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残った足跡と音を辿り、茉莉は浅く四角い広場に戻っていた。
なだらかな坂を折り返しながら、茉莉はようやく想一に声を掛けた。
「想一は実織と、入り口で待っていてくれる?」
実織は欠伸をしながら尻尾を一つぱたりと振ると、首に実織を巻いたままの想一も小さく頷きしゃがみ込む。
茉莉は立ち止まることなく、斜面に開いた入り口へと降りていった。
「おやおや。これは茉莉様、もうお帰りですか」
階段を下りたところで、茉莉はとっさに目を庇っていた。
前は通り過ぎるだけだった暗い小部屋に、目を刺すほどの明かりが灯っていた。
石板を爪でつつくような音が途切れ、菜十の間延びした声が掛けられる。
「てっきり山に入ったものと、あと数日は掛かるものとばかり思っておりました。嬉しい誤算ではありますが、茉莉様には少々お待ちいただかなければなりませんね」
「ちょっと菜十さん。資材が必要だったんじゃないの、燃料とか食べ物とか」
茉莉はまだ目を押さえたまま、声がする方へ指を振り下ろした。
けれども菜十は全く動じることなく石板に注意を戻し、その上で盛んに指を滑らせていた。
「私はただ、龍を狩ってくれとお願いしただけです。山の一つや二つ無くなることは覚悟していましたが、別に鱗や毛皮、肉の類が欲しいとは一言も言ってませんよ」
言い終えてから、菜十が手を止めて言い直す。
「言って、いませんよね?」
「ええと、確かに聞いてはいないけど。何、龍って本当に石の中に眠ってるの? 誰かが本当に山で掘り当てた?」
ゆっくりと目を開けた茉莉は一拍おいて、戸惑うような菜十と目を合わせた。
「その、ここを出て川から離れる方向に、細い道があるでしょ? その先に、浅く水を張ってて丸い石がごろごろしてる果樹園があったりしない? こう、薄紅の花が満開で、甘い実が生ってるような…… あと、そこには温泉が湧く……とか」
だんだん先細る茉莉の声は、一段調子を戻して、ぷっつりと途切れた。
「この辺りは丘があるくらいで、茉莉様が行って帰ってこられる場所にそのような施設は無かったと思います。丘の麓には、桃歌という号の学び舎があったはずですが」
菜十が爪先を辿りながら、間違いありませんと念を押した。
「その先に、社と祠とかあったりしない?」
「葵餅という、狐の神様を祀ったお社がありますね」
「滝南という名前に覚えは?」
間髪入れない茉莉の問いに、菜十は心底不思議そうに顔を上げた。
「すぐ脇を流れる川の名前ですが…… どうしてそれをご存じで?」
それには答えず拳を口元に当てて、少し上目遣いにそっと問う。
「悪いけど質問を続けさせて。結樹か、あるいは芳野という名に心当たりは?」
「それは確か…… ええ、丘を越えた先にあった桑畑がそんな名前だった筈です。今はもう、残っていないと思いますが」
壁から張り出した机に石板を置きながら、菜十は茉莉に向かって姿勢を正した。そのまま茉莉が口を開くまで、黙ってその場に立ち尽くしていた。
「ここは七白坂っていうのよね。東崖の外れだと思うのだけど、正直自信はないの。こんなに雪が溶けないているってことは、随分北に寄ったところだって思った。でも巫桜がいたのなら、秘境の修行先とかでは無い限り、中央に近いはず」
最初の前提から、茉莉は探るように慎重に根拠をつないだが、それはあっさりと覆された。
「確かにここは七白坂と呼ばれていますが、東崖かどうかはお答えできません。なぜなら、私は山を越えた先を知らないからです」
「なら中の話ね。石材はどこから切り出しているの? この部屋は少し小さいけど、壁も床も継ぎ目がないでしょ。漆喰かもしれないけど、違うんじゃない? 葵餅の水盤だって壁だって石柱だって、そういえば川岸の崖も都合が良すぎる形よね」
茉莉が留まるどころか勢いを増して問い続ける。
それでも菜十は慌てず、順に手際よく応じてゆく。
「色々工夫されていますが、どれも漆喰と思っていただいて構いません。川岸は護岸と言って、水害を避けるための工夫です。治水は最初に色々と手を入れましたから。……まあ、それがそもそもの失敗だったのかもしれませんが」
「もしかして金属管を使った水道なんかも?」
「末端以外は石造りですが。茉莉さんが葵餅まで使った道というのは、多分耕作用の蓋付き水路だったのではないかと」
菜十の言動の端々に、何か良くない物が見え隠れしていた。問うだけ答えが返ってくるのに、どうしてもおかしな状況を浮き彫りにしていく。
「ねえ、菜十さん? そこまで色々手を入れているのが本当なら、どうしてこんなに寂れているのかしら? 煮炊きの煙一つ見当たらないってどういうこと?」
「それが分からないから、私は独りでここを守り続けているのです」
菜十は特に気にする風もなく、そう言い切った。
「独り……で? だ、だって、それでどうやって菜十さんは生活してるのよ! それに現に、私がここに居る。誰かが迷い込んでくることだってあるってことでしょ?」
「だから私は、あなたが後任の方だと思ったのですよ。……そろそろ、納得していただけたでしょうか?」
納得、と呟いた茉莉の足がふらついた。
両手で突いた鶴嘴の柄が、石床に乾いた音を響かせる。
「菜十さん。あなたはそれで、納得できるの?」
「求められた義務を最後まで果たす。何事も終わりがあってこそ、得られるものがある。歯車であるとはそういうものだと思っています」
時間を掛けて絞り出された問いは、最後に菜十の矜持を引き出した。
「私は長い間、待ち始めて久しいと言えるだけの時間を過ごしてきました。何か起きるというなら、それが何であれ歓迎いたします。いえ、強制はいたしません。茉莉様は茉莉様の都合で、どうぞ自由にお決めになってください」
言い終えた菜十は頭を一つ下げると、そのまま奥の部屋へと足を向けていた。
「……最後に一つだけ教えて欲しいの。結樹という人を知らない? 私の師父なの…… だと思う」
菜十は立ち止まり、小脇に抱えていた石板を撫でる。その表面を色と形が踊り始め、そしてすぐに止まった。
「分かりません。今の私に知る術は無いようです。想像はいくらか出来ますが…… それは既に、茉莉様もたどり着かれているのではありませんか?」
茉莉は何も答えず、菜十に背を向けて部屋を出た。
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想一は詰め所の前にしゃがみ込み、入り口を見つめながら実織の背を撫でていた。茉莉の足が敷居を跨ぐ前に立ち上がり、何も言わずに飛びつく。
押しつけられた頭を十分に撫でてから、茉莉はゆっくりと想一を引き剥がして目線を合わせた。
「想一は、桃を食べたの覚えてる?」
「姉様もちろんなのです! 丸くて赤くて、ふわふわで甘くて、こんな形をしていて」
想一は両手を差し出し突き上げ、形や大きさや甘さや瑞々しさを、指の形や角度まで使ってまくし立てた。
「それじゃあ芳野、って名前は聞こえなかったかも。ええと、白金色の髪の、蒼い目のお姉さんは? 緋色の打ち掛け…… うん。想一、もう良いから」
きょとんとした想一の動きに、茉莉は途中で説明を止めた。
だが次の問いより早く、想一は眉を精一杯顰めながら、伺うようにそっと答えた。
「姉様。それは…… ええと、夕陽みたいな千早と、瑠璃を灼いたような瞳に、固く透いた藁のような髪の女の人?」
「ちょっと待って。……想一は、藁なんて見たことあるの?」
ゆっくりと二度瞬いてから、想一は首を傾げた。
「車輪の付いた四角い大きな箱に積んであったのなら。……ごめんなさい、あとは分かりません」
「瑠璃なら実織も見た。滝南が売ってた髪飾りに付いてたの」
茉莉は実織の得意げな鳴き声を聞いていなかった。
呆然としながら頭を振り、顔を押さえて力無い呟きをこぼす。
「じゃあ本当に? ここでは水を治め、馬も使わず、百里の地を耕していた? そんな約束の地が、お伽噺の妖精郷が本当にあったの?」
茉莉の瞳には、様々な感情が揺れていた。
「兄さんならやりかねない。いや、でもどうやっても思突とは結びつかない。何で? どうして?」
茉莉は口に出ていることなど気付かぬように、幾度も幾度も考えを思い付いては、自分でそれを否定し続けた。
「実織は仕方ないって思うけど。茉莉って、意外と独り言が多いんだよね」
その様子をおろおろと見上げる想一の足下で、実織は呆れるように首を振っていた。