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理印の作り方  作者: 機月
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 茉莉の手が止まった。

 あと一歩で触れられるというところで、茉莉は結樹の顔を見つめていた。

 結樹は確かに穏やか笑顔を浮かべているのに、焦りのような、苦い憂いのような影が差していた。

 それは動きが止まったからこそくっきりと浮かび上がった、本当に小さな残滓だった。


「ええと、結樹兄さん。冗談にしては度が過ぎると思うのですけど」

 そっとかざした手のひらを目の前で振っても、結樹は瞬き一つしない。額に掛かっただけの髪が揺れもしなければ、息吹すら感じられない。


 茉莉の首筋を、何かが掠めた。冷たいくせに甘く、くすぐるように這い回り、そしてべたりと張り付く音。

 それは耳朶に染み込んで、しばらく経ってようやく意味を成した。


「あまり自分を苛めないことね」


 茉莉が振り向いた先には、誰もいなかった。

 桃の花びらが舞ってはいたが、影を一枚挟んだような、水面を見上げるような、何かがひどく捻れている。


 引き寄せられるように向いた先に、女の瞳が覗いていた。

 鮮やかながら、決して光を通そうとしない鉄の鈍さを持った蒼。

 魅入ったわずかな間に、瞬く瞼と睫が細められ、鼻筋が通る。

 つり上がった口に合わせて光の滝がこぼれるように、髪が解かれて肩から胸元へと流れて広がった。

 そのどれもが形良く整っているはずなのに、並べ合わせると歪んで見える。


「あなた、誰? 初対面にしては不躾よね」


 茉莉の問いには何の感慨も見せず、女はその身を起こした。

 長衣を緩く雑多に幾重にも重ねているかと思えば、腰回りは細い帯が引き絞られている。

 最後に緋色の打ち掛けが、足下から肩へと引き寄せられた。


「その単衣の襲。もしかしてあなた、東崖(とうがい)巫桜(みおう)かしら?」

 女は何となく打ち掛けを摘んで、離す。それだけでふわりと、女の足下まで覆っていた緋色の衣は宙に広がり、皮膜のようにはためいた。


「何を見てどう判断するかは、別の誰かの勝手。芳野(よしの)は気にしないわ」

 茉莉が打ち掛けに気を取られた隙に、茉莉の背後に忍びよって絡みついた。

 病的なまでに細い腕が茉莉の目と口を塞ぎ、その耳元に寄せた口唇が言葉を流し込む。


「鏡に映った姿は、本物かしら。鏡越しに見た風景は?」

 芳野の声は小さく固く心地よいが、意が欠落している。

 それでも茉莉の答えを求めるように、口を塞いでいた二の腕を外して、耳を寄せる。


「……何が映っても、鏡は鏡でしょ。どうせ磨いた石か金属、撫でてみれば間違いようが無いわ」

「当たり前は正しいのね。……触れられないものなんかない、って思うの?」


 牙のように細く鋭く研がれた爪が茉莉の目に迫り、瞼に優しく触れるてゆっくり下ろす。

「閉じた世界は詰まらないと、傲慢に振る舞ったのは誰だったかしら」


 茉莉は戸惑う間もなく、全身を強ばらせていた。

 だが不意に息を詰め、小さく呻いて唇を噛む。

「あなたは結樹の連れなの? 今までずっと、隣で見ていたってこと?」


 肩から腕へと手を滑らせながら、芳野は茉莉の前へと回り込んだ。

 口元だけが、何故か緩んでいる。

「可愛いこと考えるのね。本当、食べたいくらい可愛いわ」


 掴まれた茉莉の手首が、引き寄せられる。

 俯いた芳野の口元で、何かがちぎれる音が鳴った。


「あなたは不純の欠片を許せるのかしら?」

 茉莉の叫び声に、小さく忍び笑いが紛れて消えた。



 突き飛ばされた格好で、茉莉は肩から地面に落ち、そのまま前に転がって仰向けになった。

 見上げた空には灰色の雲が広がっている。

 視界の端には、天を突くような銀杏の大木。枝には新芽も色づいた葉もない。

 他は背は高いが枝が綺麗に落とされていて、まるで枯れ枝のような有様だった。


 茉莉はぼんやりと空を見上げたまま、胸元に抱えていた両手をかざした。

 何度か開いて閉じた手は、旅の汚れは残っていても五指揃っていた。


 人事のように気のない息をついて、茉莉は身体を起こし、のろのろと腰を探りながら、辺りを見回す。

 実織を抱えた想一が、隣で丸くなっていた。おやつを食べた後の昼寝のように、満足そうに涎を垂らして眠っている。

 他は小さな石造りの祠に、茅も壁も崩れたお堂。細い道が一本出ているだけで、周りは壁に囲まれていた。


 茉莉は引っ張り出した水袋を呷るが、水は一滴もこぼれてこない。

 何度も振ってからようやく、茉莉は舌を打って立ち上がった。

「お社なら井戸の一つや二つ、あって当然だと思うんだけど。……何、これ」


 外へつながる道の脇に、雪の積もった平たく四角い塊があった。

 茉莉は乗っていた雪を払ったが、それは井戸ではなく、浅く丸く中をくり抜かれた石の塊だった。

「水盤、なのかしら。桶にしては浅いし、その割に丁寧な仕上げだし」


 雪を奥に落としたはずみで、寄り添うように立っていた杭が折れて転がった。雪の中から、赤茶けた細長い管が覗いている。


「鉄の管に、星形の飾り?」

 折れた先は杖の柄頭のように丸くなった管に、辺が内側に窪んだ五角形の突起が付いていた。

 改めて石台の周りを払うと、杭は地面に潜り込んでいる。


 茉莉は不意に立ち上がり、そのまま辺りをゆっくりと見回した。近くの囲いに近寄り、そばに立っていた柱を撫でる。

「材質は違うけど、どっちも石よね。何これ、何がしたいの?」


 手を伸ばして届く場所に、蔓草のようなものが揺れていた。

 茉莉が何気なくそれを引く、柱の先端までぴんと張り、そして柱の頭ごと崩れた。

 粉っぽい雪煙が巻き上がるが、呆気なく晴れる。

 呆然と佇む茉莉の手の中には、細い鉄で編まれた綱のようなものが握られていた。


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