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「どんなに憎まれようと、王族としての務めを果たさなければなりません」
ヘレーナは、こんな時、絶対に震えることはない。
それよりも彼女を支えているワルターの腕のほうが、高ぶった感情で小刻みに揺れていた。
自分の恥も忘れ、ワルターはヘレーナの言葉にじっと耳を傾ける。
「務め?」
「はい。民を守りぬくことです」
教則通りの答だった。
しかし、ワルターは当たり前の言葉に唇を噛み締める。
ヘレーナの有り様は、ワルターに衝撃を与えた。
どんなに憎まれようとも、蔑まれようとも、どんな扱いを受けようとも、その相手に慈悲深い心を向ける。全てを飲み込んで、守ろうとする。それが、王族と言うもの。
ワルターには、それはできないと思う。
現に、今日の視察では、ワルターは自分に気に入らない態度を取り続けるカタリーナを何度殴り倒そうかと思ったことか。その流れのまま、イライラとした感情を殺すこともできず、ヘレーナにきつくあたってしまった。
この時ほど、自分が情けなく感じたことはない。
ワルターは、そっとヘレーナから手を離し、ヘレーナに背を向けるように立ち上がった。
もうこれ以上、この話を続けたくない。
それに、あまりに輝かしいヘレーナの顔を直視できなかった。あんな、ちょっと手に力を込めれば折れてしまいそうな細い首で、ひねれば簡単にねじれる弱い腕で、絶対に力では負けないと分かっている相手に。ワルターは何故だか勝てない気がした。
「父に……白の王に会いたいか?」
無理矢理、話題を絞り出す。
「父に……」
ヘレーナは、ワルターの言葉にはっと息を呑んだ。
「明後日の会談に、付いてくるか?」
本当は、議会でも王妃は城に残すことが決まっていた。普段は健やかにお過ごしですが、今回は体調を崩され、念のため欠席にと、そんな白々しい言い訳を通すつもりだった。
けれど、ワルターは、突然ヘレーナが喜ぶ顔を見てみたくなった。
あまり表情を変えないヘレーナが、自分の隣で微笑んでくれたのなら嬉しいと思ったのだ。
意を決して、再びヘレーナに向き合う。
ヘレーナの頬がわずかに赤くなっている。驚きと期待の入り混じった瞳が揺れている。
この提案は、間違っていなかった。
ワルターは確信した。
「明日、議会に掛け合おう。さすがにオーダーメイドのドレスは間に合わないが、既製のドレスを用意して……。ああ、宿泊の準備と、そうだな、侍女を数名連れて行こう」
そこまで話して、浮かれている自分に気づき、ワルターは厳かに咳払いをした。
「勘違いするなよ? お前がいなければ、あちらも不審に思うだろう。お前はすでに我が国の王妃だ。決して我が国に不利な発言はするな。勝手に白の王と密会することも許さない。普段通り、俺の後ろで黙っていれば良い」
もっともらしい言葉を並べ立て、取り繕う。
ヘレーナはワルターの言葉に頷いた。
「はい。ありがとうございます、ワルター様」
その一言が、ワルターの胸に染みこむ。
はじめて名前を呼ばれた。
たったそれだけの事が、ワルターの心を大きく揺さぶった。
しかし、翌日の午後、ヘレーナは寝込んでしまった。
ちなみにワルターも体調が優れず、だるい身体を皆に隠しながら最終調整を行なっている。議会にヘレーナをつれていく旨を宣言したのが昼前、二人が体調を崩したのが昼食後。
(やられた……!)
だるい身体を動かしながら、ワルターはひそかに歯ぎしりした。
ワルターの身体は、きっと明日の出立時には持ち直すだろう。戦場でいくども経験のある、この体の感覚。おそらく、毒を盛られた。毒に耐性のあるワルターにはさほど効果がないと分かって、同じ食事に盛られたに違いない。あるいは、ワルターとヘレーナがずっと食事を一緒にとっているので、どちらかの毒を二人で食べてしまったか。きっとヘレーナの身体も二三日で効果が抜けるだろう。危険性のない、しかし足止めの効果くらいはある毒。昔から、軍の中で相手の足を引っ張りたい時に使われる最終手段だった。だから、ワルターはこの毒には慣れていたけれど、それをヘレーナに使われたことが何より腹立たしかった。
ヘレーナを同行させることをよしとしない誰かが、毒を使ったに違いない。
犯人は議会の中にいるのか、それとも侍女あたりか。
自分の周りの人間を信用しすぎたのだ。
ワルターは壁を殴りつけたい衝動を必死に抑え、今後の対策を考えていた。
殺傷能力のない毒を使ったのは、警告かそれとも命を取るまでは考えていないか。いずれにしろ、白の国との関係を考えれば、ヘレーナに生きていてもらわなければまずい、と言う程度には知恵の働く人物の仕業だと思う。
犯人を探したい。
問い詰めて即刻牢屋にぶち込むか、さっさと始末してしまいたい。
しかし、ワルターは部下の全てを信じていたので、誰が怪しいのかまったく想像がつかなくて、それも頭を悩ませていた。一人で犯人探しはできない。誰かに協力を仰ぐ必要がある。
……だが、誰に?
最初に相談する誰かを決めかねていた。
相談したのが犯人だった、などとは笑えない冗談になってしまう。
ヘレーナ絡み、と言うことは十分考えなければならない。
そうすると、誰もが疑わしくなるだ。むしろ、彼女に一番つらく当たっていたのは自分なのだ。自分が一番に疑われるのではなどと、まったく関係のない心配まではじめてしまう始末だった。
結局、夜になってから、近衛兵隊長のルーカスと将軍を自室に招いた。
二人はワルターの体調を知り驚いた様子だった。
「国王夫妻に毒を盛るなどもってのほか。至急探し出し、打首にいたしましょう」
あまりに穏やかな口調で、将軍はそう語った。
戦場に多く駆り出された猛者は、本当に戦わなければならない時に、絶対に感情を起伏させない。むしろ、身体を弛緩させ力の抜けた態度をとる。
それを知っているワルターは、将軍が本当に怒っており、すでに戦闘態勢に入ったと見て取った。
「同感です。王は何ら心配されること無く明日の会談に臨んで下さい。あとは全てこちらで」
将軍の言葉に、ルーカスは当然のように頷いた。
こちらも、普段の態度と変わらない穏やかなほほ笑みを湛えている。どんな時でも決して声を荒げる事無くワルターに仕える近衛隊長。あまりに普段通りの姿に、ワルターは安堵した。
この二人は、俺の味方だ、と。
「明日からの会談に、ヘレーナを連れていけない。あの様子では、馬車に揺られるのは不可能だ」
ワルターは、犯人探しよりもむしろこちらのほうが気がかりだった。
自分が近くにいない間、誰がヘレーナを守ってくれるのか。
食事に毒を盛られた今となっては、信じられる者がほとんどいないと感じていた。
黙りこむワルターを挟んで、ルーカスと将軍は思案顔を浮かべる。
国王夫妻に毒を盛った不届き者が居る可能性。それだけで、王宮や議会がひっくり返るほどの出来事だ。当然、警備体制の見直しや臣下の動向など、詳しく洗い直す必要がある。
これまでは戦争という目標があって、国は一丸となっていた。何より、負けてしまえばそれで全てが終わるのだから。しかし皮肉にも、平和な終戦が訪れた今こそ、国内に不穏な空気が生まれるとは。
しばしの沈黙の後、将軍が口を開いた。
「それでは、王妃様は私の家に滞在していただくというのはいかがでしょう」
軍を統括する将軍の家ともなれば、王宮に次ぐ警備の厚さで知られている。
「ちょうど妻の誕生日が近く、身内だけのささやかなパーティーをと思っておりました」
「ほう、お前がパーティーか」
部下に恐れられ常に威圧的な将軍が、家に帰ると好々爺に変身するという噂を時折聞く。ワルターは、こんな時にと思いながらも、興味深く目を細めた。
将軍はワルターの視線に気づき、大きく咳払いをした。
「パーティーに王妃様をご招待するという形にしましょう。私も常に家におります。もっとも、この忙しい時に休暇を頂く必要がありますが、それは致し方ありますまい」
つまり、この歴戦の勇者と謳われる将軍が、ワルターの代わりにヘレーナを守ると。
今の状態を考えれば、これ以上ない申し出だった。