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DistancE-KANA  作者: 蒼原悠
第三章 distrust――告白――
14/57

episode14 「俺が、そんな事を思うなんて」

翌朝。

この日のC組の一時限目は美術だ。移動の準備を整えると、一樹は雄介の席に歩いていく。

「おいユースケ、さっさと行こ───何やってんだお前」

「……見てないで手伝ってくれよ」

……雄介は床に散らばった筆箱の中身をかき集めているところだった。どうやら落っことしたらしい。ブレザーの襟元に涎の後を見つけ、一樹は笑う。

「……まだ寝ぼけてんのかよ、お前?」

言いながら、律儀に落ちているペンや消しゴムを拾い上げる。拾い上げて――

雄介に、投げる。

ガコンッ!

土下座の姿勢で定規を拾おうとしていた雄介の額に、消しゴムはダイレクトアタックした。いい音だ。

「痛ってえ!」

「っしゃ!」ガッツポーズを決めた途端、今度は一樹の額に何かがダイレクトアタックした。

「……痛っ!お前なに──」

言いかけた一樹の網膜に、輪ゴム銃を向ける|友人(雄介)の顔が映った。

「お前それは卑怯だろ!」

「いや落としたものを拾ってる友人の顔に消しゴム当てる方が卑怯だろ!」

「何を!!」

一樹が(冗談で(・・・))シャーペンを振り上げ、「いややめろそれはガチで痛いから!」と顔を背けながら雄介が(本気で)怒鳴ったその時──


『キーンコーンカーンコーン』


「あ」

「あ」

二人は、顔を見合わせた。

あれは確か、授業開始五分前のチャイム……。そして、ここから芸術教室までは徒歩五分……

「やばい!」

やることは一つ。

ダッシュだ。「廊下は歩きましょう」とかなんとか貼り紙がしてあった気がするが、知るかそんなの。

「今日確か鉛筆デッサンの解説って言ってたよな!?なら授業前の準備とかも必要ないよな!?なっ!?」

「多分!保証はできないけど!」

怒鳴りあいながら、もう誰も残っていない教室を全速力で飛び出した刹那───


──二人の横を、一人の女子がすれ違った。

カバンを持って、項垂れながらとぼとぼと歩いてゆくその背中を、思わず一瞬雄介は振り返った。

ほぼ同時に、向こうも振り返った。どことなく沈鬱そうな表情が驚きのせいか紅くなり、固まってゆくのが分かる。

焦げ茶色のセミロングヘアに、銀色に輝くヘアピン。どこか見覚えのある、その風貌。

──あの時の……。

雄介は先を走る一樹に怒鳴った。「やっべ忘れ物した!さき行って!追いつくから!」

「あ、あぁ!」

一樹は意外と素直に頷いた。小走りで廊下の向こうへ消えていく姿を見届けると、雄介は立ち止まって今度こそ振り返る。……本当は、少し抵抗があるのだけれど。

向こうも、足を止めてこちらを呆然と眺めていた。その顔を見て、雄介の予想は確信に変わる。間違いない、あの時俺が助けた女子だ。

だけど、こういうときどう声を掛けたらいいのか雄介には正直皆目見当もつかない。


──落ち着け、落ち着くんだ。とりあえず、確認を取るべきだろう──

「……き、いやお前、確かあの時の……」

危ない、うっかり口が滑る所だった。

「……そ…そういうあ…あなたも、……」

彼女も戸惑っているらしく、会話がぜんぜん成り立たない。つまり……、気まずい。

授業はまだ始まっていないはずなのに不自然なくらい静まり返った廊下。先に二言目を言ったのは、雄介だった。

「……ケガ、なかった?」

──そうだ、最初からこれを聞けばよかったんだ。

幽かに頷く彼女。「──うん。なんとか」

雄介の目線は、下に下りていく。スカートから覗く太ももに、ぐるぐると巻かれた白い包帯が、目に入った。

「……その足のは?」

心配になって、訊ねる。言ってから雄介は顔を赤くした。──マジで俺、どこ見てんだよ!

彼女の顔は、もっと赤くなっている。

「……あ、いやあのね、これは……」

「……あ、えっといやその…何て言うか……」

「………。」

「………。」

結局、また沈黙に陥る二人であった。


──なんだろう、この気持ち。

下を向いたまま、雄介は悩む。

──たかがよそのクラスの女子相手にしてるくらいで、なんでこんなに動揺してんだろう。他のやつとは普通に話せるのに。

頭が、身体が、何でこんなに熱いんだろう。早鐘を打つように忙しく鼓動する心臓が、苦しい。

まるで胸から飛び出そうと暴れているみたいで、出来ることなら心臓を鷲掴みにしてでも押し留めたかった。


それは、まだ雄介が一度も経験したことのない、でも紛れもなく彼自身の"感情"だった。


──どうする?でも、これ以上この嫌な沈黙は長引かせたくないし──

「あの、さ……名前、何ていうの」

沈黙から三十秒後。決心を固め、雄介はやっとの思いで声を搾り出した。俯いていた彼女が、ゆっくりと含羞の顔を上げる。

「……に、二宮、です」

「……そ、そっか」

「…………。」

また、沈黙。

「……あの、あ…あなたは……」今度は先に彼女──いや、二宮佳奈が問いかけてきた。

咄嗟に声が出ず、ゲホッと咳をしてから、

「えっ?お、俺…?…………い…伊勢原、です」

──なんでこういう時、日本人は敬語になってしまうんだろう。

「伊勢…原…くん…さん…」とかなんとかよくわからない事を言っている佳奈を見ながら、雄介はそんな事を考える。

──あらためてこうして面と向かってみると余計に思うけれど、きっとこの二宮さんって人は、超絶にモテるんだろうな。

背丈は俺より少し低いくらいで、でもまぁ俺は髪がちょっと膨らみ気味だから見かけ上の差は割とあるだろう。典型的なやせ形体型だから、往々にして太り気味に見られがちな黒のブレザーでもすごくピッタリに見える。肩のあたりで適当に切り揃えられた髪が、逆に爽やかな印象を与えているのも、可愛らしい。


“可愛らしい”。

俺が、そんな事を思うなんて。


『キーンコーンカーンコーン』

「しまった!」雄介は叫んだ。今が授業直前であることが完全に頭から飛んでいた。アンド、教室がバカみたいに遠いことも。今のが本鈴という事は、三分遅れはまず免れられない……!

佳奈を見ると、あちらもしまったという顔をしている。その表情に追いやられたのか、顔の赤はもうほとんど消えていた。

……なぜか少し、ホッとする。

「んじゃ俺急ぐから、もー転ぶなよ二宮さん!」

それだけ言い残して、雄介は芸術の教室へ向かうべく地面を蹴った。

確かに蹴った。

……滑った。

ドッターン!重い音を響かせ、一瞬宙に浮いた雄介の身体は特殊樹脂製の床に叩きつけられる。

「──ぃってー!」

背中が、痛い。痛いが、それどころではない。行かなきゃ。

痛みを堪えながら立ち上がろうとすると、


──そこに一本の手が差し伸べられた。はっとして、斜め上を見上げる。

「大丈夫……?」

佳奈の心配そうな顔が、雄介を見下ろしていた。思わず気恥ずかしさに顔を伏せる雄介。

──しまった……。"転ぶなよ"とか言った本人が転んでどうすんだ。しかも注意した相手に助けられるなんて。

顔を背ける雄介に、佳奈は不思議そうな目を向ける。

「ほら、掴まって」

差し出された二本の細い腕。雄介はその指先を見、また顔に視線を戻した。


──俺は、掴まっていいんだろうか。この腕に。

なぜ一瞬そんなことを思ったのか、雄介には分からない。


しかし自問したのも束の間。

「……サンキュ」

結局雄介は、素直に勧めに従った。この場ではさっさと立ち上がるのが先決だという、理性に従ったのだ。結果は同じだが。

よいしょ。小さな呟きとともに、佳奈の腕に引き上げられた雄介の体が二本足で立つ。また佳奈の頭を下に見られる位置にきて、

雄介は思わず佳奈の顔を見つめた。

佳奈も、自分でそうしたのを忘れたかのようにぽかんとして雄介を見ていた。目と目が、合った。

その距離、わずか二十センチ。近い。強烈に近い。


「───いけない、私まだ荷物持ったままだった!」

沈黙を破ったのは佳奈だった。叫ぶなりカバンを引っ掴んで、走り出す。その声がトリガーになったのか、雄介も「俺もだ!」と教科書を掴んで、今度は間違いなく一歩目を踏み出せた。もう鐘が鳴ったという現実を、危うく忘れるところだった。二宮のおかげだ。

一樹も心配しているかもしれない。急がなきゃ。


あんまり急いでいたせいか、ちょっと行った所で立ち止まった佳奈がこちらをじっと見ていた事に、雄介はまるで気がつかなかった。


その後。雄介の名簿に思いっきり「遅刻」マークが付けられたことは言うまでもない。

なぜかこの時、一樹にも付いていたのだが。




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