幕間。ヘレーナ2
体が鉛のように重い。
白と黒の会談の前日に、私はベッドに臥せっていた。誰も何も言わないけれど、これは毒だと思う。
ついに、命を狙われる時が来たのかという戦慄。父と会えないという悲しみ。そして……、ワルター王の苦々しい表情が代わる代わる頭に浮かぶ。
「お前は会談に連れていけない。黙って寝ていろ」
棘のある声で、はっきりと言い渡された。
黙って頷くしかない。
ワルター王は、怒っていると感じた。何故だろう? 私を同行させると許可したのに、結局それがかなわなかったことへの怒りだろうか。ぼんやりと靄のかかったような頭の中で必死に考えて、それが一番しっくりくるような気がした。
けれど、理不尽だ。
毒を盛ったのは絶対に身近にいる、城の中の誰かなのに。
倒れたのは私のせいじゃないのに。
まぶたが重くなってきた。とにかく、疲れていて、眠りたかった。
なんだか温かいものが額に触れた気がしたけれど、その時には私は夢の中だった。
次に気づいた時には、私は馬車に揺られていた。
もしや、会談に同行させてくれるのか、と、淡い期待を抱いて飛び起きる。
「寝ていろ。もうすぐ将軍の家だ!」
わけがわからない。
起こしかけた身をワルター王に押されて、私は横になった。
「もうすぐ妻の誕生日ですので、王妃様をご招待したく思っております」
突然、そんな風に言葉をかけられ、私は驚き飛び上がった。ビクリと震えた身体を、誤魔化すことができなかったかもしれない。
声のした方へ恐る恐る顔を向ける。
予想した通り、そこにはしかめっ面をした将軍が肩をすぼめて座っていた。
ゆっくりと揺れる馬車は決して狭くない。私が手足を伸ばして横になれるほど広いのだ。
けれど、将軍は身体を小さくして何とか馬車に収まっている。がっしりとした身体つきで背丈も大きい黒の一族の中でも、群を抜いて将軍は大柄だ。
怖い。
素直な感想だった。
あまりしゃべることのない将軍は、目付きも鋭く威圧感もある。ワルター王でさえ、一目置いている人物だと思う。
その将軍の屋敷に、私が?
怖いし、不安だった。
今はワルター王のそばにいるから、身体が自由に動く。毒もそろそろ抜けてきた頃だ。だが、これでワルター王のそばを離れてしまったら……。
私は、また、あの体の倦怠感と戦わなければならない。
身体さえ軽くなれば、多少の嫌がらせや嫌味なども我慢できるのに。
だから、私はどんなに怒鳴られても、厳しいことを言われても、ワルター王のそばにいるのが最近では一番安心できるのだと思う。
それを、自由にならない身体を引きずって、将軍の屋敷の中で何をされることか……。
どうしようもなく、不安だった。
その不安は、まったくいらぬものだったのだけれど。
将軍の屋敷では、皆気さくに声をかけてくれた。
使用人達は、目が合えば挨拶をしてくれるし、遠くからは手を振ってくれる。
将軍も、そこまで恐ろしい人物ではないと分かった。家族を思いやる心が、父と同じだと思ったのだ。
何より、将軍の息女ユリア様は、とても楽しい方だった。
最初の晩に、ユリア様は私の眠る客間に忍んできた。
「父には内緒にしてくださいねー。いいお菓子があるんですよ!! ご一緒してもいいですか? いや、むしろご一緒したい」
ユリア様は、懐からかわいいお菓子の包みを出し、ニッコリと笑った。
しかし、私はその後ろ、ユリア様の肩越しに修羅の如き顔でこちらを睨みつける将軍を見てしまう。
「あの……、バレているようです」
怖い。
私はかすかに震えて、俯くことしかできなかった。
「ええー?! 大丈夫です。ちょっと父とお話してきますね? ええ、大丈夫。すぐに終わります。本当に、大丈夫ですから」
ユリア様は笑顔を顔に張り付かせながら、何度も大丈夫と繰り返し将軍の元へと向かっていく。
そして、ドアがパタンと閉じ……。
ドアの外から、とても口では表現できないような怒号と破壊音が響いていた。
それはすぐに治まり、再び笑顔のユリア様が現れた。
「お待たせしました。大丈夫、話はつきましたから」
明るい声色だったけれど、明らかにユリア様の衣装が大破している。
「そ、そうですか」
私は何があったのか聞く勇気が持てず、震える声で返事をするしかなかった。
それに、日が暮れると身体の倦怠感がかなりひどくなっていた。眠れば少しはマシかもしれないと、早々にベッドに入っていたのだけれど……。
「ヘレーナ様、少しお疲れでしょうか?」
私の様子に気づいたのか、ユリア様が心配そうに顔を覗きこんでくる。
誤魔化そうかとも思ったが、あんな恐ろしい将軍と話をつけてくれたユリア様に、私の身体のことを言ってみたいと思った。
「黒の瘴気が……少しつらいのです」
「なんですと!!」
勿論、首飾りのことや身体の不調のことは詳しく言うことはできない。最大限ぼかして伝えたのだが、ユリア様は驚いて黙ってしまった。
「うん。きっと大丈夫。ヘレーナ様、お手を失礼します」
しばらく考えていたユリア様が、不意に私の手を掴んだ。そして、目を閉じ、何か呪文のようなものを呟いて……。
「これで……、どうだ!」
ユリア様の気合の入った声。
瞬間、私の身体が急に軽くなった。
「……、これは」
「へっへー。ヘレーナ様へ流れる黒の力を、私へ向けたのです。どうでしょう?」
「すごいです! こんな事ができるなんて……」
正直、感嘆した。
「あ、でも、黒の力を消したわけじゃないので、私のそばを離れると効果はないです。ですので、この屋敷にいる間はずっとそばにいますね」
ユリア様は、むんと胸を張り、ニッコリと笑った。
その笑顔の、何とたくましいことか。
私は身体が軽くなったことで嬉しくなり、ユリア様とたくさんお話をした。
まるでワルター王の近くにいる時のように、身体が軽かった。
「そういえば、こう言う事は、自然の現象でも同じようなことがありますか? 例えば、意識せず黒の力を私から吸い取る、と言うような」
「うーん。私の知る限り、聞いたことはないなぁ。ていうか、こういう術を使える人間も限られてます。えっへん。父は、こういうのは苦手ですからねっ。術を使えば私にアドバンテージがあるのだ」
嬉しそうに話すユリア様を見て、私は胸にしこりができた気がした。
では、私がワルター王のそばで身体が軽くなるのは何故なのだろうか。
……まさか、ワルター王が同じような術を使い続けていると……?
私のために?
いや、そんなはずはない。
彼は、私がどうなろうと何一つ関与しないと、そう言ったはずだ。
それを思うと、ずっしりと心に重しがかかった。
その思いを再認識させられるように、私を迎えに来たワルター王の機嫌は悪かった。
「お前がいないと、荷物持ちがいないので困る」
ひと目私を見て、ワルター王は顔をしかめた。
こんな時、ワルター王はブレない。機嫌が悪ければ機嫌が悪いし、はっきりと意思表示をすれば裏がない。まっすぐにぶつけられる感情はやはり怖いけれど、私は嫌悪感が湧いてこない。それが自分でも不思議だった。慣れたのだろうか? それとも、はっきりとした性格を、憎めないのだろうか? まだ、分からない。
「城の人間を俺の荷物持ちにするわけにもいかないし……、さっさと帰るぞ」
不機嫌を隠そうともせず、私はワルター王に引っ張られる。
そもそも、力が違うのだ。
私は抵抗する力もなく、バランスを崩しながら馬車に押し込められた。
振り向くと、名残惜しげにユリア様が手を降っている。
ああ、もう二度と会えないかもしれない。
私がお飾りの王妃ではなくてもっと発言力があったのなら、ユリア様とも会うことができるかもしれないのに。それは、かなわぬ夢だった。
ただ、将軍の屋敷で、もてなされたのが夢のようで。
優しい時間は終わったのだと、心が冷えていくのがわかった。