26
薄暗い控え室から一転、明るい陽の光が降り注ぐ闘技場へ降り立つ。
大歓声に迎えられ、ワルターは闘技場の一番高い場所で立ち止まった。実際に戦う場所ではなく、王族が戦いを観覧する場所だ。王族が座るはずの椅子を外し、ワルターが存分に力を振る舞えるようにしてある。
ガツンと、ワルターの背後で将軍が剣を床に刺す音が響いた。
それを合図に、場内が静まり返る。
ワルターは、闘技場に訪れた人々にその姿を大きく晒した。
「私は黒の国アーテルの王ワルターだ。戦場で、相まみえた者も居るだろう。日常で、私の名を憎しみに変えて叫んだ者も居るだろう」
ワルターの声が、闘技場に響き渡る。
この場所は、王族の声を響かせる呪いが幾重にもかけられているのだ。
「だが、私は、白の王ベルンハルトによってこの国に招かれた。私の妻は、白の国の美しい姫ヘレーナだ。この事実に、感謝する。私を受け入れてくれた、白の国に、感謝する」
あえて、謝罪の言葉は口にしなかった。
戦場での殺戮をワルターが謝罪すれば、黒の国の兵士も、白の国の兵士も、全て最悪なことをしてきたのだと決定付けてしまう。国の代表として、おいそれとは謝罪できなかった。
場内では、皆がワルターの言葉に耳を傾けていた。
「私は、もう二度と、二つの国が争わないと誓う。そして、二つの国は、協力しあってこそ本当の力が出せると、証明してみせる」
ベルンハルトのような仰々しい言葉は知らない。
ヘレーナのように一瞬で心を射抜く言葉も知らない。
ワルターは、難しい言葉を使わず、ただ自分の思いを乗せて演説を終えた。
場内から、静かな拍手が上がる。
それが少しずつ波打つように大きくなり、やがて闘技場すべてを巻き込んだ大拍手になった。
場内の熱気が冷めぬうちに、今からワルターとヘレーナが遠く国境に配置された的に的当てをするという説明がされる。国境があまりに遠く不鮮明ではあるが、宮廷の魔術師達が遠見の呪いで様子を映し出すなどの発表もあった。結果を見せなければパフォーマンスにならないし、だからと言って実は真剣な捕縛の状況を見せられない。意見をすりあわせた結果、不鮮明な映像を映し出す事が決まったのだ。
大きな銅鑼の音。
盛り上がる音楽。
神妙な魔術師の呪い言葉。
場内に、ワルターとヘレーナのパフォーマンス開始が告げられる。
いよいよ、力を開放する時だ。
戦場ではなく、言わば見世物のような形で力を使うこと。まったく抵抗がないわけではない。ワルターはその不愉快になりそうな感情を胸の奥に押し込めて、片手で握り拳を作った。
不意に、隣から視線を感じる。
目を向ければ、ヘレーナが伺うようにワルターを見ていた。
「どうした?」
「ワルター様。……このような場所で、お力を使うこと、大丈夫ですか?」
純粋に、ワルターを気遣う言葉。闘技場内の異様な雰囲気を気遣ったのだろうか。
そんな言葉を、自分にかけてくれる人物を知らない。戦いになれば、ワルターが一番強かった。だから勝って当たり前で、むしろワルターの心配をすることは不敬に当たるとも言われていた。
勿論、ワルター自身も戦いのことで自分に意見する者にははっきりと不快感を表してきた。
だが、そんな事は、忘れてしまった。
ヘレーナの小さな声を聞いた途端、自分を心配することが不敬であるなど、まったく頭から抜け落ちてしまったのだ。
ただ、心配されて嬉しいと思ってしまった。
ワルターは、笑う。
「心配ない。見ていろ。……、俺が、戦いの王だっ」
その言葉で勢いをつけて、一気に黒の力を開放する。
最初から全力で力を開放する。あまりに大きな黒の力は、誰が見てもはっきりと分かる可視のオーラだ。それが、鎧のようにワルターの身体に纏わりついている。ゆらゆらと、煌々と、燃える炎のように。黒い黒い、ワルターの力。
場内が水を打ったようになる。
黒の力に耐え切れなくなった王族の観覧席の壁が壊れ始める。
風は吹いていないのに、ワルターの周りだけ大きな力がうねり粉塵を巻き上げていた。
ワルターは、自分に向けられる好奇の視線を振り払うように大きく腕を振り上げた。
その手を、ヘレーナの腰にゆっくりと添える。
「俺が怖いか?」
一応、ヘレーナに聞いてみた。
何となく、どんな答が帰ってくるか分かる気がした。
「いいえ。普段通りのワルター様ですが」
ヘレーナは小首をかしげてワルターを見た。
この戦いの姿が普段通りとは、言ってくれる。いや、普段、ワルターはどんな恐ろしい者としてヘレーナに見られていたのか。
しかし、何故か口元から笑いが漏れた。
「では、奴らのイメージを」
「……はい。最初に私が索敵します。イメージを渡すまで数秒必要です。確認ですが、イメージの受け渡しは最初が一番鮮明で、段々と精度が下がります。最大限、鮮明なイメージを送るようにはしますが」
索敵から捕縛まで、あまり時間はかけられないということだ。
ワルターは、無言で頷いた。
ヘレーナの手がワルターの腕に添えられる。
その手を、ワルターはしっかりと握りしめた。
「それでは、いきますっ」
ヘレーナが瞳を閉じ、強くワルターの手を握り返す。暴風のようなワルターの力の中心で、すっと一筋、冷たい光が空へ立ち上がった。
はじめて感じる、ヘレーナの白の力だった。
ワルターはじっとヘレーナを見ている。
やがて、ヘレーナが瞳を開けた。
ヘレーナの瞳が、怪しいオーラで光り輝いている。
将軍を探した時には、随分力を抑えていたのだと知った。輝く瞳も、厳しく閉じた唇も、ワルターの手を握る手も、全てが美しい。
ワルターは、ヘレーナに見惚れた。
純粋に、美しいと、思った。
「国境の黒の国側に、部隊を見つけました。かなりの人数です。皆武装していて、今は休憩をとっていますね。部隊の最前列、中盤、最後尾にも近衛兵がいます」
状況をざっと説明され、ワルターは頷いた。
「では、やるか。イメージをくれ」
「はい」
緊張した表情で、ヘレーナがもう一度瞳を閉じる。
もう少し美しい瞳を見ていたかったと、少々残念に思った。
瞬間、国境付近の映像と、闘技場の風景が重なる。
手を伸ばせば反逆者達をこの手で掴むことができそうだと感じた。
場所と配置と、休憩で弛緩した兵士を確認し、一つの呼吸もおかず黒の力を飛ばした。
ワルターの黒の力が、一筋一筋の細い線となって空へ舞う。
まるで、流星群のようだ。
黒くて鋭い、容赦のない流星。
あっと、誰かが声を漏らした。
黒い光は再び一つとなるように、くるくると回り交わりながら白の国を飛んだ。馬でかろうじて一日、歩けば数日かかる距離を、一瞬で詰める。
ワルターの目の前に見えている光景に、黒の光が降り注いだ。
勢い良く飛ばした黒の光で、一人また一人と捕縛されていく。決して殺さないように、黒の力で絡めとる方法。
見えたのは、ご高説を垂れるだけの老人。
見えたのは、醜く肥え太った高い地位にあるはずの誰か。
だが、流石というべきか。ワルターの初撃をかろうじて逃れた兵士も居る。放った黒の力をねじ曲げるように念を送り、横に後に飛び退いた兵士も捉えていく。
ワルターの力を感じたのか、近衛兵達は余裕のある素振りで捕物劇から遠のいていた。
ぎゅっと、もう一度強く手を握られた。
目の端でヘレーナの様子を伺う。
ヘレーナはじっとりと額に汗をかき、眉をひそめていた。
どれほど索敵の力が強かろうと、一度に沢山の人間を識別するのはかなりの負担なのだろう。だが、ヘレーナから送られてくるイメージはまだ鮮明だ。
ワルターは何も言わず捕縛に神経を集中させた。
見えているのは逃げ惑う兵士の姿だけ。
何の音も聞こえない。
だが、恐怖に引きつった表情は分かる。
口の動きが見て取れた。
おそらく、反逆者達が叫んでいる。
『どうして……!』
『助けて!!』
『うわぁ、うわぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁ』
耳に届くはずもない言葉が、ワルターの心に染みこんでいく。
闘技場内では、多くの歓声が上がっていた。
一人捕まえるたび、わっと場内が沸く。魔術師の映しだした不鮮明な映像では、何らかの動く的にワルターが力をぶつけたようにしか見えないのだ。
『また当たった』
『凄い、全部命中している』
興奮した観客から、明るい声が漏れていた。
最後まで逃げ続けた兵士を捉え、ワルターは黒の力を押さえ込んだ。
最後に見えたのは、ルーカスの姿だ。
恐らく、あちらではどうやってワルターが黒の力を正確に飛ばしたのか、理解できていないだろう。だが、ルーカスはじっと闘技場のある方を見ていた。どこから飛んできたのかは、はっきりと分かったのだと思う。
ルーカスが恭しく敬礼をしたのを確認し、ワルターは黒の力を完全に引っ込めた。
ふっと、息を吐きだす。
終わった。全部捕まえた。一人も逃がしていない。一人も殺していない。
大成功だと、確信した。
不意に、柔らかい物がワルターの胸に飛び込んできた。
それがヘレーナだと気がつくのに少しだけ時間がかかる。
ワルターは驚き目を見開いた。ヘレーナが、こんな風に自分からワルターに飛びついてくるなど一度もなかった。
「ワルター様っ。やりましたね!!」
それ以上に、ヘレーナの明るい声にも驚く。それに、眩しい笑顔だ。
瞬間、ワルターはヘレーナを抱きしめた。
戦いになれば常に冷静になれと。絶対に普段通りに行動するようにと。興奮してはいけない、感情を起伏させてはいけないと、教えこまれたワルターが。
今、まったく自分を御することなく、ヘレーナを抱きしめ。
それから、まるでそうするのが当たり前のように、深く口付ける。
戦友が死のうとも、老兵が崩れ落ちようとも、戦場で駆け引きのように捕虜をなぶられようとも、絶対に心を動かさなかったワルターが。
ヘレーナの輝くような笑顔を見ただけで、すべての理性を飛ばしてしまった。
「んー……っ」
抗議するように、ヘレーナに胸を叩かれる。
少しだけ、唇を離した。
ヘレーナは、息を整えるように何度も小さく呼吸を繰り返した。
「み、皆が見ておりますっ」
見ると、ヘレーナの顔が真っ赤だ。
だが、ワルターは少し首を傾げただけで、当然のような顔をしてヘレーナの顔を引き寄せる。
「俺はお前と、ずっとこうしていたい」
そして、再び二人の唇が近づいた。
「あー……、うぉっふぉん」
それを止めたのは、かなりわざとらしいベルンハルトの咳払いだった。
止められていた音声拡大の呪いが、いつの間にか復活している。
「そういうことは、帰ってからにしてくれんかね? お父さんは恥ずかしい」
ベルンハルトのお茶目な声が流れ、会場内にどっと爆笑が起こった。