episode-01 prologue 「次なる贄は、貴様か?」
「距離」。
あなたは、この言葉をご存知だろうか。
意味は、2つの点の間の長さ。
知らない人など、いないはずだ。誰もがごく自然に使っている日常語の一つ。別に特別な言葉でも、なんでもないからだ。
だが、あなたは知るまい。
こんな形の「距離」もまた、この世には存するという事を。
“たとえ瞬間移動が出来たって、決して縮めることの出来ない、
「distance」”──────────
――もう、遠い、昔の話だ。
少年はその日、久しぶりの遠出をしてきたところだった。
もっとも、遠出と言うほど距離が離れていたわけではない。すぐ隣町の駅前に先日新たに建った大型ショッピングモールに行くという母親に、付き従っただけのことだ。けれど、受験勉強に負われろくに遊ぶ時間も得られていなかった少年には、それだけでも十分すぎるくらいの遠出だった。
狭い家の勉強机や、閉塞感溢れる白い壁に囲まれた塾の一室。息の詰まりそうな日常から久々に解放されて、気をよくした母に新しいゲーム機まで買ってもらい上機嫌の彼は、何万円もの思い切った買い物をしてこれまた上機嫌の母と手まで繋いで、意気揚々と上りの電車に乗り込んだ。ただの買い物があんなに楽しかったのは、後にも先にもあの日だけだ。
これでまた勉強頑張ろうね、という母の言葉に威勢よく頷いたのを、今でも少年ははっきりと覚えている。女性としては少し低めの穏やかなあの声と、握った手の何とも言えない温かさ。
たとえ他のどんな事を忘れても、きっとそれだけは生涯忘れない。
……そう、思う。
午後五時三十八分。
電車で一駅、自宅の最寄り駅の改札を出た二人は、家のそばまで走っているバスの乗り場を目指し、駅前広場に架かるペデストリアンデッキに出た。平日ながら随分混んでいるな、と違和感を抱きつつ踏み出した途端だった。
異様な光景が、目の前に広がっていた。
デッキの上で立ち止まったたくさんの人々が、写真を撮ったり電話をかけている。何かのイベントでもない限り、この駅前にこんなに人が集まる事はないはずなのに。
不自然な光景に少年が呆然としていると、何かに気づいたのか母が、
「何、あれ……」呟いた。
少年も、母の目線を追った。そこではじめて、異変の正体に気がついた。
「えっ……」
それはデッキの向こう、広場に面した敷地に建つ高層マンションが吹き上げる、赤い光の渦だった。
いや、もっと分かりやすく言うと、燃えていた。しかも猛烈な勢いで。それはあたかも、蜷局を巻いた真紅の龍が古びたマンションを食い荒らしているような光景だった。
息を呑む二人。すると“龍”は一瞬金色に輝く両眼を向けると、少しこちらに体躯を傾けてきたのだ。
──次なる贄は、貴様か?
聞き覚えのない野太い声が、思わず一歩後ずさった少年の頭の隅で響いた。声を出すことも忘れ、少年はあっという間に形が崩れて火焔に変わってゆく龍を見つめる。
さっきの声は、あの龍のものだったのだろうか。いや、そんなはずがない。あれはただの炎だ。アレが存在する世界とは言っても、さすがに龍なんて現実にいるはずがない。
足元で明滅する消防の回転灯。下から激しく噴き上げられる水柱に、再び姿を現した“龍”は揺さぶられ、時おり咆哮を上げる。混乱するデッキの上で棒のように立ち尽くしている二人の耳にアナウンスの機械音声が飛び込んできたのは、その時だった。
『神奈川都市交通バス藤沢インフォメーションセンターよりお知らせします。当駅を発着するバスは現在、全便予定通り運行しています。神奈都バスをご利用のお客さま、速やかにバスターミナルへお越し下さい』
少年は不安げな目で母を見上げた。逃げた方がいいと分かってはいるのだけれど、足が竦んでしまって動かない。見れば母も、どうしていいのか分からない様子だった。
だが、迷っている暇はなかった。突如マンションの方からボンと大きな音が響き、デッキの上がパニックになろうとしていたのだ。
――逃げよう。
目で頷くと、母は彼の手をギュッと握りしめ、人混みを掻き分けながらターミナルへ向かう階段を下りていった。一刻も早く逃げたいという気持ちが働いたのだろう、少年は少し小走りで母の先をエスコートした。
それが命運を分けることになると、誰が予想しただろうか。
全てが、スローモーションのようだった。
突如として耳を劈く重低音が階段を振動させた。その凄まじさに少年は反射的に耳をおさえて、階段の途中に転がるようにうずくまる。
何が起こったのかはもちろん、両手で耳を覆ったということはつまり母の手を離したということ、母との離別を意味しているという事も、考える余裕など時間は与えてくれない。視界がフラッシュのような光に包まれ、絶叫が少年の耳朶を突き刺す。
母が何かを叫んだような気がしたが、デッキの上で響き渡る悲鳴や絶叫の前にそれはあっさりと消えていった。その悲鳴さえも、再び轟いた爆発音にかき消されてゆく。
少年は少し、目を開けた。茶色に濁った空を、何か火の玉のようなモノが舞っているのが見える。
──これは、本当に起こっている事なのか……?
そう思った矢先、火の玉は遥かデッキの向こうに着弾した。爆発音とともにキノコのような形の爆煙が空高く舞い上がり、少年の足元を揺らす。
夢じゃない。現実だ。
そこまできて初めて、少年は気づいた。母が、いない。
「母さん‼」
叫んで後ろを振り返った少年の聴神経を、またも響き渡った爆音が引きちぎる。迸る焔の煌めきが薄暗い夕暮れのデッキ下を照らし、その光の中に少年は、探し求めていたその姿を見た。
二本の足でしっかりとデッキの人工地盤を踏みしめた、母。炎の明るさのおかげか、少年の位置からは本来なら見えないはずの表情まで、はっきり見えた。
諦めと悲哀に満ちた、その表情が。
「早く、早くこっちへ!」
少年は怒鳴ったが、変声期を迎えたばかりのその声は悲鳴を前にしてはあまりにも無力だった。死期を悟ったかのようなその目は、変わらなかった。
あんなに離れていては、もう手は届かない。それでも少年は懸命に立ち上がって、母に手を伸ばした。
一際明るい光が辺りを煌々と照らし出した、その時だった。母は何かを叫んだのだ。
「いきなさい」
多分、そう言った。
最後の一瞬。母は、笑っていたと思う。それは自分の運命に悲嘆したあまりのものだったのか、或いは少年を勇気づけようとしての行動だったのか。今となっては、分からない。
だが少年はその瞬間、直感的に全てを悟った。顔が真っ青になった。
──いやだ! こんな…こんな形で、別れるなんて! 母さんと一緒に、帰るんだ……!
少年は何かを叫んだ。何と叫んだのか、それも未だに思い出せないままだ。
直後。目の前に一抱えもありそうな巨大な瓦礫が落下し、衝撃で少年は階段を数段転げ落ちた。爆音とともに粉塵が立ち上ぼり、さっきまで少年が立っていた場所が煙の中へ崩れ落ちる。泥で薄汚れた顔を上げた少年のすぐ脇でまたもや爆発音が地面を揺らし、側のデッキが呆気なく壊れて視界から消えていった。
体を動かしたかったが、金縛りにかかったようにびくともしない。目を見開き、少年は爆煙の向こうに辛うじて形を留めているペデストリアンデッキの薄い影を見つめた。
或いは、動きたくなかったのかもしれない。
なすすべもなく破壊されてゆく世界を前に、霧のかかったような頭で少年は考える。
理由なんて明快だ。大好きな母の無事を、この眼で確認したかった。それだけなのだ。それは叶わないと理性がいくら声をからして叫んでも、残りの脳はきっと聞く耳を持たないだろう。例え、大怪我を負ってでも……。
空気が、震動した。それがグランドフィナーレの予兆である事を、少年は知らない。
砂煙に塗れ茶色くざらついた少年の顔に、ふっと暗い影がかかる。
──何、これ……。
次の瞬間。急に横から伸びてきた手が腕を掴んで引き寄せ、その握力で少年はようやっと金縛りから解放された。
それが誰かを確認する余裕などない。伏せろ! と耳元で叫ばれ、言われるがままに少年はしゃがんで耳を塞ぎ、目を閉じた。
母を探したいという想いは今や形を変えて、少年を大災厄から護っていた。
そこからの光景は、目を閉じていて記憶がない。
ただ確かなのは、これまで聴いたこともないような大音響が、吹き荒れる大気が弾き飛ばした瓦礫や粉塵と一緒になって、必死に身を守る少年と助けてくれた人に襲いかかった事。そして雨あられと降り注ぐそれらのどれ一つとして、少年を直撃しなかった事だ。
大地震のような揺れが、たっぷり三十秒は続く。人々の叫び声など、ジェット機のエンジンを前に鳴る風鈴ほどの微かな音でしかない。それでも、人の声が聞こえるという事実は辛うじて少年の意識を保つのに一役買っていた。
視覚、聴覚、嗅覚、触覚。ありとあらゆる感覚が、押し潰され、破壊され、狂ってゆく。
少年はしかし、耐えた。どんなに大きな音が脳を貫いても、爆風が身体を冷たい地べたに叩きつけようとしても、歯を食い縛って死に物狂いで耐え続けた。
何があろうと、ぜったいに生き抜いてやる。いつからそんな決意が芽生えたのか、少年には分からなかった。それでも必死に、踏ん張ったのだ。
そして二分後。全てが、終わった。
母の姿は、どこにもなかった。
死者、四十九人。 重軽傷者、百二十人以上。
神奈川県南部の一都市を大混乱に陥れたその出来事は、後に「藤沢事件」と呼ばれることになる――――
【予告】
少女がヒーローに出会ったのは、
階段だった。
少女がその気持ちに気づいたのもまた、
階段だった。
どうして、こんなにこの手は温かいのだろう。
片想いに揺れる少女の夏が、やってくる。




