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雪を突き崩し、堅い床石を噛むはずの杖が、水音を立てた。
続けて水飛沫が二つ飛び、そして静かに息を飲む音だけがこぼれる。
白の欠片が降り続けていた。それは雪白のようでほんのり薄紅に色づいていて、何度も何度も翻りながら、どこまでも薄く軽やかに舞う。
空は大振りの枝が霞むほどの、盛りを迎えた花びらが天蓋を作っていた。木漏れ日ほども日は差さず、柔らかな明るさだけを伝えている。
枝を辿れば、抱えられるほどの幹が水面に行き着いていた。踝が隠れるほどの浅瀬で、木々は想一の頭ほどの丸石を押しのけ、あるいは抱え込むように根を伸ばしている。
「桃の花、なのかしら。水辺だから霧が出てるってことかな」
「ひゃくしゅ!」
大きなくしゃみに口を押さえていた想一が、そのまま鼻を小さく動かした。
「姉様。さっきまで痛かったのに、何か良い気持ち」
想一が続けて、すんすんと鼻を鳴らす。その頭に飛び乗った実織が、左の前足で園の一角を指した。
「桃発見! あっちあっち!」
「ちょっと待ちなさい! 想一も危ないから走らない、転ぶわよ!」
実織の短い鳴き声よりも早く駆けだした想一を、茉莉は慌てて追いかけ始めた。
想一は指をくわえて空を見上げ、実織は盛んに幹を叩いていた。
「やっぱり実が生ってたりするんだ。……まあ、そもそも外は冬だし、その辺りは気にしたら負けなのかな」
垂れ下がった枝の先に、赤みも鮮やかな実が一つだけ生っていた。
茉莉は鶴嘴の刃を畳み、代わりに二本の細い棒を引き出す。柄を捻って引っ張り、茉莉の背丈まで伸ばす。
その先で桃が生る枝を折ると、静かに柄を下げて実を手に取った。
ふわふわと産毛の生えた実を転がし、残っていた枝を摘んでから想一に手渡す。
「小さいけど、良く熟れてるようね。……どうしたの?」
「想一、食べないの? 実織は後で一口貰えれば良いよ?」
想一は桃を受け取ったまま固まっていた。
鶴嘴を元に戻し終えたところで、茉莉も眉を顰めて辺りを見回した。
「足下で洗うのはちょっとね。分かった、両手に乗せて。動かないでね」
手首の内側から薄く細い刃を取り出すと、縦と横に切れ込みを入れる。
桃の皮が四枚、天辺からめくれて丸まると、続いて果実も四つに等分されて花咲くように開いた。
茉莉が種を放って一切れ摘み、隣の一切れをくわえた実織が木のまたに飛び乗った。
同時にかじり付く様子に見とれてから、想一は空いた片手で一切れ摘んで口の中に放り込んだ。
「ちょっと熟れ過ぎかしら」
「実織は、も少し固い方が好き」
食べ終えた茉莉は背中から想一に突き飛ばされて、近くの桃の木に手をついた。
「どうしたの想一、虫でも付いてた?」
想一は顔を真っ赤に、目を輝かせて、出鱈目に片手を振り回していた。
口を開こうとして慌てて片手で塞ぎ、もう少しで最後の一切れを落としそうになる。
「実織は喉詰まらせたのかと思ったよ。誰も取らないから、ゆっくりお食べ?」
のんびりと伸びをする実織に反して、茉莉は訝しげに表情を曇らせた。
「まさかとは思うけど。桃食べたの、これが初めてだったりするの? いや、そういうしきたりとかあってもおかしくないけど。……ないのか?」
曖昧に頷く想一を尻目に、茉莉は勝手に結論を出していた。
「やっぱり菜十さんとは、もう一度じっくり、とことん話をしないといけないみたいね」
▽
「全く。相変わらずだね、おまえは」
木陰から現れたのは、茉莉よりも少し小柄な男だった。
しわ一つ無い薄手の上着に、折り目の付いた細身の筒衣。その上から羽織った白の長衣は少し大きいようだが、袖をきっちりと折り返したところを針で留めている。
「結樹、師父?」
「師父は言い過ぎだと思うんだけど…… まあ、似たようなものか」
結樹はその場で立ち止まり、筋張った大きな手を合わせて頭を下げた。
機械的に同じように礼を返した茉莉が、頭を上げ様に口火を切った。
「師父。あなたはここで、一体何をしているのですか」
「何って。ずっと桃造り、かな」
沈黙した茉莉が息を吸い込む前に、結樹は手を突き出して制した。
「それには『果物は何故生るのって聞かれたから』って答えるしかないんだけど。覚えてる?」
今度こそ絶句した茉莉を、結樹は楽しげに見つめる。
「いやいや、回り道のように思えて、有意義な答えが出たんだって。ほら、こっちの桃、ちょっとかじってみてよ」
結樹が隠しから取り出し放ったのは、まだ青くて固い、小さな桃の実だった。口に頬張った瞬間、茉莉は目を見開いた。
「この桃も、師父が作ったの? まだ固いし小さいし、匂いだって青臭いのに。何でこんなに甘いの? ……それも、さっきの桃と同じくらい」
勿論種も仕掛けもあるからねと、結樹は満足そうに頷いた。
「茉莉の理印は見させてもらった。あれはつまり『同じことを繰り返せば、同じことが起きる』ってことだ」
目線だけで先を促され、結樹は目を細めて先を続けた。
「身体は刺激に反応する。針を刺せば血が流れる、痛いと思う、手が勝手に引っ込む。なら、針が刺さったらと思ったら? 『身体が同じと認識さえすれば、そのまま同じように振る舞う』と推測出来る。そしてそこには『正確な刺激』が必要になるだろう」
どうかな、と悪戯めいた調子で片方の眉をつり上げる。
「……それは、単なる自己暗示に過ぎないんじゃないの? 私が思いこみが激しいのは、まあ認めるけど?」
「『杖』で解決したんだろ? どういう理屈かまでは分からないけど、茉莉は思い描く刺激を音として送り出している。それは精々自分止まり、他への干渉は無理だと思うけど。その辺は何度も繰り返して克服したのかな?」
茉莉が思わず逸らした視線が、想一とぶつかった。
「姉様は、良く川に落ちるの? だから服も乾かせる?」
円らな瞳は純粋な興味に満ちていて、悪意の欠片もない。
「違うのよ、あれは…… そう、洗濯! 服は良く洗うから、それで」
「姉様は、革鎧も洗うんだ」
想一は疑いなく何度も頷いているが、茉莉は何やら決まり悪そうに身を捩っている。結樹も忍び笑いをこぼしていた。
息を整え居住まいを正すと、茉莉は正面から結樹を見据えた。
「師父の編んだ種と仕掛けを、お聞きしても良いですか?」
「『思突』って呼んでる。『一度体験したことを再現する』って言うと、何か『理印』と似ている気がするね」
静かに目を閉じた茉莉が、小さく声に出して呟く。
「師父。だから私は桃の花が咲く中で、その後に生るはずの実を食べたのですか?」
「そういうこと、かな」
小さく頷く結樹の、眉がわずかに揺れた。
「食べられる桃は、まだあるのですか? 桃以外には何か用意して、いえ、出来るのですか?」
「ここでは無理だよ。だって桃の形をして、桃の香りがして、桃の味がするからこそ、それを桃としか思えない。そうだろ?」
なおも思案を続ける茉莉に、結樹は困ったように息をついた。
「見透かされたみたいだから白状するけど。この桃園が丸ごと使って、馬鹿馬鹿しいほどの手間を掛けて、ようやく桃一個分の記憶を再現出来るんだ。種が分かって幻滅した?」
今度こそ自嘲の笑みを浮かべた結樹に、茉莉は慌ててそれを否定した。
「それは逆です。この桃園があれば、桃一個を再現出来るということを示しました。師父は他人に、間違いなく桃を味わわせたんです」
理印では出来ないことですと、茉莉は首を振りながら言葉を紡ぐ。
「二度目は警戒されるでしょう、規模も尺度も大きすぎます。けれど、そんなこと問題ではありません。記憶というならなおのこと、いくらでも演出次第で」
「それは駄目だよ」
浮かされるほどに高まっていた茉莉の熱が、結樹の一言に凍り付いた。
「出来るってだけで、試しちゃいけないことだ。意図は向きと大きさを持つけど、受け取り方は人それぞれ違う。誰もが自分の物差しで測るし、その目盛りは知らない内に簡単に変わる。思い入れがあるから、似たような状況は何度だって起こる。影響が出ない訳、ないんだよ?」
しばらくの間をおいて、茉莉から何かが剥がれてこぼれた。
聞き返す結樹に、矢のような言葉が突き立てられた。
「師父がそれを言うの。師父が黙って西森を出てから、一体どれだけ」
詰まった喉から引き抜いたのに、取り出したにしては乾いて干からびた声だった。
今度は結樹が、閉ざされた口を無理矢理開く番だった。
「だから旅に出た? それは違うよね、それだけは違う」
その声は、それまでの何よりも、真摯で自信に満ちていた。
「結樹はそんなこと教えていないし、そんなことを望んでもいない。そんなことを違える間柄じゃ、無かったはずだろ?」
顔を伏せたまま、茉莉は動かない。
白くなるほど握りしめていた指を、杖から剥がして胸に当てる。
それから散々視線を泳がせてから、小さく小さく、問いかける。
「師父。いえ、結樹……兄さん?」
結樹は驚き口ごもり、はにかみながら目を逸らした。
「西森の洞には、雨と緑としかないと思っていたけど。……うん、さすがに『ちゃん』は恥ずかしいよね、つり?」
ぼそりと告げられた慣れぬ呼びかけに、茉莉も結樹も、互いに目を合わせられずにいた。