腥息
築五十年の木造アパートの二階、角部屋。そこが私の現在の住処だ。
フリーランスのライターとして独立したものの、最初は単発の小さな案件ばかりで、家賃の安いこの隙間風だらけの部屋へ越してこざるを得なかった。
十二月半ばを過ぎると、この部屋の室温はほとんど外気温と変わらなくなる。壁の断熱材はとっくに機能を失い、経年劣化で歪んだ窓のアルミサッシからは、刃物のように鋭い冷気が容赦なく吹き込んでくる。金欠の私はエアコンの暖房費すら惜しく、夜になれば着る毛布を羽織り、分厚い毛布と羽毛布団を重ねた重たい寝床の中に逃げ込むしかなかった。
布団の中の、自分の体温で温められた狭い空間だけが、この凍える世界で唯一の安全地帯だった。
その夜も、ひどく冷え込んでいた。
天気予報では「この冬一番の寒気」と報じていた記憶がある。窓の外から時折聞こえていた深夜のトラックの走行音も途絶え、世界からあらゆる音が吸い取られてしまったかのような、底知れぬ静寂が部屋を支配していた。
ふと、目が覚めた。
尿意ではない。悪夢を見たわけでもない。ただ、脳の奥底にある防衛本能が、唐突に警鐘を鳴らして意識を強制的に覚醒させたような、不自然な目覚めだった。
スマホの画面で時間を確認する気にはなれなかった。部屋の空気の異様な張り詰め方と、顔の表面を刺すような冷気で、丑三つ時だと直感した。
私は右半身を下にして、壁側を向いて丸まっていた。布団の隙間から冷たい空気が入り込まないよう、首元までしっかりと布団を引き上げ、胎児のように手足を縮めている。
……しゅうぅ、……はあぁ。
背後で、音がした。かすかな、しかし規則的な音。
最初は、外を通る車のタイヤが濡れた路面を擦る音かと思った。だが違う。音はもっと近い。薄い壁の向こう側にいる隣人のいびきだろうか。いや、それにしては輪郭がはっきりしすぎている。
……しゅうぅ、……はあぁ。
それは、呼吸音だった。
私のものではない。私の背中側、ほんの数十センチ背後から聞こえてくる。
心臓がドクンと大きく跳ね、全身の血が一気に冷え切るのを感じた。
私は一人暮らしだ。寝る前、玄関の鍵は確実に閉めた。チェーンもかけた。窓の施錠も確認した。
強盗か?いや、泥棒がわざわざ住人の背後に添い寝をして、こんなに無防備な寝息を立てるはずがない。
暗闇の中で五感が異常に研ぎ澄まされ、部屋の微細な情報が直接脳に流れ込んでくる。
まず、匂いだ。
古い十円玉を手のひらで強く握りしめた後に残るような、不快な鉄錆の匂い。それに混じって、何年も水換えをしていない熱帯魚の水槽の底に溜まった泥のような、ひどく生臭い匂いが、布団の中にゆっくりと充満してきている。
次に、触覚。
私の背中側、マットレスが僅かに沈み込んでいる。私自身の体重による傾斜ではない。背後に「質量のある何か」が横たわっているのだ。掛け布団が背中側へじわじわと引っ張られ、私の肩口の布地がピンと張っている。
そして何より、私のうなじに、一定の間隔で風が当たっていた。
……しゅうぅ、……はあぁ。
氷点下に近いこの部屋の中で、うなじに吹きかかるその息だけは、ひどく生温かく、じっとりと湿っていた。
息が吹きかかるたび、その部分の皮膚が粟立ち、感覚が麻痺していく。
私は過去に何度か、疲労が溜まった時に金縛り(睡眠麻痺)を経験している。脳は起きているのに体が眠っているせいで、幻聴や幻覚を伴うアレだ。だから最初、これもその類だろうと高を括ろうとした。
しかし、決定的な違いがあった。私の体は、微かではあるが確かに動かすことができたのだ。指先を曲げ、足の指を丸めることができる。私は金縛りに遭っているのではなく、ただ純粋な「恐怖」によって、自らの意志で体を動かすことを放棄しているだけだった。ここで振り向いて、それと目が合ってしまったら。そう想像するだけで、呼吸が浅くなり、視界の端がチカチカと点滅した。
(気のせいだ。ただの隙間風だ。マットレスの沈み込みは、古いスプリングが勝手にへたっただけだ。匂いは、キッチンの排水溝から上がってきた下水の匂いだ)
頭の中で必死に理屈をこねくり回し、現実を否定しようとする。しかし、背後の「それ」は、わずかに身じろぎをした。
ギシッ。
マットレスのバネが重みで軋む音。
そして、「それ」の硬い額のような部位が、私の背骨にゴツリと押し当てられたのだ。
「うあああっ!」
極限に達した恐怖が、私の中から理性を完全に吹き飛ばした。
声にならない叫びを上げながら、私は弾かれたように寝返りを打ち、同時に枕元の壁にある照明のスイッチを力の限り叩きつけた。
カチッという音と共に、蛍光灯の青白い光が六畳間の隅々までを暴力的に暴き出す。
私は布団の上に座り込み、乱れた呼吸を繰り返しながら、目を血走らせて「背後」だった場所を睨みつけた。
何もない。
誰もいない。
シーツには私が暴れたせいで少しシワが寄っているだけで、人が寝ていたような明確な窪みはない。
万が一を考え、私は震える足でベッドから降りた。床板の冷たさが足の裏から突き刺さる。狭いクローゼットの扉を勢いよく開け、ユニットバスのカーテンを引きちぎるように開け、ベッドの下、洗濯機の隙間まで、スマホのライトを照らして隈なく確認した。玄関の鍵もチェーンも、かかったままだ。 虫一匹、侵入した形跡はない。
あのひどく生臭い匂いも、鉄錆の匂いも、いつの間にか綺麗に消え去っていた。
「……気のせい、だよな……」
自分の掠れた声が、静寂の部屋にひどく間抜けに響いた。
極度の疲労と寒さが重なり、脳がリアルな幻覚を見せたのだろう。そう結論付けるしかなかった。何より、布団の外に出たことで急激に体が冷え切り、歯の根が合わないほど震えが止まらなくなっていた。
私は逃げ込むように再びベッドに戻り、乱れた布団を首元まで引き上げた。
蛍光灯は眩しかったが、もう一度あの暗闇を作る勇気は到底湧いてこない。明るい光の下、分厚い布団の温もりに包まれると、強張っていた全身の筋肉からゆっくりと力が抜け、激しかった心拍音も次第に落ち着いていった。
部屋の空気は、相変わらず骨の髄まで凍りつくように冷たい。
私は仰向けのまま、木目の見える天井を見つめて、ふう、と大きく息を吐いた。
氷点下に近い室温の中で、私の口から出た白い呼気が、はっきりとした輪郭を持って天井へと立ち昇っていく。
それは私が確かに生きている証であり、温かい血が流れている証明だった。少しずつ形を変えながら空気中に溶けていくその白い雲を、私はぼんやりと目で追っていた。
無意識に三度目の息を吸い込もうとした、その時。
私の視界の右端。誰もいないはずの枕の余白から、あの生臭い匂いとともに白息が立ち昇った。
眩しい蛍光灯の下、私のすぐ横で、見えない重みがギシッとマットレスを沈ませた。
〈了〉




