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茉莉がゆっくりと、目元に腕をかざした。
小鳥の鳴き声、黒い土と若い緑の香り。風はまだ冷たく、甘い香りもない。これから緑の絨毯になろうとしている、どこにでもあるような春の野だった。
茉莉はその直中で仰向けに寝ころび、まだ寝足りなそうに目を細めている。
その胸元に乗った小さな白猫が、明後日を向いて毛繕いをしていた。
「変な執着は消えた?」
茉莉はそのまま、こくりと顎を引いた。
「どうして実織と茉莉が一緒にいるか、思い出した? 怒った茉莉が悪かったって、ちゃんと認める?」
実織は何度も念を押すが、そこに責める調子はない。
茉莉も首を頷かせるだけだが、その仕草はとても素直だ。
「もう怒ったり、拗ねたりしてない? 全部水に流した?」
茉莉は全ての問いに、頷きだけで答える。
しばらく宙を睨んだ実織は、ならいいと、同じように頷いて肩から力を抜いた。
「でも、分からないことがあるの」
まだふわふわとした茉莉の声に、今度は実織が耳を揺らすだけで先を促した。
「ずっと今を見るって、どんな気持ちかなって。今の心持ちで、何年も先とか昔とかを思い出すってことでしょ。そんなこと、出来るもの?」
「無理だし無意味。同じものしか視ていなくたって、その時間に応じて感じ方は変わる。さっきのは、見たまんまってことでしょ」
実織はつまらなそうに即答した。
「あんな何もない、誰もいない世界で人が生きていけると思う? 人間そっくりで、あれで生まれたばっかりだったんじゃないかな。靴だって知らなかったし、物を食べたの初めてって顔してたし」
言われてみればその通りと、緊張感のないまま茉莉がこぼした。
「怠惰の王って、やっぱり龍のことなのかしら。どんな美姫も財宝も、集めるだけ集めて見向きもしない。それって、いつも同じに見えるから、わざわざ目を向ける必要がないってことよね。……集めようって、意思があるのは変かしら」
「そっちじゃなくて。視点を動かす必要がないほど、過去も未来も把握してるって方じゃないかな。……それでもやっぱり、物に執着とかしなそうだよね」
茉莉も実織も、互いの結論をくすぐったそうに聞き入れた。
「想一が龍だったんじゃなくて、龍が想一に成ったのね、きっと」
「少なくとも怠惰には似合わない素直さだったよね」
二人はどちらの答えにも異論なく、今度こそ屈託無く笑って目を合わせた。
「さてと。何から手を着けようかしらね…… やっぱり人探しからなのかなぁ」
ゆっくりと背を伸ばした茉莉が、そのままぼんやりと呟いた。
実織は怒るでもなく呆れるでもなく、まじまじと茉莉を見つめる。
「違うわよ。七白坂の人たちは私の理想で、だから実在するはずないって事は理解してる。でもあんな仕掛け、私にも実織にも思い付かないでしょ? ならそれはやっぱり、他の誰かが作ったって事だよね」
「魔法なんかじゃないよね。もっと地に足の着いた…… なら学問か宗教になるのかな」
ぐるりと首を回す実織も、そこには迷いも不満もない。
だが決めるのはそれで全部とばかり、茉莉は勢いをつけて立ち上がった。
帯を締めて肩に荷物を掛け、その反対側に実織が飛び乗る。
「二人は行っちゃうんだね。寂しくなるけど…… 行ってらっしゃい」
茉莉の袖を、小さな手が引いて離れた。
「何を言ってるのよ、想一」
「何言ってんの、想一」
茉莉と実織の怪訝な声を掛けられて、想一は慌てて顔を上げた。
一目と持たずに真っ赤になって、訳もなく目を泳がせ、結局顔を伏せてから上目にちらりと窺った。
「ボクもついて行って、良いの?」
「もちろん」
返った答えは相談も合図もなかったが、その勢いも呼吸もそっくり同じ言葉となって飛び出し、想一と、想一を見る二人の顔まで暖かな笑みで染め上げた。