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理印の作り方  作者: 機月
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 腹に石突きを突き込まれながら、実織は鶴嘴ごしに茉莉の動きを縫い止めた。両手で支える茉莉に対して、実織は左の前足だけで拮抗している。


「茉莉は本当に、手加減とか容赦ってしないよね」

「そんな余裕が無いだけ。何でそんな、細いのに重いのよ」


 石突きは地を噛んでいるのに、梃子の代わりになる気配もない。

 だが実織の右前足は力無く垂れ下がっていた。爪先も甲も肉球も、真っ赤にねっとり濡れそぼっている。


「茉莉も大概、緊張感に欠けるって言うか。そっか、まだ余裕があるって事だ」


 二人が全く同時に、力を緩めた。

 触れ合うだけの柄と爪が、再び押し合う刹那に互いに左へと逸れた。

 実織は叩きつけるように地面を踏み抜き首を振って、茉莉の二の腕に鋭い牙を突き立てていた。

 対して茉莉が擦り上げ打ち落とした影は、しなやかで速いだけの、まるで重さのない、実織の尻尾だった。


「え?」


 驚きの声を上げたのは実織の方だった。鎧も服も付けていない柔肌に噛みついたにも関わらず、千切れるどころか牙すら通らない。

 そのままわずかに吊られて泳いだ実織の顎の下に、茉莉が潜り込んでいた。

 噛みつかれたままの右腕を引きながら、左肩で喉をかち上げる。そのまま背を腹につけ、巻き込むように突き上げ、くわえられている方の脇を引き絞る。

 実織は足まで払われ、きれいに宙を舞い、そして背中から地面に叩きつけられた。

 茉莉は流れるままに実織に跨がり、そのまま喉笛を掻き切る。


「私の理印は他人に干渉できない。でも自身の感覚ならいくらでも騙せる」

「それこそ、ただのやせ我慢って言うんじゃ?」


 実織の軽口も切れがない。喉から気泡を立てていたが、茉莉は迷いもせずに心臓を刃で抉った。

 そこまでしてようやく実織の身体は動きを止め、光となって弾けた。



「嘘だ…… 嘘だよね、実織?!」

 息も荒く倒れ込んだ茉莉からは少し離れたところに、想一が駆け寄っていた。

 せき込む子猫の実織が、辺りに赤い血の花をまき散らしている。


「何で実織がこんな…… 姉様、何で? 二人ともさっきまで、あんな仲良くしてたのに」

「あのね、想一。さっきみたいな危ない玩具、そのまま持たせておく訳には行かないでしょ?」


 息も絶え絶えに、茉莉がようやく身を起こした。

 想一の手の中で、血塗れの子猫の姿が霞み、にじんで消える。


「あ、あれ?」


 動きを止めた茉莉の肩で、小さな猫が欠伸をかみ殺した。

 茉莉が振り払った途端に真白い子猫は消えたが、同時に想一の手の中に血の染み一つ無い、無傷の実織がうずくまっていた。



 今まで静かだった雪原に、風が流れていた。

「想一。今、何をしたの? 実織の怪我なんて振りだし、血糊も実織の仕込みだから消えたって、そこまでは納得出来るの」


 茉莉は聞く者を凍て付かせる、底冷えするの声で詰め寄った。


「でも実織を私の肩に乗せて、消した。想一は杖もない、袖を結んだ革紐を使った様子もない。種も仕掛けも使ってない、そんな状態で何をしたの?」

「姉様、実織の怪我は振りだけじゃないの。最初に投げた皮剥き包丁、姉様はわざと外していたけど、実織はその前にこっそり動いていたの。それを隠していた実織は、すごいバカだと思う」


 まだ動かない実織を撫でる想一は、気負うこと無く、くつろいでいた。


「けどね。だから、姉様が包丁を投げなかったらどうかなって。思っただけ」

「だけって…… 想一には何が見えているの? どんな精度と深さなのよ」


 いやそもそも、と。今度こそ、疑わしく目を細める茉莉が背筋を震わせた。


「理印も思突も認識している『今』にしか、干渉できないのが鉄則でしょ。過去の認識なんて曖昧で、操作なんて出来ないしする意味がない。起こった現実は変わらない、思い違いの一言で済んでしまう……」


 手首を握った茉莉が、目線を落とした。そっと引き抜かれたのは、実織に投じて怪我を負わせたはずの皮剥き包丁。突き立ったはずの地面には血痕も、勿論刺さった跡すらもない。


「姉様の言っている意味は、ボクには分からない」


 想一の静かな言葉に、茉莉は思わず身構えた。


「でも理印が使えるのは『今』だっていうなら。ボクが見ているのは、どれも『今』ってことになるみたい」



 通り抜けた風が、どこか単調な羽音のように唸って形を持った。

 音はいくつもの景色となり、その一部が切り取られて残り、少しずつ重ねて、あるいはずらしながら、針で止められたように並んでゆく。

 白く氷の張った川、黒く尖った森、細く平らな水路、廃墟の前の露店、花の咲き誇る桃園、すり減った石の祠、そして四角い駐車場。

 最後の束の半分ほどが黒く染まり、何事もなかったかのように戻る。


 かすかな衣擦れに、茉莉は小さく息を飲んだ。

 実織に向けて投げたはずの刃が、茉莉の剥き出しの腕に寄り添い、革紐に戻って巻き付く。


「何をするつもり?」

 茉莉は自分の腕を撫でるが、革紐は一向に解けない。


「喧嘩両成敗ってことじゃない? 実織は一歩も動けないよ」

 想一の手から降りた実織は背を丸めたり頭を下げたり、身体は動くのに足が張り付いたように動かない。


 想一は一心不乱に、景色をめくり、指でなぞり爪でひっかいていた。

 その動作一つ一つに今度は様々な景色が緩く点滅を始めた。

 左から右に、そのまま左に戻って想一は動きを止める。

 茉莉も実織も動けぬまま、だがそれ以上何かが変わった様子もなかった。


「実織の悪戯を、止めたいだけなの。なのにいくら変えても変わらない。何をすればいいの? 何をしなければいいの?」


 想一が様々な景色の中の人物をつつく。何をどう選んでも、周りの景色のいくつかが黒に染まり、それが急速に広がってゆく。すべての景色が真っ黒になるのは一瞬。その後は何もなかったかのように、元の景色に戻る。


「それを止めて。『想一の今』かもしれないけど、それを駒のように扱うのを止めて」


 茉莉がこぼした声は、驚くほど小さく、か細い。

 それでも聞きつけて手を止めた想一は、その食いしばった歯に目を瞬かせた。


「姉様? 楽しいとか嬉しいって思うの、そんなにダメなの? 喧嘩は良くないんだよね?」

「聞いて、想一。想一と一緒にいると優しい気持ちになれる。想一が嬉しそうにしていると、私も楽しい」


 でもね、と。続けた茉莉の顔が、くしゃりと歪む。


「私は結樹が良いの。結樹がいれば、それで良いの。そう思う私が好き。その思いを消したいなんて思わない」


 風が唐突に凪ぎ、それが間違いであったかのように、何事もなく流れた。


「姉様、それは良くない拘りなの。……ボクは、姉様が旅に出るならお見送り出来るし、連れて行ってくれなくたって我慢する。でもね、このままだと姉様も実織も、二人とも動かなくなっちゃう。そんなの、ボク」

「そういう事をね、聞きたくないの!」


 茉莉は瞬時に沸騰し、火のような瞳で想一を見据えた。

 想一は口を噤むことを忘れたように、ただ茉莉を見返すだけだった。


「想一の言いたいことは分かる、もっともだと思う。けど、これ以上は触らないで」

「でも、だって…… 姉様は、結樹師父と一緒にいたいんでしょ?」


 茉莉の手から鶴嘴が落ち、そのまま地面に倒れた。

 辛うじて立ってはいたけれども、意志も感情も抜け落ち、冷めきった灰のように熱を失っていた。


「……理想って言うのは、覚めない夢なのかもね」


 片手で目を覆ったまま、天を仰ぐ。


「実織も想一も、悪くない。良くない拘りだって、分かってる。でもこれが作られた想いだなんて、知りたくなかった!」


 訥々と語る茉莉の声は、良くない振幅に震えていた


「形を持ったらそれは偶像だって。ならそこに作為があるなんて当たり前の事なのに。そんな当たり前のこと、気付かない振りして」


 何かにしがみつくようだった想一の手からも、一切の力が抜けた。

 藍の文様をなぞるように、胸元で握りしめていた手がゆっくりと下りてゆく。

 切り取られた景色は風に煽られる帯のように、忙しなくはためき、縁を揺らめかせた。向きのおかしな影絵のように、形と色が褪せてゆく。

 何かから不意に解かれたように、暗く小さな点となって、そのまま消えてゆく。

 想一はもう何もせずに、ただそれを眺めていた。


「静かに行かせてくれて、ありがとう。想一」


 茉莉の一言に、湿り気はなかった。軽やかな笑みと、静かな諦念。

 最後の一個が消えると同時に、その場は闇に包まれた。


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