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どこもかしこも、白く静かに沈んでいた。
辺りを覆う薄化粧は、粉砂糖のように軽く細かいのに、ひどく濃い。
枯れて乾いた藪を雲の影のように溶け込ませ、葉の落ちた木々を凍てついた氷柱のように飾り立てている。
それは空も例外ではなかった。
風はなく、大気は澄み渡っている。だが空は真綿の天蓋を被っていて、険しい山々の連なりを届かせながらも、その全容は霞ませている。
およそ二十歩かそこらの距離を挟んで、両脇に崖が切り立っていた。
身の丈の倍はある絶壁はどちらも白く平らで、間に挟まれた底も同じように白くて滑らかだった。
「ねえ、茉莉茉莉! あれ何? 何だと思う?」
小さくふわふわした白猫が、甘い声で小さく鳴いた。
尖った小さな耳と長い尻尾をぴんと伸ばし、落ち着きなくその小さな手でたしたしと地を打ちながら、右の前足で崖の上を指す。金色の瞳は黄玉というより、冬の満月のようにわずかに緑を帯びている。
「静かにして。何のために迷彩してると思ってるの」
不機嫌そうな声を発したのは、かさつきくすんだ薄茶の筒だった。
竹のような節が付いていながら、高さと同じぐらいに太くて不格好な寸胴で、その上に大きさだけ四半分くらいの、同じような筒がちょこんと乗っている。
何より不思議なことに、筒は輪郭を残して風景に溶け込むと、数歩離れた場所に姿を現す。その影は縦にも横にも揺れず、そして常に体の芯をくすぐるような響きを発していた。
その後ろを追いながら、小さな子猫は一向に鳴き止まない。
「ふわふわひらひら、お花みたい。きれいだけど、あれ何のつもりかなー」
「実織、いい加減にしないと怒る…… うん?」
白く平らな崖の上に、確かに大きな花のようなものが揺れていた。
固く細い様こそ下に向けた百合に似ていているが、縁は深いひだが幾重にも巻き、藍の蔓草のような模様がなびいている。
足踏みをする度に揺れる衣は大きく長く、首筋は覗くのに、手腕は見えない。
体の小ささ薄さより、何よりその落ち着きのない仕草は、途方に暮れた幼い子供ものに違いなかった。
「何やってるのかしら。歓迎でも警戒でも無いみたいだけど。……あ」
崖の上で頭を下げたらしい、小さく丸まった背中が宙に浮いて、そのまま舞った。崖を転がりながら長い裾を風にばたつかせ、吹き溜まりにめり込んで動きを止める。
一緒になって崖から剥がれた雪が、降るそばから粉々に砕けて、白く煙った。
ふらりと立ち上がる影が浮かび、ゆっくり頭を反らし、そして間の抜けたくしゃみをする。
「わー、鈍くさそうな子。茉莉、どうする?」
「怪我とかは無さそうね。道が聞けると良いんだけど…… ううん、ここは万全を期すべきね。大人のいるところに案内して貰って、ちゃんと地図を見せて貰って」
薄茶の寸胴が動きを止めた。その上に乗る木桶にしては扁平な筒が、きりきりと音を立てて左に回る。
「ねえねえ茉莉。あの子、何やってると思う?」
「実織、静かにして」
薄茶の寸胴が盛り上がると、それは四角く細長い棒となった。先端片側には、鈍色に尖った鶴嘴が付いている。
無造作に振り下ろされた鶴嘴は、甲高い音を立てて跳ね返った。
薄く積もっていた雪が飛び散り、ふわりと舞う。
「あれー? さっきまでは『あっちいけ』か『こっちこい』だと思ったんだけど」
「うん、街道にしては人が少なすぎると思ったんだ。……ごめんね、実織」
「え?」
寸胴が鶴嘴を振り下ろした跡は、幾つか走ったひびが段差を作っていた。
そこから染み出していたのは澄んで綺麗な、けれども被れば凍りつくのは間違い、氷を浮かべる流水だった。
「あ、何か動いた! 魚だ、絶対魚だよ茉莉! 今日は塩焼き!」
「実織は黙る! ほら掴まって!」
振り向いた実織が、全身の毛を逆立てて飛び上がった。
その足下すれすれを、仇を穿つような勢いで鈍色の嘴がなぎ払っていった。
「何で避けるの、実織!」
「茉莉の方がひどい! 刺さったらどうするの!」
二つの非難は、互いに噛み合わない。
止まらない鶴嘴に引きずられて、茉莉はよろめく。その度に氷をたわんで軋み、耐えきれずに砕けて縦横に断崖を走らせ続ける。
足を滑らせた実織は、とぷんという水音を残して裂け目に吸い込まれていた。
あちこちで水が染み出し、裂け目が次々とめくれていく。
互いに競うように反り上がりながら、どの固まりも途中で勢いを緩めて止まり、そして速やかに沈み始める。
「本当にもう、実織は世話が焼ける」
ようやく動きを止めた茉莉は、その姿形の、何より張りを変えていた。
丸く固かった筒は身体に張り付き、前屈みに低く構えた人影を浮かび上がらせている。
首の後ろにまとまっていた髪が解けて、背中を伝って細い腰に跳ねた。
それが合図だったかのように、今度は一転、日除けの飾り布のようになびきながら、そして四角く小さな足跡だけを残して影が走り抜ける。
迷わず詰め寄った裂け目から濡れそぼった毛玉を掴み上げ、反転したところで体勢を崩して膝を打ち付ける。膨らんだ薄物から風が抜けて、再度身体に張り付いた。
「実織は茉莉を信じてたけど! どうするの、こんなの」
ひびは既に両側の崖まで達していた。
水はもう足の甲に浸かるほどで、右手から左手へと流れているのすら分かる。
茉莉は実織を脇に抱えたまま、いつの間にか外套のようになびいていた肩口をむしり取って足下に押し当てた。
日に焼けた二の腕をそのままに、屈み込んでいたのはきっかり一秒。
だが事態は一刻も止まらなかった。
「実織、手袋お願い!」
目の前に差し出された毛糸編みの二股手袋を、実織は首の二降りで抜き取ると、それをくわえたまま前足で茉莉の首にぶら下がった。
「補強が無理なら、イメージは遮断…… まずは狭く深く、水路に板を突き立てるように!」
茉莉は胸元を掴んで振り抜くと、頭から足下まで、その身を覆っていた被り物が半透明のままはぎ取られ、宙で形を変えた。
真上に構えた棒の先に、今度は長方形の鉄塊が浮いていた。一辺の縁に刃が付いた鍬に形こそそっくりだが、人一人ほどの刃渡りと長さを持っている。
振り下ろされた鍬は、飛沫も上げず、浮かぶ水も氷も断ち割り、そしてあっさりと底に突き立った。
「こういうところに、育ちが出るんだよねー 何で農具かな、茉莉」
「あ、あれ?」
顔を赤らめた茉莉の目の前で、砕けた氷がこつんと音を立てた。あるものはせき止められた水面に溜まり、そしてあるものは脇にそれて流れてゆく。
目の前で二つに分かれる流水は、緩くおとなしい。
踏む川底の石は、小さく丸く、なめらかなものばかり。
そして底から水面までは、多く見積もっても茉莉のふくらはぎほどしかなかった。
「氷の厚さも水の流れも、倍はあると思ったんだけど……」
「茉莉! 動いた、魚だよ!」
目を逸らしたまま考え込む茉莉の耳に、何かを叩く音が届いた。
それを止める間もなく、茉莉と実織の悲鳴に、渦巻く水音が重なった。