わったばかりなのだ。山のような採点に追われる側の教師にしたって、実施一ヶ月前から期末試験の事など考えたくない。
試験が嫌なのは何も生徒に限った話ではない、というのもそうだが、生徒の立場では辟易するばかりでも教師の立場に立つと納得だったり理解出来ることって案外多いのである。人間、やっぱり相手の立場になってみないと相手の気持ちを慮るのは難しいのだなぁとつくづく思う今日この頃の茅ヶ崎である。
「先生、どこが出るんですか?」
……半分自分の世界に入りかけていた彼の意識を、さっき飛び起きた生徒の不機嫌そうな声が強引に現実へ引きずり戻した。とっさの質問に茅ヶ崎は、
「いや、別にどこも出さないぞ」
本音を明かしてしまった。
途端、「えーーっ」の大合唱が彼の短絡回路を責める。後悔に頭を抱えたくなった茅ヶ崎だが、もう遅い。
「なんだよー出ないなら寝かしといて下さいよー。俺昨日徹夜でレポート仕上げて死ぬほど眠いんスからー…」
「あ、それ俺もー―……」
今が何の時間だと思ってやがる。口には出さずにぼやくと、茅ヶ崎はパンパンと手を叩いた。
「あ? レポート? そりゃ別の教科だろう、ほら起きろ起きろ」
「しょーがないじゃんー、あのレポート超面倒だから、後回し後回しってしてたら提出日の今日になっちゃったんだもん」
「あのな、そりゃ前日までため込んだお前らが……って、こらまた寝るな!」
今度はさざ波ではない、明るい笑いが溢れた。
何だろう、不思議と安心感に満たされるこの感覚。
そうだ、普段ならここ中学三年G組はこれくらい賑やかなクラスなのだ。違和感の正体がやっと分かって、茅ヶ崎は独り心の中で頻りに頷く。
──だって、静かな三-Gなど不気味極まりないじゃないか。そりゃさっきまでそうだったけどさ。
とは言え、さすがにうるさい。うるさすぎる。
……ふと、茅ヶ崎は思い立った。教師の夢、“咳払いで静かにする”をやってみよう。
「──ゴホゲホン」
咳払い……のつもりが、噎せて変な音が出た。遠回しに「静かにしろ」と伝えたつもりだったのに、むしろ先生の目の前の生徒たちがクスクス笑い出す。
ひそひそ話が眉根を寄せた茅ヶ崎の耳に漏れ聞こえてきた。
「……チガセンの咳払いってなんか面白ぇよな……だいたい顔と不釣り合い過ぎでしょ……」
「わかるわかる、無理してやってる感半端ないから逆になんか可笑しいんだよな……」
チガセンとは茅ヶ崎のあだ名である。
軽く傷ついた茅ヶ崎、ふん、どうせオレは咳払いの似合わない教師だよと心の中でちょっと拗ねつつ、
「ほらお前ら騒ぐな! 授業続けるぞー」
自分にも聞かせるように大声を出した。
“暖かい”と言うよりは、“暑い”に近い天気。五月晴れの深みのある綺麗な蒼色と、新緑真っ盛りの木々を彩る明るい緑が、午後の窓をおおっている。ざわりと少し樹が揺れ、催眠ガスまがいの温かな風が初夏の神奈川の空を渡っていく。
この催眠ガスこそが教師の大敵である。如何せん、ボール衝突対策のため校舎内の窓は全て強化ガラスなのだが、そのわずかな隙間も見逃さずにそれは侵入してくるのだ。もっとも、気体ではないので防ぎようがないのだが。
そして、ここにその被害者がもう一人───
「ふぁ~ぁ」
口を思いっきりあけて無遠慮な大あくびをしながら、最後尾から2番目の列に座っているその少女は、眠気でぼやける視界で黒板の文字に目を凝らした。
日本全土どこにでもいそうな、ごく普通の女子中学生。黒が基調のブレザー風制服に、肩あたりまでのばしてヘアピンで前を留められた黒艶のある髪。胸元に付けられた学校のロゴマーク入りブローチは、差し込む陽光に照らされて真紅の輝きを放っている。
頭を振って眠気を払い、開かれていないばかりか教科書の下に積まれている「公民」のノートを、少女は手に取った。表紙には、中学生らしい丸っこい形をした、
[中学三年G組 二宮佳奈]
の文字。それが、彼女の名前だ。
さて、ノートを開いた佳奈は再び黒板に目を凝らす。うねるような独特の茅ヶ崎の文字が、まだ少し霞んで見える。
──イマイチよく見えないなぁ。
佳奈は眉をひそめた。
――てか、なにあの「三軒分立」って。漢字間違い? ラーメン屋さんか何かじゃあるまいし。
が、指摘するのも面倒なので、そのまま言わないでおく。
──だいたい、あんな汚い字読めるわけないじゃん。別に自慢するわけじゃないけど、これでも視力は裸眼で1.5あるんだよ私。ま、さすがに脳が半分寝てるような状況で、あのヘビみたいな汚い文字読み取れって方が、ムリな注文だよね。
解読を早々に放棄して、佳奈は前に座る友達の背中を叩いた。なぜか先生が大きなくしゃみを飛ばした。
「ねーリオちゃん。あれ何て書いてあるの?」
……叩いてから、はっとする。前のコイツも、寝てやがったのだ。
というか、よく見ると佳奈の前と左右みんな寝ている。
──うわ、逆にすごいなコレ。
なんだかもう、ノートを取るのが面倒になってきた。いいや、と呟いて――何がどう“いい”のかは考えずに――佳奈は机に顔を埋める。先生の声が木製机に反響して、普段より低く聞こえてくる。うん、いい子守唄だ。
「……よって、この年の三法改正には主に二つの主眼があったわけだ。このうち一つは、前年つまり昭和四十七年に公布された某法律が元になっている。……と、まあここまでは昨日の授業でも少し触れたところだな。法律名何だか覚えてるか、二宮?」
「ふぁいっ!」
いい感じに寝かかっていた佳奈は呼ばれた瞬間バネのように勢いよく立ち上がり──、
その勢いで太ももを机に強打。
ゴン。ともガン。ともつかない鈍い音に遅れて「痛った!」という声が教室に響いた。クスクス笑いの渦に飲まれながら、呆れ顔の茅ヶ崎はまた「ゴホンッ」と咳払いをかます。
逆効果。
――もうオレ、六限の授業放棄して帰りたい……。
などと弱音を心の中にぶちまけ、茅ヶ崎は続けた。
「……それで、答えは何だ二宮」
佳奈は涙目で太ももをさすっていたところだった。
――えっと、確か前回の授業でやったんだよね。
ノートをめくる。探す。見つからない。
「……まだか?」
クラス中の視線が佳奈に殺到する。必死に探すうち、佳奈はある重大な事実に気がついた。
──そうか。前回ノート忘れて別のノートに板書取ったんだっけ。
ゴソゴソと鞄を漁って、「化学」と大きく丸文字で書かれた明らかに社会とは無関係のノートを開き――事情をなんとなく察した茅ヶ崎はため息をつき――、佳奈は口を開いた。
「超能力法、でしたっけ」




