episode10 「でも私は、ただ背を向けてるだけだ」
「よーニノー!」
翌日の放課後。ニノ、と呼ばれて、缶ジュースを片手に持った佳奈は立ち止まった。
「あぁ、アカネちゃん」
アカネと呼ばれた少女の名は、松田明音。隣のH組の生徒で、佳奈の親友の一人だ。上手くツインテールにされた長い髪が、風にはためいている。
「今日一人?」
「ううん、ユアたち待ってるとこ──あ、来た来た」
「お待たせー」言いながら走ってきた唯亜と絢南、それに理苑。「あ、アカネじゃん!なんか久しぶりー」
「ホントホント。いやーここんとこ夏休み明けの体育祭の準備で忙しくってさぁ」
「アカネ、体育祭小委員会の副委員長補佐代理だもんね」
「そーそー。ったくあいつらあたしが代理だからってロボットのように使いっ走りさせやがって」
──そりゃ「副」で「補佐」で「代理」だったらなぁ。
「……まぁ愚痴は後でいいや」明音はツインテールの片一方を縄跳びの要領で回しながら、ストレートに尋ねてきた。「今日もう帰る?」
「うん。特に用事もないし」
「一緒に帰んない?」
「うん、いいよ」苦笑いを浮かべながら佳奈は答えた。
明音が「一緒に帰んない?」と聞いてくる時は……
「さてはアカネ、また乗り換えたでしょ」
唯亜の言葉に飄々として頷く明音。そう、そういうことなのである。「うん。前のやつ、最近急に真面目キャラに転向しちゃってさあ、つまんなくなったから振っちゃったんだよね」
「もとはと言えばあんたの方から告白したんでしょうが」校門に立つ警備員に軽くお辞儀をしながら、絢南が呆れ顔でたしなめた。「相手ってC組の三浦でしょ?そんな雑な付き合い方してると、いつか本当に痛い目に遭うかもよ?もうちょっと長続きしそうな相手選びなさいよ」
「しょーがないよ。あたし飽きっぽいのは自他共に認める事実だもん」
ちょっと頬をふくらませる明音。ふっと何か思い出したように、
「……そういやニノ。好きな人が出来たんだって?」
!!!!!
「ぶふッ!?」
佳奈は飲んでいたジュースを思いきり吹き出した。
「わちょっと汚いよカナ!」
「げほげほ…ご、ごめんアヤちゃ、んっげほっ……」
涙目で咳き込みながら明音を振り返る佳奈。「……ど、どこでそんな話を…?」
やだなあ、と明音は朗らかに笑った。
「少なくともF組からH組の中には知れ渡ってるよ。その話」
風が、吹き抜ける。
ちょっとの間、佳奈はその言葉の意味を考えた。既に三クラス分に、
─────えええええええっ!?
「ちょっ…マジ!?いつから?」
「昨日から」
即座に佳奈は後ろに振り向いた。これまでの前科からして明らかに怪しい唯亜を、まずは尋問する。
「ユア、あんた?そんなガセネタをばらまいた犯人……」
「いや違うよっ!」認めるかと思いきや、唯亜は首を振った。「それはガチで違う!つーか何でもかんでもすぐ私のこと疑わないでくれない?」
「前科で判断するならユアが一番怪しい。前にミユちゃんの彼氏の名前暴露したのも……」
「とにかく今回は私じゃないの!」
それでも否定する唯亜。これは違いそうだな、と呟いた佳奈が絢南の顔を睨んだ時だ。
「ごめん、それ私かも……」
理苑が、小さく手を上げた。
「ほら、昨日の」
「──リぃぃぃオオオおおちゃぁぁぁん」
「っごめんごめん!てか、私は何も知らないから、F組の友達に「昨日って何かあった?」って聞いて、そしたら流れで……」
「それで、どうなのさニノ」
にやけ笑いを抑えることもせず、単刀直入に明音は斬り込んできた。「相手、誰なの」
「だから違うの!誤解!私は誰にも恋なんてしてない!」
「でもそう聞かれて思い当たる節はあるんでしょ?」
──うっ。
「ないよないない。気のせいだよ」
「あのね、C──」
ガンッ
佳奈はここぞとばかりに思いっきり唯亜の足を踏みつけた。「ぎゃああ!!」と叫ぶ唯亜を押し退けて、
「とっ、とにかく何もないよ!」
「えーアヤシー」なおも訝しげな目で佳奈を眺め回す明音、
「……そういえばアヤたちはどうなの?」
矛先がずれた。
「あたしは彼氏とかはまだいないけど」絢南はどこで拾ったのか、輪ゴムを玩びながら答える。なるほど、あんな風に淡々と応えればいいんだ。
「私もー」足下から唯亜の声。
「リオちゃんは?」
佳奈が問いかけると、それまで普通に歩いていた理苑は突然──
「え?そこ俯くとこ?」
「……いる、かも」
「へ?」
間抜けな声を出した唯亜を真っ赤な顔で睨む理苑。こういうとき唯亜は実にKYである。
「……だから、好きな人がいるの!」
十秒間、沈黙が漂い、
「っマジで!?」
最初に声を上げたのは明音だった。「え、どなたですか!?」と絢南が続く。迫られた理苑は恥じらいながら、
「……A組の、秦野くん」
蚊の鳴くような声で、言った。
「あ、あの超イケメンの!」
「そりゃ秦野くんはなぁ……」
松田記者と愛川記者、納得したご様子。
それもそのはずである。C組12番秦野宏太と言えば、湘南中のほぼ全ての女子が学年一のイケメンと認める輩なのだ。男子の間でなど、秦野と彼女を取り合ったら絶対に勝ち目はないとまで言われるとか。もっとも、普通は秦野が告白される方だろうけれど。
「あたしは別にいま好きな人とかいないけど、確かに秦野くんはいいよねー」
何を想像してるのか、うっとりとする絢南。「あんたみたいに思ってる女子がこの学年の大半だと思うよ……」苦笑しつつ唯亜が呟く。
「ユアはどーなの」
「私は別にあんたみたいに飽きっぽい訳じゃないけど、いまんとこ私のタイプの人はいないかなー。自分で言うのもなんだけどけっこうタイプ分けが厳しいからさ、みんな何かしら引っ掛かって候補落ちしちゃうんだよねー」
腕を頭の後ろで組みながらのんびり口調で唯亜が答えると、明音は「ユアは選り好みが激しいからなー、もうちょっと色々手を出してみればいいのに」と肩をすくめる。
「あんたは選り好みしなさすぎ。あと、一人に絞りなさい」絢南の苦い声。
「えーでも楽しくない?二股かけるのって」
「アカネ、女子が"二股"とか言ったら男子引くよマジで……」
──選り好み、かぁ。
賑やかに騒ぐ四人の少し後ろを歩きながら佳奈は独り、ため息をついた。
──私の"タイプ"って、どんなんだろう。そう言えば私、何にも分からないや。
小学校の時以来、私はそういうことを考えるのは極力避けてきた。恋話を振られても、いっつもテキトーに誤魔化して流してきた。
「あたしは基本、スポーツとか芸術とか出来る人が大好きだなぁ」明音ののんびりした声が、鼓膜の手前でエコーのように増幅される。「なんか、そーいう技能を持ってる人ってすごくカッコいい。極めてるなー、って感じしてさー」
その背中に、佳奈は冷えた視線を向ける。けれどそれは、明音に対して放たれたのではない。むしろ、それは明音の背中で反射して、自分へと返ってくる。
──ユアもアヤちゃんもアカネもみんな、ちゃんと自分と向き合ってるんだな。自分がどんな人が好きなのか、ちゃんと分かってる。でも私は、ただ背を向けてるだけだ。つらい過去から、嫌な思い出から。
一人俯きながら、自問を繰り返す佳奈の姿を、四人の誰も振り返ろうとはしなかった。
──私の、好きな人。
力強くてすごく頼れて、でもとっても謙虚な人、とか。
ふっと脳裏に、雄介の顔が浮かんだ。
足の痛みに邪魔されて立ち上がれないでいた私の手を握って、立ち上がらせてくれた、あの顔が。
「そーそー。で、秦野くんにわざと肩をぶつけて、転んで起こしてもらって……」
「おーいいねぇそのプラン」
どうやら上手いシチュエーション演出作戦を練ってるらしい。何だかおかしくなって四人の後ろで声を殺して笑ううち、
ふいに佳奈は強烈な孤独感に襲われた。
まるで、自分だけがみんなとは違う人間のように思えたのだ。いや、違う。仲間はずれにされているような、そんな気分だった。
自らの感情に素直になれないでいる姿に、あらためて気づかされている自分が、そこにはいた。目の前で嬉しそうに自分の好みを語る四人が、いまの佳奈には心底羨ましくて、それが無性に切なかった。
「いいもん、私は……」
独り言のつもりで口に出したそんな精一杯の強がりも、言葉が上手く続かない。それきり佳奈は口をぎゅっと真一文字に結んで、明音のしゃんと伸びた背中を睨みながら歩いていった。
そうでもしなければ、昂ってくる感情の溢れを抑えられないような気がしたからだった。
その時だ。
明音の背中に、文字が浮かんだのは。




