13
その日、ワルターは城内の庭園を視察していた。隣にヘレーナを伴っている。
「俺は花なんぞまったく興味が無い。だが、庭園が乱れていると大臣共がうるさい」
不機嫌な顔を作り、誰にも聞こえないような小声で呟く。
普段の、部下に指示を出すような態度の大きな様子からは考えられないような、もそもそとした言い様だった。
とにかく、寝室以外でまともに話しかけたことがないため、一体どういう具合に言葉をかけて良いのかわからない。
結局、ワルターは独り言のようになってしまった言葉を自分で反芻しながら、チラチラとヘレーナを盗み見するしかなかった。
ヘレーナは、しばらく考えるように黙っている。
もしかしたら、ワルターの言葉が聞こえていなかったのか。それとも、自分に話しかけられた言葉とは思えなかったのか。
ワルターが、話しかけるのではなかったと後悔をはじめた時、ヘレーナが口を開いた。
「私は……」
一言発しただけなのに、ついヘレーナを凝視してしまった。
二人の視線がばちりとかち合う。
「あ、……、話しても、よろしいでしょうか?」
こんな時にまで、ただ話すだけの事に許可が必要だと思っているのか。出会った頃の自分の宣告に、ワルターは嫌になる。
「良い。続けろ」
一言二言、言葉をかわすだけのことが普通にできない。
自分のしてしまったことで、随分自分が損をしているのだと、ワルターはショックを受けた。
「はい。私は、花は好きです。色とりどりなのが素敵ですし、見るのも育てるのも、楽しいです」
いつになく多弁なヘレーナを、ワルターは黙って見ていた。
明るい表情から、本当に花が好きなのだろうなと思う。
ヘレーナが花が好きなら、うるさい大臣達の言うことを聞いて庭園をもっと綺麗にしてもいいとも思った。
「もちろん。……勿論、国賓をもてなす場所として、庭園が整っているのは対外的にもとても重要だと思います」
ワルターの沈黙をどう取ったのか、ヘレーナは慌てて付け加える。
そんな風に、お互いの話を全て政治に結び付けなくても良いのに。ワルターはまた、ヘレーナの言葉に少しだけがっかりとする。風が吹いて、ヘレーナの髪が揺れた。
ワルターは、自然に手をヘレーナの頬に当てる。
もう、あの時の無茶な命令は無効だと。自由に話して良いし、好きなように過ごせば良い。そう思ったが、どう伝えて良いのか分からなかった。
戸惑うヘレーナの表情を見つめていると、そのまま口付けたい衝動に狩られる。
一瞬の間。
「ヘレーナ様っ……失礼っ」
気合の入ったユリアの声が響いた。
庭園の入口にある待機所でヘレーナを迎えるはずだったユリアが、その掛け声とともに飛び込んできた。
キンと、何か金属がぶつかる音。ヘレーナをめがけて放たれた刃を、ユリアが弾いた音だった。ずっとヘレーナを見つめていたユリアは、いち早く飛来する刃に気がついたのだ。
その時には、ワルターの感覚も日常から戦闘用へと切り替わっていた。
四方から飛んでくる弓矢を、片手でなぎ払う。ワルターの手は瞬時に黒の波動を纏い、どんな盾よりも強靭な武器と化していた。
もう片方の手で、ヘレーナを抱きしめる。
細く折れてしまいそうな腰を、慎重に力を加減して固定させた。
何かの襲撃だと、判断する前に体が動く。
腹の底から湧き出る力をそのまま放出し、空へと立ち上らせた。
「お前が一番速く駆け込んだか。これは、近衛兵どもを訓練し直さなければな?」
「余計な踏み込みでしたか?」
「まあ、俺一人でもヘレーナを傷付けさせるようなことはしなかった」
ほんの一瞬、ヘレーナの影になって弓矢が見えなかった。
けれど、それが何の障害になるのか。ワルターは、弓矢が顔を抉る一瞬に回避することも可能だと、考える。
しかし、ユリアの駆け込みがヘレーナを救ったのも事実だ。
ワルターは素直にユリアを労う。
「よくやった。だが、自分の身を守りつつ下がれ」
次の攻撃に備えようとするユリアに、ワルターは命令する。
「お気遣いなく。全て見えておりますので。ヘレーナ様をお守りしましょうか?」
「いいや? ヘレーナは俺のそばに置く。それに、お前は戦わせないと、将軍との約束だ。さっさと下がれ」
確かに、ユリアは兵士としてではなく侍女として召し抱えられている。
その事実に顔をしかめて、ユリアは、それでもおとなしく引き下がった。
なぜなら、ここにいる誰よりも強い男が、ヘレーナを守ると言ったのだ。
「お任せいたします」
「ああ。見るが良い。戦いは俺の領分だ」
言うが早いか、ワルターは空いている腕を振り下ろした。
先ほど天に放出した黒の力が、それに合わせるように四方へと降り注ぐ。
遠くで、幾つもの悲鳴が上がった。
「ワルター……様」
それまで、何も言葉を発しなかったヘレーナが、青ざめた顔でワルターを呼んだ。
「ああ。もう終わった。俺を襲撃するにはお粗末な布陣だな」
もう終わった。
その言葉を聞いた瞬間、ゴクリとヘレーナの喉が鳴る。
実際、ワルターの放った一撃は、ヘレーナに向けられたむき出しの殺意を全て捕捉している。
「ワルター様。一応、全員殺さないでください。聞きたいことが沢山ありますので」
草の陰から姿を現したのは、ルーカスだった。
ワルターの庭園視察のため、周辺を隠れて警備していたのだ。
その腕には、ワルターの攻撃を受けた兵士が一人抱えられていた。
「殺してない。それくらいの加減はできる。お前たちこそ、近衛兵が揃って何をしていた?」
国王陛下夫妻に、刃が向けられた。それを、近衛兵ではなく侍女が防いだのだ。
完全な近衛兵の失態だと、ワルターはルーカスを責める。
「それが、お互いが顔を合わせぬうちに配置換えが命令されていました。気づいた者から、賊の回収に向かわせています」
なるほど、ワルターには力が届かなかったが、それなりに考えられた襲撃だったということか。ワルターは納得して、ちらりと抱えられている兵士を見た。
「……賊、だと……?」
恨みがましい、苦悶の声を絞り出したのは、ルーカスに抱えられていた青年だった。彼は、アーテルの兵士の鎧を身に着けていた。
「この、俺を……、先の、戦争、では……、何度も、なんども、戦った……国の、ために……、命、を、削った俺を……賊、だ……と?」
ワルターは、見覚えのあるその顔を、ただじっと見ている。
「王を襲ったその時から、お前はタダの卑しい賊だ」
ルーカスの冷酷な言葉に、青年は顔を歪ませた。
「ち、がう……、俺は、俺が狙う……のは、そ、の……」
これ以上、口を開かせてはいけない。
ワルターが目の前の兵士を狙ったのと同じくして、ヘレーナがぐっと身体に力を込めてワルターから離れた。
「まて、ヘレーナ……!」
慌てて身を引き寄せようとしたが、ヘレーナはワルターの手を制して一歩足を進める。
「何故、私を狙ったのですか?」
ワルターは先程、わざと、賊が自分に戦いを仕掛けたのだと言ったのだけれども。ヘレーナには、それが自分を狙ったものだとすでに知れていた。
ヘレーナはまだ震えて青白い顔をしている。
けれど、一人でしっかりと立ち、青年を見つめた。
ワルターはルーカスに目配せを送る。
ルーカスは主の無言の命令に、かすかに頷き青年の急所に狙いを定めた。
わずかでも危険なことがあれば、息の根を止めるしかない。
「聞かせてはくれませんか?」
だが、ヘレーナは、重ねて青年に問うた。