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ヘレーナが倒れても、ワルターの生活にあまり変化はなかった。
相変わらず承認を待つ書類の山が目の前に積み上がっていたし、たくさんのことを決める会議が分刻みで待っている。
自分の身体が自由になる時間など、一日数時間の睡眠時間だけだった。それも、まとめて睡眠をとれることは稀で、細切れの睡眠が続いていた。
ただその忙しい合間を縫って、ヘレーナの状態を確認するために、ワルターは頻繁に医師のもとへ通った。直接会いたいと思っていたが、実際に会って何を話すのかと考えたら、ヘレーナに会うのが怖かった。
医師の話では、ヘレーナは順調に回復しているようだった。すでに、閨にあげても良いとも言われている。しかし、一方でヘレーナの栄養状態が良くないことも聞かされた。城の食事が合わないのか、きちんとヘレーナに食事が渡っていないかのどちらかだ。おそらく、ヘレーナに十分な食事が運ばれないのだろう。彼女をよく思わない者は、侍女の中にも食事係の中にもきっと紛れている。ワルターは、彼女に満足の行く食事を運べないだろうかと、思案していた。すでに、城を上げてヘレーナを嬲ろうという考えは持っていなかった。
そんなある日。
その日は城下町の建築の件について軍部と議論していた。資材はどうにか確保できる。指揮をとる建築士も居る。ただ、実際に国民の家を作る労働者がまったく足りないのだと。若い男たちは皆兵役で傷ついていた。だからとて、女子供老人を過酷な建築現場で働かせる訳にはいかない。
そこへ、軍を統括する将軍がある提案をした。
今残っている軍人を、できる限り家屋の建築現場で働かせてはどうか、と。
「確かに。もはや我が城へ攻め入ってくる者も多くはない。訓練された兵は、皆力もあるし……、現場でも心強い働き手になるかもしれないな」
ワルターは将軍の案に賛成の意を表した。
会議の席についていた議員達も、概ね賛成の意を表している。
「ただ、問題もあります」
皆の賛成を確認してから。将軍が言いにくそうに話を切り出した。
「言ってみろ」
「はい、陛下。実は、建築現場に志願する兵がほとんどいないのであります」
え、と。皆困惑の表情を浮かべる。軍に所属する兵だって、国の復興を一日でも早くと望んでいたのではないだろうか。
「どういうことか。城の守りは近衛兵だけでまかなえる。暗殺の可能性は、ほぼゼロだ。俺が賊にやられるはずもない。それとも、軍部には復興を嫌がる輩でも居ると?」
ワルターは、目を伏せる将軍に怒りをあらわにした。
「それが……」
しばらく逡巡していた将軍が、一つトーンを落として話を始めた。
「王妃様のことです」
「なに?」
思ってもみなかった言葉が飛び出てきて、ワルターは首を傾げた。
「陛下、王妃様を兵にお与えになるという噂は本当でしょうか」
「そ……」
明け透けない質問に、ワルターは言葉を失う。
改めて老獪な将軍を見たが、彼は冗談を言っている顔ではなかった。
「実は、陛下が王妃様を召さなくなった、と、噂があります。そして、王妃が兵に与えられる時が近づいていると言う噂も、まことしやかに流れております。兵たちは、王妃様を……嬲りものにできると考えているところがあり、それならば城下に出てはその機会を失うと」
はっきり、一つ一つを噛んで含むように言い放った将軍は、真っ直ぐワルターを見つめた。
ワルターは、震える手を抑えながら、議員達の反応を伺う。
彼らはまるで今朝の朝食の内容を聞いたように、普通の表情をしていた。
あ、そうなのですか。王妃様を兵舎に放り込むのはいつ頃ですか、と。
皆が言っているように感じた。
確かに、ヘレーナに飽きたら彼女を兵舎に放り込むと豪語していたのは、他ならぬワルター自身だ。
だが、ワルターは頭を大金槌で殴られたような衝撃を感じていた。
「それは……」
ぐっと拳を握り、腹に力を込める。
「その噂は、嘘だ。そんな噂を聞いたら、すぐに否定しろ。あれは……」
あの女は、俺のものだ。
そう、叫びたかった。
「安心いたしました。兵には私から噂を否定しておきますゆえ」
悲痛な表情のワルターとは逆に、将軍は穏やかな笑を浮かべた。
「ヘレーナを、兵に与えないのが嬉しいか?」
兵を統括する将軍は、兵よりの意見だと思っていた。純粋な疑問を口にする。
「私には、年頃の娘がおりますので。どうしても、王妃様に娘を重ねてしまうのです」
「お前は娘を愛しているのだな?」
将軍の答に、ワルターが口元だけの笑みを浮かべた。
「だが、あれの父は自分の娘を生贄に差し出した非道な男だ」
「それは……。身を切り裂かれる思いにとらわれ、血の涙を流したでしょうな。子供を思わぬ親などおりますまい」
はっきりと言い切る将軍に、ワルターは二の句を告げられなかった。
その日から、ワルターはヘレーナを閨に呼びつけた。
とにかく、自分がヘレーナに飽きたと思われるのが嫌だった。もし自分が飽きたなら、すぐに誰かがヘレーナに襲いかからないとも限らない。
以前は4・5日に一度だったものを、今ではほぼ毎日欠かさずヘレーナを抱く。以前のように無理強いをすることも暴力的にすることもなく、できるだけ優しく丁寧に扱った。行為は一日に一度と決め、それもヘレーナの体調が少しでもすぐれないとすぐにやめた。
ワルターは何度目かの夜に、ようやく話を切り出した。
「傷が……、残らずに良かった」
ゆっくりと、細い首に手を這わす。
「……、癒しの力が、働きますので……」
ヘレーナは目を伏せ、か細い声でワルターに答える。
相変わらず、必要最低限の答しか返ってこない。しかし、それは、最初にしゃべるなと自分が命令したのだと気が付き、ワルターは内心あの日の自分に切りつけたくなる衝動にかられた。
「本当に、すまないことをしてしまった」
あの首飾りが、そこまで重要だと知らなかったのだ。
自分に憎悪を向けられたのなら、どうしよう。もし、これ以上ない罵声を浴びせられたら。いや、それ以前に、はっきりと見限られたらと思うと、ワルターは恐ろしくなった。
「いいえ、もう傷は癒えました。どうぞ、お顔を上げて下さい」
だから、ヘレーナがそんな風に言ってくれた時、ワルターはたまらない感情に支配された。
そう言えば、もう一つ変わったことがある。
ワルターはゆっくりとヘレーナの頬を撫で、ヘレーナに問う。
「キスを、してもいいか?」
その言葉に、頬を真っ赤に染めたヘレーナは、ぎこちなく頷いた。
それを合図に、ワルターがヘレーナの唇についばむようにキスをする。何度も角度を変え、しかし、強引にはせず。
ワルターは、あの日以来、こうしてヘレーナにキスをするようになった。
(ああ、まるで……まるで、恋人のようだ……)
それを思うと、心が震える。
ワルターはヘレーナの肩を抱きながら、更にもう一度、頬にもくちづけをした。