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理印の作り方  作者: 機月
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 川岸にたどり着いた茉莉は全身から水を滴らせ、杖にすがって膝が崩れるのを堪えていた。

 息は震える上に絶え絶えで、焦げ茶の濡れ髪が背中や胸に張り付いている。

 髪をかき上げる二の腕は薄く細く、日に焼けていたが血の気を失って青い。

 肩や胸元、腰に巻かれていた黒く細い革帯が次々と解けて河原にばらまかれ、薄くなめした革の上衣が露わになった。袖はないが襟は高く、裾は膝が隠れるほどに長いが切れ込みは深い。


 動き易そうな細工の数々は、今は何の役にも立っていなかった。水を滴らせた革はとにかく暗く冷たく、そしてその動きは明らかに重い。

 片手を杖の端に乗せたまま、酷く億劫な調子で足下を何度も掬う。ようやく掴んだ革帯を、今度は弓のようにしならせた杖の両端に渡そうとする。

 茉莉が弦を張り終えた杖を肩に乗せたところで、ついに腰が落ちた。

 それでも革帯を押さえたままの両腕が手探りで位置を決め、無造作に弾く。


 かすかな音に、茉莉の全身が小さく震えた。


 それだけで、濡れて絡まり枝垂れていた髪がたちまちさらりと、流れて広がった。

 肌を冷やす氷水も、衣服に凍みた水跡も、それだけで全て消え失せている。


 茉莉は一息ついて身を起こすと、杖を突き立て、髪を緩く束ねながら辺りを見渡した。

 目の前にはぽかんと口を開けたまま、座り込む子供の姿。

 そしてわずかに逸れた視線の先には、体中濡らして毛を張り付けた実織が、一回り小さくなった体を丸めてがくがくと震えていた。


「な…… 何やってるの、実織!」

「だって『理印(りいん)』って嫌い! びりって来るの痛い!」


 三つ編みの途中にも関わらず、茉莉が慌てて杖を引き抜いて肩に乗せると、対する実織もその場に低く身構え睨み上げる。

 弦が弾かれるが、飛び跳ねた実織は濡れ鼠のままだった。


「もう、あんまり手間掛けさせない! 風邪でも引いたら、大変なのはこっちなんだか、ら?」


 茉莉のまなじりがつり上がる中、実織が白い布に覆い隠された。

 しゃがみ込んだ子供が、目の前の茉莉をじっと見上げていた。

 地面に広がる丸い布は差し渡しが背丈の倍はあり、真ん中の切り込みから被っている。

 紐も帯も見あたらない、簡素すぎる造りの衣だった。

 それなのに柔らかそうな生地は艶やかな光沢を持ち、透けるほどに白く薄い。縁を彩る文様は棘のある蔓草か氷の浮いた渦巻きを思わせる、藍の非常に凝ったものだ。


「えーと。別に苛めている訳じゃないの。渡してくれないかな、それ」


 子供はそれと指された指とその先に目を向けるが、衣の下で膝を抱えた腕は組まれたまま、少しも動く気配はない。

 茉莉と子供のちょうど中間で、実織は衣の下で丸くなっている。不気味なほど静かだが、水が染みて透け始め、がくがく体を震わせているのも見て取れる。


「このままだと実織倒れるし、あなたの服も濡れるし。……うん、これは使わない、布で拭いたげるから。それなら良いでしょ、実織?」


 尻尾がかすかに揺れて、力なく倒れた。


「良いよね?」


 子供の変わらぬ様子を了承と取ると、衣をめくって実織をつかみ取り、腰の小物入れから引っ張り出した布で乱暴にこすり始めた。



 腕に抱えていた白猫を放り出し、代わりにしっとりと濡れた、毛だらけの手拭いを摘んで振った。


「これで終わり。……全く、洗い物は増やしたくないのに」

「そんなこといっても、痛いものは痛いんだよ? いい加減、大雑把なのに気付いてよね、茉莉」


 茉莉が突いていた膝を払うと、子供は付いてもいない膝を見よう見まねで叩いている。

 ゆっくりと口元を緩めながら、茉莉が声を掛ける。


「全部見てたと思うけど、改めて挨拶からね。私は茉莉、こっちは実織」

「実織はねー、子猫なの!」


 自慢げに語尾を延ばして鳴く白猫を、子供はじっと見つめて首を傾げる。


「実織は、子猫?」

「そうそう。ふわもこしてるけど、手足がちょっと太いでしょ? これから大きくなる証拠よ」


 満足そうに頷くと、茉莉は弦を外した杖で辺りの河原を掻き始めた。

 散らばっていた革紐を無造作に掴んで、腕や肩、胸や腰に巻き付ける。

 所々肌も覗いて兜もないが、要所要所を押さえた黒鉄の薄甲冑のようになった。


「言葉が通じるようで良かったわ。この辺のこと聞きたいし、出来れば道案内も見つけたいって思ってたの。えーと」

 茉莉は最後に、ひとまとめにしただけの髪を緩く編むと、その尻尾にも革紐を巻いて胸元に流した。

「聞いてなかったよね、あなたの名前。教えてくれる?」

 子供はしばらく固まったまま目を瞬かせると、顔を赤らめ俯いてから小さく、想一(そういち)と呟いた。

「握手拱手の習慣は無し、か。東崖(とうがい)が近いからか、単に袖がないから」


 差し出された手を、想一は不思議そうに見つめている。

 茉莉は気にした風もなく、想一の足元に丸く広がる裾に手を伸ばした。

 藍の渦巻きとも蔓草とも取れる文様を摘み上げながら。驚くほど細い小さい素足に、茉莉の笑みが強張った。



「そんなに気に入った? 実織は結構楽しいし、茉莉も実は喜んでると思うけど」


 実織は顎まで付けた腹這いのまま、機嫌が良さそうに喉を鳴らしていた。

 投げ出した前足は乗せただけのように見えて、張り付いた吸盤のように動かない。

 代わりに伸びきった後ろ足と尻尾が括った髪のように、一々動きに合わせて跳ねている。


「きれいでもないし、かわいくもないし、おしゃれでもないけど。あれ、じゃあ想一は何が気に入ったの?」


 だらけきった実織を頭にぶら下げたまま、想一は時々間をおきながら拍子を取るように跳ねていた。

 それが足跡がいくつか残るだけの、三歩も逸れれば崖から落ちるような細い獣道だったが、想一の足取りは逸れることも迷うこともなかった。

 広げた細い腕に薄い衣が張り付き、あるいは風にはためく。

 踏み出した足は都度違った音を立てながら、古い足形を繋いで道を広げる。

 引きずるほどに長い被り布が、左右の手首と膝下でたくし上げるように、黒い革紐が巻かれていた。

 広げた両手や振り上げた足を目で追い、その度に想一は目を細めて頬を緩ませている。



 後ろを歩く茉莉は、剣呑な雰囲気をまとっていた。

 露わになった想一の手と足を見つめ、眉を顰める。


「霜焼けって、慣れでどうにかなるものなの? 立派な凍傷だったと思うんだけど」


 袖から覗く小さな手には汚れも傷もないが、少し腫れたように赤い。

 突き出した足先は茶色い毛糸編みで二股の、少し大きな手袋を履いている。甲は裾と同じ革紐で止められていたが、むき出しの踵は手と同じくらいにはむくんでいる。


「子供も立派な労働力だっていうのは分かるけど。それにしたって」


 誘うように目の前を揺れていた藍の文様が、いつの間にか止まっていた。

 獣道は崖に沿うように、左に緩く切れながら先へ続いている。

 だが右手の黒い森は唐突に一角が途切れ、その先には灰色の空と、広く浅く四角く掘り下げられた雪原が広がっていた。


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