episode15 「ただ、気持ちの整理がつかなくて……」
あなたは、「距離」という言葉をご存知だろうか。
2つの点の間の長さを意味する、この言葉。知らない人などいないはずだ。誰もが日常でごく自然に使っている。別に特別な言葉でもなんでもない。
だが、
こんな形の「距離」に、あなたは出会ったことがあるだろうか。
“たとえ瞬間移動が出来たって、決して縮めることの出来ない「距離」”に。
二時限目と三時限目の間の、休み時間。
「ねー、美術の宿題どうするよー…?」
絢南はため息をつきながら、前の席の女子──大磯魅夕の背中をつついた。
「どうしようかな……」前で魅夕もため息をついている。
つい三十分前の、美術の時間。G組のメンバーに課された宿題は、
《誰のでもいいから、二日後の次の授業までに鉛筆で肖像画を描いてきなさい》
「無理でしょ!」
絢南は大声を出した。
「あたしぜんぜん絵心とか無いよ!あたしなんかに描かれる人が可哀想だよ!」
「力説されても困るよ……」絢南を押し止める魅夕。「題材はまだいいよ。別に誰だっていいんでしょ?だったら最悪親の顔でも描いてくれば……」
「でもなるだけ自分の友達を描けって先生言ってたじゃん……」
「そうなんだよね……」
絢南と魅夕は揃ってもう一度、ため息をついた。だいたい、前回まではビール瓶の水彩画だったのに、いきなり鉛筆デッサンやってこいなんてメチャクチャな話があるだろうか。
ついたところで、魅夕が思い出したように、
「そういえばさ、カナなんか元気ないね」
「へ?」斜め後ろを振り返る絢南。確かに、昼休みなのに佳奈は黙りこくったままだった。机に突っ伏して、鉛筆をクルクル回している。何だか元気がないように見えた。
「どーしたのカナ」絢南は佳奈の机の脇までやってくると、肩を揺さぶった。
「珍しく元気ないじゃん。何かあったの?昨日あた……」
……思い出した。
昨日佳奈が去り際に涙を見せた事、泣かせた張本人が自分たちである事。
「きっ昨日はマジでごめん!」絢南はその場で土下座した。大きな声に反応したクラス中の目が自分に集中する。──ああ、視線が痛い……。
「そのっ昨日のは別に悪気があったとかじゃなくて…ただその、出来心と言いますか何と言いますか」
「……でもアカネ、本気だったよ……」
氷のような冷たさを湛えた掠れ声に背中を撫でられ、「ひっ……」と絢南は震える。
「まっまさかぁ、きっと冗談だよ冗談……」
佳奈は目を伏せた。
「ううん。きっと冗談じゃない。アカネ、ホントに伊勢原くんの事が好きなんだよ」
蚊の鳴くような声で、佳奈は呟いた。いまさら申し訳ない気持ちでいっぱいになる、絢南。
本当の事を、言ってあげるべきだろうか。いや、今更言ったところで佳奈は元気を出してくれるだろうか。
と。すぐ近くから声がした。
「そう言えばカナ、なんであん時の私たちのが茶番劇だったって気がついたの?」
……唯亜が絢南の後ろに立っていた。「ぅわわっ!!」と思わず絢南は机にしがみつく。
「ちょっとびっくりさせないでよユア……」
「ね、カナってば。どーやって」
「おい無視すんなー!」
佳奈の目が遠くなっている。
「あれ、ちょっとカナさーん」
目の前で手を振る唯亜を、絢南は制止した。「ユアやめなよ。あたしたちのせいでカナきっと傷ついてるんだよ」
「へ?」無神経にも尋ね返した唯亜に、絢南は冷たい視線を向けた。――本当に気づかないならいっそ凍ってしまえ。
「……!」
唯亜はやっと手をポンと叩いた。軽いなあ、と絢南がため息をつくが、たぶん聞こえていない。
一応責任感を感じているのか、ちょっと神妙な様子で唯亜は、
「そういや、そうだったね。ごめんカ……」
「そのことじゃないの」
佳奈の強い語気が、せっかく謝る唯亜の声をかき消してしまった。絢南も唯亜も、固まる。
「……え?じゃあ………」
「……ただ、気持ちの整理がつかなくて……」
そう言うと佳奈は、「これ以上は話す気ないよ」の意思表示のように、組んだ腕に顔を沈めてしまう。
「???」
二人は、顔を見合わせた。
◆ ◆ ◆
放課後。
佳奈は、校内の図書館へ足を運んだ。普段はあまり使わないので、カードもキレイなままだ。『ピッ』と改札口にかざしてゲートをくぐり、適当な席を見つけてカバンをそこに置く。
そのまま、自分も座り込んだ。机に頭を乗せて、横になる。館内は空調が効いているし、机の上も適度に冷たくて、心地がよかった。
この図書館、教室の建物からやたらに離れているせいか、いつも人影は少ない。つまり考え事とか、居眠りをするのには最適なのだ。果たして、佳奈の目的は考え事であった。
──私、またありがとうって言い損ねた……。
佳奈の考え事は常に自虐から始まる。
──せっかく、会ったのに。手、握ったのに。やっぱりどうしても恥ずかしくなる。
さっきだって、何か適当な理由付けてユースケくんから離れようとして……。一時限目、休講だったのに……。
いや、と佳奈は顔を上げた。ものは考えようだ。
──そうだよ。私は良くても、ユースケくんは一時限目あるんだから、あれで良かったんだよ。そうだよあれで良いんだよ。
そう、思うことにした。カバンを机に乗せて、枕にする。
──『でも、本当はもっとずっと、手を握ってたかったんじゃないの?』
……どこかから声が聞こえてきた。またあの"もう一人の自分"だ。
──『あんた伊勢原の事、好きなんでしょ?だったらあの場で想いを伝えればよかったのに。そうそう顔を合わせるチャンス無いんでしょ?馬鹿だねー』
枕に、顔を押しつける佳奈。
──確かに、私はユースケくんの事が好き。それはぜったい、揺るがないはずなんだけど。
──『だったら、変に遠慮しなきゃいいのに』
──でもやっぱり、私には出来ない。どうしても、勇気が出ないよ……。
はあ、とため息をついたのは、佳奈ではなく「もう一人の自分」だった。
──『あんたまだ、あのトラウマ引きずってんの?いい加減にしなよ。人生まだまだ長いんだ、あんな些細な事、これから先いくらでも起こるさ。あんな程度でいちいち凹んでたら、大人ってのはやってけないんだよ。
そんな小さな悩みは捨てて、もっと大きいことを考えな』
確かに、もう一人の自分の言う通りだった。
佳奈は顔を伏せたまま、呟いた。
「超能力とか、あればいいのにな……」
──もし私に、超能力があったなら。思念伝達で、相手に直接想いを伝えられたら。瞬間移動で、いつどこにいても駆けつけられたら。どんなに簡単で、どんなに楽しくて、どんなに幸せなんだろう。
はぁ。
大きく息を吐く。顔を上げ、腕を頭の後ろで組んで、大きな窓から空を見上げる。午後五時の湘南の空はもう、夕暮れの色に変わりつつあった。
──なんで使えもしない力に頼ろうとするんだろう。そんなの、サイキックでもない私には無理に決まってるのに。
橙色の空を、カラスたちが渡っていく。校庭の周りに慰み程度に植えられた木々の向こうの高架を、長い東海道線の車両が走っていくのが見えた。その先は、海岸だ。
世界は、広い。今見てる部分なんか、全体の何億分の一でしかない。「もう一人の自分」に「考えてる事が小さい」とか言われても、仕方ないのかもしれない。
もっと、大きな事か……。
私には、今はユースケくんの事が一番大きいんだけどな。「もう一人の自分」のくせに、私の思いも分かんないなんて。
何だか可笑しくて、佳奈はクスッと笑った。
今日、初めて見せた笑顔だった。
◆ ◆ ◆
その人影は、佳奈がやって来るのを待っていた。
カバンを片手に歩いてくる、平均身長よりは少し高めの立ち姿。彼は、校門の門柱の陰で待ち構えている。追跡とかではないので別に隠れる意味はないのだが。
──来た。
「!?」
いきなり自分の前に立ち塞がった男を見た瞬間、佳奈は一瞬心臓が止まったかと思った。
──あの事件の日、私を捕まえて変な機械にかけた人だ。
その顔は、忘れられるはずもない。思わず一歩後ずさりする佳奈。その細い腕を、刑事のがっしりした手が掴んだ。
クマのような顔が、低い声を放つ。
「二宮カナさんだね。警察の者だ」
「あ……あの……………!」
振りほどこうとする。でも当然、逃げられない。しかもこの男、何だか変に目を輝かせている。──これはそう簡単には解放してくれないか……。
佳奈は小さく息を吸った。
──徹底的に弁明するしかない!
「あのホント私犯人じゃないです!超能力とかの類いも一切何も使えませんし何が起こったのかもさっぱりで、ホントです私何も知りませんだからあの変な機械と尋問と逮捕は勘弁して下さいっ!」
必死の形相で自分の潔白を叫ぶ佳奈に、唖然とした顔でクマ顔警官は目をしばたかせたが、
……急に笑いだした。
「…………?」
意味が分からず、今度は佳奈が目をパチクリさせる番だった。
「大丈夫、変な機械──いや、PWDは、ここにはないよ」
やっと笑いやむと、彼は掴んでいた手をあっさり離した。その手で、胸ポケットから名刺を取り出す。
「以前会ったとき、自己紹介をしてなかったね。俺は、こういう者なんだ」
差し出された名刺を、佳奈は両手で受け取った。
「[神奈川県警藤沢警察署 特殊能力犯罪対策課 巡査部長・磯子秀輝]……」
「そう」磯子は、ニコッと笑いかけた。「湘南中高爆破テロ事件解決のために、任意調査に応じてくれないか?」




