episode19 「……優しさがない」
翌日。
教室に入ってきた佳奈は、スケッチブックから切り離したらしい画用紙を手に必死にシャーペンで絵を描くクラスメートの姿を目にした。
覚えておいでだろうか、あの美術の課題である。しかもこれで一学期の美術の成績が決められるというのだからみんな超真剣だ。……芸術の本質とはどこかかけ離れているような気がするが、所詮は学校教育である。
しかし、この時宿題の存在が頭から飛んでいた佳奈には、何をやっているのかさっぱりだ。
──何か、課題でもあったっけ?生物のスケッチ?いやそーいうのって専用の紙に描くんだったはずだし……。
やっぱり、誰かに聞いた方が確実だろう。取りあえず、一番近くの席に座る友人のところへ佳奈は歩み寄る。机に突っ伏して居眠りしているその背中は、絢南だ。
「ねーアヤちゃ──」
絢南の肩を軽く叩こうとして、はたと手が止まった。
──まてよ、確か昨日の美術の時間に……。
「あ、そっか明日提出のヤツか!」
ひらめいた佳奈は手をポンと叩き、自分で自分の問に答えを出した。──そうだよ思い出した、めんどくさいから放置してたけど提出明日なんだった……。
と同時に、絢南が顔は上げずに振り向いてきた。「なにどーしたのカナ」
ちょうどいい。画材になってもらおう。
「ねー、ちょっとアヤちゃんの顔写真撮らせてよ」
「……いきなり何を仰るんですカナさん……?」
「そんな不審そうな目で見なくても……ほら、写真をもとに描いて美術の課題さっさと終わらせようと思って」
なおも疑いの目を向ける絢南に自分のスケッチブックを取り出してみせると、佳奈はそこから一枚の紙を引っ張り出した。「ほら、去年使って余ってたトレーシングペーパーがここに一枚あるから、それ使って写真を画用紙に丸写しすれば……」
トレーシングペーパーというのは半透明の特殊な紙で、描いたものの上からなぞればその跡が下の紙に写るという代物。正確に描くのが求められる鉛筆デッサンにおいては、超重宝すること間違いなしの必殺アイテムだ。ちょっと(どころではなく強烈に)卑怯な気がするけど、まぁバレないだろう。
だが。絢南は俯いたまま首を振って、
「ごめん、今日あたし他人に顔見せたくない」
拒否られた。
──どーいうこと?あ、もしかして自分が絵に描かれるのがイヤとかなのかな……?
「大丈夫だって、アヤちゃんそんなに恥ずかしがるような顔立ちじゃないよ。モデルくらい出来る出来る」
手を振ってフォローしたつもりの佳奈の体を、絢南の寒々しい声がすり抜ける。
「……昨日いろいろあって、顔をケガしちゃって。いや…って言うか、だからその顔がすごいことになってると言うかなんと言うか」
「いいから写真撮らせてよー」まるで聞く気なし。
「ちょっ…やめろぉ!」
絢南の叫びを無視して、佳奈は強引に絢南の上半身を起こしにかかる。「ミユちゃんも手伝ってよー」と声を掛けると、前で本を読んでいた魅夕まで「よしきた!」とか言いながら勇んで参戦してきた。
「どこ押さえてればいい?」
「足首をお願い。そしたら私が前髪を掻き上げるから」
「ちょっお前らまっ…マジでこれだけはやめっ…」
「そうもいかないなぁ」佳奈は飛び切りの笑顔のまま、メデューサの如き目を羽交い締めにした絢南に向ける。凍りつく絢南。「私まえにアヤちゃん達に死ぬほどくすぐられたの覚えてるんだよねぇ。この際お返しはきっちりとさせてもらわないと気が済まないなぁ」
「いやそれだいぶ前の話だし!てか被写体なら魅夕がいるでしょー!」
「……私の受難を見て『いいもの見せてもらった』とか何とかほざいてたのは誰だったっけ?」
「あれ言ったのはユアでしょうがっ!」
「あ、そうだった?でもほら、喧嘩両成敗って言うし……」
「意味が違うっ!」
二分後。抵抗を諦めたのか、荒い息の絢南は渋々降参を宣言した。
顔を、上げる。その表情が目に入った途端……
「ぶふっ」
佳奈と魅夕は思わず吹き出した。
「笑うなコノヤロ──!」
顔を真っ赤にして怒鳴る絢南。その額には、巨大な絆創膏が思いっきりド真ん中に貼られている。それだけでも十分恥ずかしいのに、絆創膏のこれまたド真ん中にはどーんと、お馴染みJR東日本の派手なロゴが。これではまるで絢南がJRの整備作業員か何かのようだ。
「……アヤちゃん、何、やったの……?」
顔を真っ赤にして笑いを堪えながら佳奈が問いかけると、絢南は荒々しく机をガンと蹴った。蹴りながら、ボソッと呟くように、
「……昨日、駅のドアに思い切り頭ぶつけて」
……どうやら、昨日帰宅しようとしたらSuicaが破損していたのか自動改札を通れず、電車も来そうだったので急いで駅員のいるガラスの改札に入ろうとしたら、駅の清掃係が置き忘れていった雑巾で足が滑り、ガラス戸に頭を強かにぶつけ、
「……駅員に貼ってもらった、と」
「そう」魅夕の言葉に頷きながら、絢南は乱暴な手つきで額を撫でた。「混んでる駅の構内で転んで大恥はかくし、駅員はこんなダサい絆創膏持ってくるし、電車には逃げられるし。もうサイアクだったんだから……」
はぁ。ため息をつく絢南。「ドジっ子属性は相変わらずだねー」と魅夕が苦笑する横で、
「……んじゃさ」
それまで黙っていた佳奈が、徐に口を開いた。
警戒心丸出しの表情で絢南が「な……何?」と尋ね返すと案の定、
「──写真、撮らせて☆」
「……あんたあたしの話聞いてたわけ!?」
キレる絢南。だが、悪びれる素振りもなく佳奈はポケットからケータイを引っ張り出し、
即カメラを起動する。「はいこっち向いてニッコリ笑ってー」パシャ。
「って言ってる間に撮ってんじゃねー!!てゆーか校内でのケータイは校則違反でしょうが!」
鬼の形相でケータイを引ったくろうとする絢南を魅夕が「まあまあそんなお堅いこと言わずに」と言いながら押さえ込む。「ああもー、暴れるから画像がボケたー」などと不満げにつぶやく佳奈。
「あ、でもJRのロゴはばっちり写ってる」
「だからやめろそれを画材にするなー!!」
絢南が叫んだのと、教室のドアがガラッと開いて大あくびをしながら唯亜と理苑が入ってきたのが、ほぼ同時だった。慌てて前髪を撫でつけて絆創膏を隠しにかかる絢南。最初からそうすりゃよかったんじゃないだろうか。
「どーした、ギャーギャー騒いで」
真っ直ぐにこちらに歩いてくると、絢南の机に腰掛けて唯亜は尋ねてきた。「いやちょっと……」と下を向いて答えに詰まる絢南を見るなり、
「あ、アヤ聞いたよ!昨日駅のガラス戸に」
「なぜそれを知ってる───!」電気が流れたかのようにビンと立ち上がるなり、絢南は唯亜の首にしがみついた。首を絞めるつもりだったらしいが、唯亜に片手で難なくあしらわれる。
「実はさー、昨日アヤの頭ぶつけた一部始終をB組の瀬谷っていう男子が見てたらしくて、私のところに情報が回ってきたんだよね。ウチの制服着た中三の女子が、辻堂の改札でどうのこうのって」
「あ、私もその話聞いた!」名乗りを上げる理苑。「ガラス戸に頭ぶつけてヒビ入れたんでしょ?」
「ヒビまで入れたの!?」
驚きのあまり佳奈が叫ぶと、絢南はがっくりと項垂れた。「そーです……弁償は免れたけど」
ニンマリと笑う、唯亜。
「どーなってるのユアの情報網って……」もはや呆れを通り越して羨ましそうな目を唯亜に向ける魅夕の横で、佳奈も「ほんと、そういう話ってどっから聞いてるの?私もユアみたいに色々知りたいよ」とぼやいた。
「なんで?」
「決まってるじゃん」佳奈はショックのせいかピクリともしない絢南を一瞥し、
「私だってたまにはからかう側に回りたいもん、ああいうの」
ガン!
絢南の渾身の空手チョップが、佳奈の太ももに炸裂!
「ぎゃんっ!!」尻尾を踏まれた犬のようにその場に踞る佳奈を、絢南が立ち上がって底冷えのする目で見下ろす。
「──人の不幸がそんなに面白い!?」
実は絢南だって人のこととやかく言えた義理ではないのは、秘密だ。
「うぅ……ヒドいよアヤちゃんココ怪我してるの知ってて……。それに冗談なのに……」
「──あ、そういやカナの話も聞いたよ」
唯亜はまたニヤッと笑うと、土下座の姿勢で鼻を啜っている佳奈の肩を軽く二、三度叩く。で、顔を上げた佳奈に満面笑顔を向け、
いきなり切り札を切った。
「……昨日の一限なかなか来なかったと思ったら、ずいぶん色々あったみたいねー」
!!!
「なっ……なんでそれを……」絶句する佳奈に、唯亜は「私の情報網、ナメない方がいいよー」と微笑む。その微笑みがまた、佳奈には不気味に思えた。
「あ、あとそんな露骨に狼狽されると信憑性上がっちゃうからそこも気をつけた方がいいかもね」
「お願いしますそれだけは言わないで下さい昨日の事だけは!!」
涙声で平身低頭する佳奈。そこまでされると思ってなくて、唯亜は思わず戸惑いの表情を浮かべた。またか、この流れ。「いや…そこまでされなくても別にバラす気はないけどさ」
「……あたしの事はバラそうとしてたくせによくも……」絢南が黒いオーラを醸し出しているが、気にしない。
「って言うか、ユアどうしてそのこと知ってるの?」下から佳奈が見上げてくる。「ほとんど誰も見てなかったはずなのに」
そりゃそーだろう、まさか誰も盗聴&録音されてたなんて思わないもの。
「実はね───」
唯亜がネタばらしをしようとした、その時だ。
ガタガタガタ……。
教室中の机や椅子が、音を立てて揺れ始めたのだ。
「っ地震!?」
怒鳴りながら唯亜が辺りを見回す。そんなに揺れは大きくないみたいだ、放送が掛からない。それでも一応、机の下に潜る四人。
「……ホント多いよな……気味悪い……」絢南が呟いた。
揺れはしばらくして、止んだ。教室の後ろの方に並んでいたプランターが倒れたくらいで、幸いG組の被害は少なかったようだ。
「静岡沖で地震、マグニチュード5.9。へぇ、けっこう大きかったんだ」
思いっきりケータイを開いて、ワンセグをつける唯亜。もはや校則など無いも同然である。「だからケータイは見つかったらヤバいからやめなって……」と絢南が忠告するが、聞き流す唯亜。
「堅いことゆーなって。てか、ほんと地震多いよね。昨日の夜も大きいのがあったみたいだし」
「このあたりはどのくらい揺れたの?」
「震度3。割と揺れた方じゃないかな。まぁあんだけ机とか椅子がガタガタ音立ててたし、妥当な数字なんだろうけど───」
……言ったところで、唯亜はふと誰かの姿がないのに気がついた。理苑の肩を叩くと、尋ねる。
「ねぇ、そう言えばカナは?」
「……いないね」
辺りを見回すも、確かに佳奈の姿は見当たらない。でもまさか瞬間移動でも使わない限り、こんな短時間にそんなに移動出来る訳がない。
唯亜と理苑が廊下に出ようとした時───
「……そこに」
魅夕の小さな声がした。
「えっ?」
思わず三人が尋ね返すと、苦笑いを浮かべた魅夕は人差し指で自分の足元を指差す。
いた。確かに。
「──あんたねぇ」呆れた声を上げて、地震の如くカタカタ震えながらうずくまる佳奈の肩を揺する唯亜。「どこの世界にたかが震度3ふぜいの地震でそんなにビビる中学生がいるのよ。ほら、立ちなって」
なるほど、さっきからずっと踞っていたので姿が見えなかった訳か。しかも耳まで塞いで。「なんかそーやってるカナってちょっと可愛いかも」と絢南はボソッと呟いた。良かった、ユアには聞こえていない。
その唯亜に肩を揺さぶられた佳奈は、恐る恐る顔を上げた。可哀想になるくらい、すっかり青ざめている。
「……もう、止んだ…?」
「とっくに」そう言うと佳奈は後ろ手をついて、大きな息を吐き出した。「あー怖かった…このままあと一時間くらい揺れが続くのかと思った……」
──そりゃ自分の揺れじゃないのか?
唯亜は手を腰に当てる。「てかあんた、そんなにビビりだったっけ?」
「カナって意外とこういうのダメなんだー」小バカにしたような理苑の台詞に少しムッとしたのか、でもやっぱり小さな声で佳奈は反論する。
「……だって、怖いものは怖いんだもん」
反論になっていない。
「てか、いつまでそうやってるつもりなのよ」痺れを切らした絢南が歩み寄ってきて、佳奈に手を差し伸べた。「ほら、立ちなよ。一時限目始まっちゃうよ?」
佳奈はちょっとの間その手を見つめていたが、
「……優しさがない」
「どーいう意味だコラ!!」
怒鳴る絢南をよそに、佳奈は自力で立ち上がると椅子に腰掛ける。机に寝そべって、ぐったり。
「……そんな辛かったのね……」
唯亜が笑った瞬間だった。
授業開始のチャイムが、教室に響く。と同時に、教室に入ってきた公民の先生──茅ヶ崎の大声が、唯亜の耳をつんざいた。
「ほら授業始めるぞ───っておい海老名!その手に持ってるモノは何だ!?」
唯亜の手の中には、ケータイ。
──しまった!
「いや何でもないです!こっこれはその……あっICレコーダーですっ!!」
「なんで学校にICレコーダーなんか持って来てる!?」
「おっ音楽の練習に使おうと思ってっ!」




