第2話 モルグのない死 前編
橘の顔色が、昨夜とは微妙に違った。
昨夜は現場特有の白さだった。今朝の白さは、知識がもたらす白さだ。人は何かを知った瞬間、一段だけ顔が冷える。橘はいま、その段を降りたところにいた。
「轢死ではありませんでした」橘が言う。「発見時にはすでに心停止状態だったと、救急隊員の報告に上がっています。轢かれたのは死後です」
久住は黙って聞く。
つまり、あの男は殺されてから高架下に運ばれた。残響体になる前に、すでに死んでいた。そして今夜、その事実は警察記録から消える。鈴村経由で、上から指示が入っているのだ。
橘がコーヒーを持ってきたが、久住は受け取らなかった。橘は何も言わずに自分の机に戻す。三か月で、そんな距離感が自然になっていた。悪くない、と久住は思った。たぶん橘も。
「廃工場の核は全滅でしたが」橘が続ける。「回収できた個体がゼロという点だけ、鈴村さんから指摘が入っています」
「回収に適した形で消えた核は一つもない」
「そのまま報告しました」
久住は席に座り、廃工場のことを整理する。あの案件で、第九は久住より先に別の班を投入していた。四人が戦闘不能になってから、ようやく久住を呼んだ。「通常装備の限界値を測ってから」と、橘の言い方が正確だろう。消耗品としての扱いが、わりと丁寧な部類に入る。
「昨夜の工場で感じた感情は報告書に入れたか」
「怒り、悔しさ、恐怖、後悔――そして最後に一つだけ別の形のものがあった、と書きました」
「寂しかった、という形か」
「はい」
橘は少し間を置いた。何かを言おうとして、言っていいかどうかを測っている顔だ。
「久住さん、その感情が――久住さん自身のものだった可能性はないですか」
「ある。だが、確認する方法はない」
「……そうですね」
橘は結局、書き足さなかった。賢明な判断だった。
「今夜の案件ですが」
橘が端末を操作しながら言った。病院の旧館。再来月に解体される棟で、昨夜から残響反応が出始めた。数値は朝の段階で7.1。単発の個体と思われる。発生源は四階の廃棄処置室。
「MOURNで入る」久住は答えた。「密度が高い単発なら、重装で受けながら核を露出させる方が確実だ」
橘が方針書を記録する。最近のルールだ。鈴村の要請で始まった。データを取りたいのだろう。久住がフォームを選ぶ基準自体が、研究対象らしい。
鈴村は奥の席で書類を読んでいた。その顔に、昨夜の事実が乗っている。男が殺されてから運ばれた事実。知っていて処理し、指示を通した顔だ。
久住は何も言わない。この三年間、ずっとそうしてきた。言っても変わらないことを知り、変わらないことを知って黙る。それが久住の場所だ。正しいかどうかはわからない。ただ今は、それ以外の場所を持っていない。
今朝は桂木の顔が、昨夜より少し薄く見えた。気のせいかもしれない。そう思った。
病院の旧館には夜に着いた。
街の端にある古い公立病院。本館はまだ稼働している。旧館は二十年前に機能を止め、倉庫代わりになっていたが、今年春に完全に閉鎖された。解体まであと二か月。残響反応が出始めたのはそのタイミングだ。場所が終わる気配を、核は嗅ぎつける。
「橘は外で待機していろ」
久住は車を降り、旧館に入る。解錠コードを打つと扉が開き、独特のにおいが流れ込んだ。
消毒液の死骸のにおい。何年も前に揮発し、染みだけが壁に焼きついたもの。病院のにおいではない、病院だったものの匂い。差は小さいようで、久住には大きい。
非常階段を上がる。非常灯が段を赤く染める。四階に出ると、廊下の空気が変わった。
残響核が応答している。単一だ。ただし密度が高い。一夜二夜で凝縮したものではない。何年もここに積もってきた感情の密度。誰かが長い時間をかけ、何かを繰り返していたのだ。
廊下の突き当たり、扉が半開きになっていた。押すと蝶番が軋む。
処置室。
蛍光灯は全滅しているが、光はある。点滴スタンドの金属が白く滲み、割れた心電図モニターの画面は一定のノイズパターンを繰り返す。酸素マスクのチューブが床を這い、先端が空中で止まっていた。装着されるべき顔を待つかのように。
久住は入口で止まる。
形が作られはじめていた。
点滴チューブが宙を泳ぎ、モニター破片が浮き、壁の染みがじわりと垂れる。酸素マスクが中心に向かって回転する。人の輪郭になりかけている。
頭部にモニターの残骸、胴体にチューブ、右腕は素材不足で不完全なまま宙に浮く。
その腕が動いた。スイッチを押す動作、チューブを外す動作。スイッチ、チューブ。ループしている。何年も繰り返されてきた動作だ。患者の延命処置を打ち切る判断を、最後まで繰り返していた人間の動作が。
攻撃性はまだない。ただ、止まれない。
デバイスに手を当てる。心拍が一拍落ちた。
「変身」
二重の声が処置室に響く。今夜の重なりは低い。誰の声か、今夜もわからない。
「ギアレブナント」
装甲が展開。黒とガンメタが体を覆い、マスクが顔を閉じる。発光スリットが赤く灯った。
MOURNだ。フォームシフト。装甲が厚くなる。重さが来る。外界の感触が遠のき、音が引いていく。感情も遠くなる。
残響体が反応し、ループが止まり、腕が久住の方を向いた。
チューブが束になって来る。腕で弾く。金属スタンドが横から来る。受ける。装甲が凹むが耐える。一歩踏み込み、チューブの絡まりの奥、モニター破片の向こうに密度がある。核だ。
右腕を振ってチューブを薙ぎ払い、飛散した破片の向こうに白い光が見えた。
両手を当てる。
グレイヴ・ブレイク。
感情が来る。MOURNのフィルター越しだ。
疲れていた。それだけが届いた。長い時間の疲れ。誰にも言えなかった疲れ。言っても変わらないと知っていた疲れ。
核が浮き、右拳を握り打ち込む。
消えた。
微かに音がした。蛍光管が割れるような音が一瞬だけして、それで終わった。
残響体が崩れ、チューブが落ち、モニター破片が散乱、スタンドが倒れる。
変身を解除。フォームが外れ、ベースが解け、発光ラインが消え、マスクが外れた。
疲れていた――という感情の形が、少し残っていた。MOURNが解けた分、戻ってきた。長い疲れの形をした何かが。
チューブとモニター破片とスタンドの金属。疲れていた人間の最後の夜の、かたちだ。
処置室を出る。
建物の外、橘の車ともう一台が停まる。黒い中型車。社用車に偽装している。運転席の扉が開いた。
「久住凌さん、ですね」
五十代、細身、白髪交じり、眼鏡のレンズが厚い。スーツが几帳面に整っている。深夜だというのに。
「誰だ」
「沖野です。技術分析班」
橘が横に来る。「IDは確認済み。上層部名義で現場への接触許可が出ています」
「鈴村の名前はないのか」
「ないです」
久住は沖野を見た。「やれ」
沖野が機材を取り出す。小型スキャナーだ。
「右腕を出してください。装甲展開時の筋肉活動パターンを取ります。非侵襲的です」
久住は右腕を差し出す。電子音だけが鳴った。
「MOURNを使用されましたね」
「そうだ」
「フォームシフトは」
「一回。素体からMOURNへ。一度解除」
「変身中の感情流入は」
「フィルター越しに一回。核接触時」
沖野が数値を見て記録する。
「MOURNの鈍麻は残っていますか」
「薄い。一時間は残る」
「過去の平均は2.3時間ですが、今夜は短い?」
「自分の記録は知らなかった」
「それは失礼しました。伝えるべきか迷いました――知る方がいいと思いまして」
「今後は先に言え」
「了解です」
沖野がスキャナーをケースにしまう。
「以上か」
「一つだけ」
沖野が眼鏡フレームに触れる。癖だ。
「今夜のレムナント――鎮静されましたか」
「処理した」
「その二つは、久住さんにとって同じ意味ですか」
学者の顔だ。好奇心があり、悪意がなく、だから最もたちが悪い。
「帰る」
「そうですか」
沖野は少し間を置いた。
「……以前、似たことを言った人間がいましてね。処理と鎮魂が同じかどうか、自分にはわからないと。その人は――」
止まった。
「その人は」
「失礼しました。今夜はありがとうございました」
沖野は車に乗り、窓が閉まる。エンジンがかかり走り去った。
久住は立ったまま、その後ろを見ていた。「その人」という言葉の形が残った。誰の話だ。
胸の残響核が微振動。今夜は少し違う振動だ。呼ばれる感覚ではなく、応答する感覚。
橘の車に乗った。
走り出すとすぐ、橘が声を発した。届く、意味も届く。ただ、それが橘の声だという実感が一拍遅れる。
MOURNの後遺症だ。聴覚ではない。共感覚が落ち、橘の声が空間のどこかから来る音として処理される。
「久住さん、聞こえていますか」
「聞こえている」
「後遺症は?」
「出ている」
橘が黙る。
「一人で帰れますか」
「帰れる」
「……送ります」
「いらない」
橘は言い直さなかった。
夜の道が流れる。街灯が点滅する箇所がある。点き、消えかけ、また点く。
「橘」
「はい」
空間のどこかから聞こえる声。
「今夜は送らなくていい」
「でも――」
「MOURNの後遺症は初めてじゃない。対処できる」
橘は黙った。
「アパートの前で停めろ」
橘は黙って運転し停まった。久住は降りる。
「鍵、開けられますか」
「当然だ」
「……おやすみなさい」
返事をせず部屋に入りコートを脱ぐ。
横になり天井を見る。
MOURNの後遺症は、一人の方が処理しやすい。誰かの声を現実感ある声として処理できない状態で誰かといると、そこにいるのに薄くなる。不快だ。
桂木の声の形を確かめる。今夜もある。MOURNの後遺症があっても、桂木だけは消えなかった。
なぜかは今夜、考えなかった。
目を閉じた。




