第1話 死に損なった夜 前編
雨だった。
横殴りの雨が高架下を吹き抜ける。ブルーシートの端が浮いた。
久住凌はトランシーバーのノイズを右手で押さえ、足元の染みを見た。
アスファルトに滲んだそれは、三時間前まで人間だったものの名残だ。
洗い流されかけていたが、まだ消えていない。
消えない。
雨でも、砂でも、シートで覆っても、完全には消えない。
形が変わるだけで、何かが残る。
「久住さん、完了です」
背後から声。振り向くと、橘が安全チョッキのファスナーを上げながら近づく。
第九処理班の若い職員だ。現場に入って半年、まだ顔に「慣れ」がない。
目がそれを物語っていた。
「目撃者の対応は」
「三名、記憶処置済みです。救急搬送された一名は病院サイドに連絡済みです」
「遺体は」
「一般警察の管轄に移しました。事故扱いです」
久住は頷いた。それだけだ。
事故扱い。
今夜の男は事故死として記録される。
横断禁止の場所を渡った歩行者が、深夜の大型車両に撥ねられた――そういうことになる。
男の名前は知らされていない。
年齢も職業も、なぜこの時間にここにいたかも。
第九処理班が、そういう組織だ。
「残響反応の再チェック、やっておけ」
「は? でも鈴村さんが完了サインを――」
「俺が言ってる」
橘は一拍置き、「わかりました」と返した。
口だけだが、動けばそれでいい。
久住は高架の柱に背を預け、煙草を取り出す。
火をつけようとして、ライターが濡れていることに気づいた。
ポケットの底で潰れていたのか、カチカチやっても火は出ない。
捨てた。
ライターはアスファルトの上で跳ね、排水溝へ転がる。
久住は目で追い、胸の中心あたりを右手で押さえた。
今夜は、まだ痛まない。
それが落ち着かない。
残響反応が出たのは、帰り支度を始めた頃だった。
橘が計測器を持って戻ってきた。
顔が白い。
「久住さん」
「数値は」
「7.4です。さっきまで0.3だったのに」
急増だ。
現場に何かが残っている。あるいは、引き寄せられてきている。
「橘、離れろ」
「え」
「今すぐ車に戻れ」
橘が動く前に、音がした。
泣き声だった。
正確には泣き声に似た何か。
周波数が低すぎ、人間の耳では拾えない。
だが久住には聞こえた。胸の残響核が微振動する。共鳴している。
高架の上部、ジョイント部分の影が濃くなる。
雨が当たっているのに、そこだけ濡れていない。
久住は橘を後ろへ押した。
「何ですか」と言いかけた瞬間、ガードレールが曲がった。
熱で変形するように、ゆっくり、だが意思を持った動きで、ガードレールの一部が人間の腕の形に曲がる。
溶接部分が軋む音が高架下に響いた。
橘が悲鳴を上げる。
足元の道路標示――白い矢印と数字――が浮き上がる。
標示そのものが立体化し、空中に漂う。
さらに奥、高架を支える鉄骨の影から、人型が形を作り始めた。
かつて人だったものの形だ。
鉄骨の一部、ガードレールの欠片、アスファルトの粒子、血の染みが中心に集まる。
核として何かが収縮している。
「レムナントか」
久住は橘を突き飛ばした。
「走れ。振り返るな」
「で、でも久住さんは――」
「走れ」
橘が走り出す。
久住は前を向く。
レムナントが形を固めていた。
全高二メートル半。人型だが輪郭が滲む。
ガードレールが肋骨のように、鉄骨が脊柱を形成。
道路標示の白が皮膚に滲み、所々発光。
頭部には顔がない。ひび割れたアスファルトだけ。
だが声が聞こえた。
意味でも言語でもない。
死ぬ直前の感情の形。
胸の残響核を叩く。
怖かった。
恐怖そのものではない。
レムナントの形の中の、人間の逃げ場のない恐怖だ。
右手が胸のデバイスに触れる。無意識だった。
こういう時、体が答えを出す。
戦うか逃げるかではない。
久住の体は三年間、毎回同じ方向を選んできた。
逃げないのではなく、逃げた先を知っているからだ。
逃げても、男の最後の感情は残る。
核が残る限り、形を変え続ける。
見過ごすとは、そういうことだ。
心拍が一拍落ちる。
フラッシュバック。
三年前の夜。同じ雨、同じ高架下。
あの時も事故だった。残響核は偶然定着した。
桂木は消えた。
顔が頭に浮かぶ。
今夜は、鮮明だ。
デバイスが自動起動する。
鎖骨に電流が走る。首筋から発光ラインが伸びる。
胸骨の奥で何かが目を覚ます感覚。
「……変身」
声が出た。
久住の声に、もう一つの声が重なる。
「ギアレブナント」
装甲が展開した。
骨格の上から組み上がる感覚に、慣れない。
黒とガンメタの装甲が体表を覆い、死面のマスクが顔を閉じる。
目の発光スリットが赤く灯る。
背部の黒いノイズが揺らぐ。
高架下の雨音が遠くなる。
代わりに、別の音が来る。
先ほど流れ込んだ感情の続きだ。
男は何かから逃げていた。怖かった。
レムナントとして、恐怖はここにある。
久住は構えを取った。
接近戦。近接主体。
抉って、剥がして、核を露出させ、破壊する。それだけだ。
レムナントが動いた。
速い。
ガードレールを組み合わせた腕が突進する。
久住は横にステップ。
装甲の重さが最後に来る。
遅れが生死の境目になる。
右腕のガードレールが風を切る。
久住は体幹を引き、左掌打を胴体に叩き込む。
人体なら肋骨が折れる程度だが、レムナントには効かない。
鉄骨と感情の体に骨はない。
それでも痛みに似た何かを感じる。
流れ込む。
叩いた瞬間、男の感情の断片が増える。
処理を遅らせる原因だ。
フォーム切り替えを考える。
重量がある。速度は高くない。
だが耐久がある。
WRAITHだ。
フォームシフト。装甲が細身になる。
体が軽くなり、ノイズの尾を引くように動ける。
レムナントが振り向く。
久住は途中に入り込む。
速い。視界が流れる。
高架の柱を蹴って跳躍、背部に回り込む。
あそこだ。残響核がある。
短刃を出す。右前腕から展開。長さ三十センチ。幅は細い。
核を露出させるための道具だ。
レムナントが腕を逆関節気味に振る。
久住は低く潜り抜け、脊柱部分へ短刃を差し込む。
鋼鉄の感触。
その奥に違う感触がある。
核に触れた。
瞬間、流れ込む。
記憶でも映像でもない。感情の密度だけが塊になって押し寄せる。
男の最後の感情だ。
悔しかった。
声を上げられなかったことが。
誰にも知られなかったことが。
久住は押し黙る。
鉄骨の隙間が開く。核が露出する。
白く、小さい。
空間を歪める密度を持った球体が覗く。
レムナントが絶叫する。
声ではない。
高周波と低周波が同時に発生。
高架下全体を揺らす。
久住は押し込む。
グレイヴ・ブレイク。
両手を核に当て、干渉する。
残響核が共鳴し、分離を促す。
引き剥がす。
男の最後の感情が、また流れ込む。
久住は受け取り、両腕を開く。
核が空中に飛ぶ。白く発光し、ゆっくり落下。
右拳を握った。打ち込む。
音はない。
核は消えた。
フッと、ろうそくの火のように。
レムナントが崩れた。
鉄骨が落ち、ガードレールが散る。
白い標示の欠片が舞い、雨に溶ける。
久住は立つ。
装甲が解除される。
黒い発光ラインが消え、マスクが外れ、顔が出る。
雨が当たる。冷たい。
指先の感覚が鈍い。ゆっくり呼吸を整える。
崩れたレムナントの残骸を見る。
鉄骨、曲がったガードレール、砕けたアスファルト。
人間の痕跡はない。名前もない。悔しかったという事実だけが流れ込み、消えた。
核は消えた。
男の感情も消えた。
処理か、鎮魂か。決める必要もわからない。
橘が戻ったのは十分後。
安堵と困惑が同時に顔に出る。まだそういう顔をする人間だ。
「終わった、んですか」
「片づけろ」
「は、はい。でも久住さん、怪我は――」
「片づけろと言った」
橘は黙って動く。
久住は高架の柱に寄りかかり、煙草を取り出す。ライターがないことを思い出した。
男の最後の感情が、うっすら残る。
悔しかった。
ただ、悔しかった。
第九処理班の報告書には二行で記録される。
現場での残響体発生を確認、処理完了。
残響核回収不能(消滅)。
消滅。
毎回その言葉が引っかかる。
久住は書き加えない。
上層部は現場の感触に興味がない。興味があるのは、どれだけ戦えるか、どれだけ使えるか、どれだけ持つかだ。
「久住さん」
「何だ」
「今夜の件、残響体の発生源の調査結果が出ました」
「言え」
「高架下で今夜死亡した歩行者ですが――轢死ではなく、発見時にはすでに心停止状態。轢かれたのは死後です」
久住は橘を見る。
「殺されてから、ここに運ばれたということか」
「おそらく。ただ、上から指示があり、一般警察は轢死扱いにするようです」
「誰から」
「鈴村さん経由で。でも鈴村さんではない。もっと上です」
久住は黙った。
男は殺され、高架下に捨てられた。
強い感情を抱えたまま死んだ。
残響体になった。
事実は隠蔽される。
「わかった」
橘が引く。
久住は崩れた残骸を見る。
鉄骨、ガードレール、アスファルト。
名前のない男の最後の夜の残骸だ。
答えは出ない。
ただ、見過ごせなかっただけだ。
桂木の顔が、今夜は鮮明だ。
でも、明日はどうかわからない。




