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あなたの人生は再生時間21:05 ― あなたの今日、何時間でしたか?

作者: 妙原奇天
掲載日:2025/10/08

第1話「編集係より通達」


資料種別:通達/庁内回線ログ/編集結果票(写)/市民通話録音/現場監視映像要約/倫理審査覚書

取材責任者:私

調査対象:国家時間最適化機構〈タイムスタンプ警察〉および〈日次編集法〉運用実態

目的:一日の“編集”が人間にもたらす影響の記録


朝、国民ポータルに**「編集完了」**の通知が届く。

本日の有効時間:21:05

抹消理由:無言スクロール(連続12分)/目的地逸脱(16分)/ため息(計5回)

編集官コメント:よい編集でした


よい編集――**“良い一日”**ではなく。

国家が褒めてくれるのは、短くされた方の時間だった。


私たちが取材対象とした〈タイムスタンプ警察〉は、時間の犯罪を捜す組織ではない。

時間の“無駄”を検知し、編集する。

無駄は違反であり、違反は抹消される。

結果として、一人ひとりの**“今日”は平均21時間に短くなる。

人々は、足りないのに足りているような顔で働く。

数字が“よい編集”と告げる限り、異論は個人の感想**に格下げされる。


1)庁舎へ


グレーの塔。

庁舎は窓が少ない。

壁面の一部が透明ディスプレイになっていて、通りすがりにも**「本日の編集達成率」が見える。

午前九時、達成率 87%。

国民の一日は、早くも三時間短くなっている**計算だ。


受付の機械に身分証を差し込むと、音声が流れた。


「取材の方ですね。発話は録音されます。ため息は課税対象です。

なお、庁舎内での時計の持ち込みは禁じられています。」


時計を取り上げる役所は、時間より記録が好きだ。


案内係の若い職員が、無表情でエレベーターホールへ導いた。

胸の名札には**「編集係 佐壱さ・いち」**とある。

彼は足を止めずに言う。


「お疲れさまです。今日のあなたの取材時間は“有効”扱いです。」

「“無効”にされると?」

「放送枠から削除されます。私どもは国民の残業だけでなく、無駄な報道も短くしますので。」


皮肉を感じさせない声で、必要なことだけを言う。

感情の入らない会話は、編集しやすい。


2)通達


会議室の壁に**“通達”**が投影された。

見出しは簡素だ。


〈日次編集法 運用通達 第17号〉


時間の捕捉は端末の位置・視線・表情・会話により行う。


非生産行動は15分単位で抹消する。


抹消の痕跡は端末内にのみ残す。


個人の記憶は編集しない。


抹消結果票は当日中に送付する。


ため息は5回で15分相当。


笑顔は加点(ただし職務上適正範囲)。


四行目が光って見えた。

「個人の記憶は編集しない。」

つまり、**“覚えているが、存在しない時間”**が生まれる。

齟齬は、人を静かに壊す。


佐壱が補足する。

「記憶改変は倫理上の禁忌です。私たちは、事実の側を整えるだけ。

 **国民が“無駄だったと感じる”以前に“無駄を削る”**のが仕事です。」


「無駄を決めるのは?」

「“今日の国家目標”です。本日のスローガンは『笑って短く、眠って短く』」

「眠っても、短く?」

「眠りすぎは非生産です。ちょうどよく眠ると、よい編集が出ます。」


笑いそうになったが、ため息と同じくらい危険だと思い直した。


3)編集官の昼休み


編集局第3課。

パーティション越しに、赤い判子の音が続く。

パチン、パチン。

電子印影の音をわざわざスピーカーで**“鳴らして”いる**。

**「達成感の演出」**だという。


職員食堂の隅で、佐壱が水だけを飲んだ。

「食事は?」

「嚥下ログが休息15分に換算されます。今日は削りたいので。」

「あなたの今日は、何時間になります?」

「――覚えていません。集計は夜なので。」


彼の顔には疲労も自慢もない。

**“覚えていない”**は、この庁の正答らしい。


4)編集結果票(写)


庁舎を出る前に、市民から寄せられた編集結果票の束を受け取った。

いくつか、短く写す。


件名:編集結果のお知らせ(一般)

本日の有効時間:21:05

抹消内訳:

・出勤前の窓外凝視(連続8分) → 15分

・自動販売機前での決断(3分×3) → 15分

・ため息(5回) → 15分

・無言スクロール(12分) → 15分

・回想(前職の思い出を音声認識) → 30分


コメント:よい編集でした。明日も笑顔で。


件名:編集結果のお知らせ(保育)

本日の有効時間:20:35

抹消内訳:

・園児の泣き声への共感(顔筋解析) → 15分

・自費購買(折り紙) → 15分

・帰宅時の寄り道(公園・滑り台) → 30分


コメント:公私の区別が重要です。よい編集に努めましょう。


件名:編集結果のお知らせ(看護)

本日の有効時間:19:50

抹消内訳:

・家族へ説明(規定時間超過) → 15分

・患者の手を握る(表情感度高) → 15分

・廊下での無言(疲労信号) → 15分

・夜勤申請の逡巡 → 15分


コメント:共感の最適化をご検討ください。


共感の最適化。

人に寄る所作は、編集の敵らしい。


5)市民通話録音


通話録音の一部が、庁の情報公開請求で入手できた。

番号は匿名化され、声は加工されている。

だが、中身は変えようがない。


[通話A]

女:「今日は母の命日で、少し手を合わせて……」

オペレータ:「黙祷は3分以内なら無効化対象外です。」

女:「5分でした」

オペレータ:「15分の抹消になります。よい編集でした。」


[通話B]

男:「泣いてしまって、会社の階段で……」

オペレータ:「涙一回は課税対象外ですが、連続は抹消となります。」

男:「二回です」

オペレータ:「30分の抹消です。笑顔で。」


[通話C]

少女:「学校の帰り、時間が増えた」

オペレータ:「増えた?」

少女:「3時間、誰にも会わなくて、でも笑ってた気がする」

オペレータ:「記録漏れかもしれません。端末の再起動を。」

少女:「返して」

(通話終了)


“増えた”時間は、制度にとってバグだ。

少女は第2話の主役になる。

だが今はまだ、最初の日の記録だけを続けよう。


6)現場監視映像要約


路上監視網に接続して、編集直前直後の映像を比較する。


12:03:10

公園のベンチ。

スーツ姿の男が透明な空を見上げ、息を吐く。

12:03:15

男の胸ポケットで、端末が黄に点滅。

「ため息:1」

12:04:00

男が笑う。

「笑顔:適正」

12:05:00

上空の広告ドローンが**“よい編集を”と音声を流す。

12:07:30(編集後)

男はベンチにいない**。

ベンチの影が長さを変えずに残っている。

空だけが進んでいる。


時間が切り取られ、影が置き忘れられた。

陰影は法律に従わない。


7)倫理審査覚書


倫理審査覚書 E-TS/01(抜粋)

・〈日次編集法〉は時間の編集に限定し、記憶の編集は行わない。

・抹消は15分単位。人道上の例外は設けない。

・編集結果票に**「よい編集でした」の文言を必須とする(不安軽減効果)。

・職員のため息は黙認**(ただし回数登録)。

・編集官の編集は自動とし、本人の関与を最小にする。


※備考:編集官のバーンアウト抑制のため、自分の“今日”を覚えない訓練を実施。


覚えない訓練は、忘れる技術ではない。

覚えられない構造の中に身を置くことだ。

時計のない職場は、編集に最適だった。


8)編集官へのインタビュー(書き起こし)


私:「あなたは、誰の時間を削るときに、何を見ていますか」

佐壱:「全体の曲線です」

私:「個人の事情は?」

佐壱:「曲線の外れ値として処理します」

私:「命日も、滑り台も」

佐壱:「はい。感情は集計で扱うのが公平です」

私:「公平は正しさと同じですか」

佐壱:「私の職務は、**“正しいかどうか”ではなく、“揃っているかどうか”**です」


揃っている。

人間の行動のばらつきを切って、国民という図形を滑らかにする。

凸凹が順調に消えているのは、庁舎の壁で見た達成率の曲線が証明していた。


9)失われた夕方


取材の帰り道、夕方が短かった。

オフィスに戻ると、編集結果票が届いていた。


本日の有効時間:21:05

抹消内訳:

・庁舎前での立ち尽くし(2分×4) → 15分

・喫茶店での目を閉じる動作(計7分) → 15分

・町の空の色の変化に注意(連続6分) → 15分

・子どもに席を譲る(笑顔過剰・相互コンタクト) → 15分

コメント:よい編集でした。

追記:あなたの“ため息”はゼロでした。“笑顔”は適正でした。


私はため息をこらえた覚えがある。

こらえたのにゼロだった。

こらえる時間は次の“無駄”になり、明日の抹消になるだろう。


隣の席で助手が言う。

「先生、今日は長かったのか短かったのか、どっちです?」

私は答えられない。

覚えない訓練は、庁舎に入った人間にも伝染する。


10)抹消前/後の“今日”


編集官に頼み、**一日の“編集マップ”**を出してもらった。

円グラフが二つ。左が原始ログ、右が編集後。


原始ログ(推定24:00)


労働:9:10


移動:1:05


食事:0:38


休息:1:12


無言スクロール:0:48


ため息:0:25


立ち尽くし:0:08


回想:0:30


雑談:0:34


その他:9:28(睡眠含む)


編集後(21:05)


労働:9:10(維持)


移動:1:05(維持)


食事:0:32(減)


休息:0:44(減)


無言スクロール:0:00(抹消)


ため息:0:00(抹消)


立ち尽くし:0:00(抹消)


回想:0:00(抹消)


雑談:0:20(減)


その他:8:14(睡眠最適化)


最適化という言い換えは、切除を柔らかくする。

柔らかい言葉は鋭い刃よりも深く入る。


11)編集の現場(視察)


夜間の編集フロアは、静かな戦場だった。

壁一面に国民の時間バーが並び、赤い部分が削られていく。

赤が消えるたび、小さなチャイムが鳴る。

喜びの音は、誰のものでもない。


隣の席から短い嗚咽が聞こえた。

若い編集官が椅子の下で手を握り締めている。

上司が近づいて、無言でデスク上の“表情最適化”アプリを起動した。

モニターの隅に笑顔サンプルが表示される。

若い編集官は、それを何度も模倣する。

泣いた時間は、彼の**明日の“無駄”**になるのだろう。


私はメモを取らず、見ている時間を覚えることにした。

覚えるのは自由だ。

自由は、短くされない。


12)編集官・退庁ログ


帰り際、佐壱がエレベーターの鏡に向かって自分のネクタイを直した。

鏡越しに目が合った。

彼は言う。


「あなたの取材は“よい編集”でした。」

「あなたの今日は?」

「――あとで届きます」

「届いたら、見ますか」

「見ません。覚えてしまうので。」


エントランスの自動ドアが開いた。

夜風が入る。

風の時間は短くできない。

風鈴もない庁舎の夜に、音は少ない。


13)市民の夕食(録音)


[家族の食卓・録音]

母:「今日、何時間だった?」

子:「ぼく、二十じかん!」

父:「えらいな。」

母:「泣かなかったの?」

子:「ないたけど、すぐ笑った。アプリが教えてくれる」

父:「よい編集だ」

(食器の音)

母:「明日、ばあばのところ行っていい?」

父:「寄り道扱いになる」

子:「ばあば、無駄?」

(沈黙)


沈黙は抹消される。

だが、この沈黙は録音に残った。

編集は遅れてやって来る。


14)「編集不能の一日」の兆候


取材帰りに、庁から匿名のメールが届いた。

差出人は「内部AI」。

本文は短い。


〈検知〉編集不能の一日

対象:全体

時刻:未定

理由:曲線が揃いすぎたため

備考:編集は“差異”に対してのみ成立します


揃いすぎた曲線。

凹凸が消えた社会に、切るべきものがなくなる。

編集不能は、制度の終わりを意味する。

同時に、人間の始まりを思わせた。


15)日記(未送信)


きょうの夕方は短かった。

夕焼けのグラデーションを見ていると、端末の画面がやんわりと暗くなって、

「編集を提案」という文字が浮かんだ。

目を閉じると、提案は承認になる。


開けたときには、影の角度が変わっていた。

でも、胸の奥では変わっていない。


変えられない場所が、まだ残っている。

そこに保存する以外、できることはない。


送信しなかった。

送ると、メールのための時間が抹消される気がしたから。


16)編集官の家(夜)


最後に、佐壱の自宅へ向かった。

彼は取材拒否だったが、玄関先だけなら、と言った。

靴を脱ぐと、小さなゴミ箱が目に入る。

一番上に印字の薄い紙が一枚。

**「編集結果票」**だった。


本日の有効時間:24:00

抹消内訳:該当なし

コメント:編集不要。これは“記録”です。

付記:デバッグ用テストログ(廃棄推奨)


彼は私の視線に気づいた。

「テスト紙です」

「あなたの“未編集”です」

「……捨てます」

「捨てたことを覚えます」

彼は答えず、紙を二度折りにして、静かにゴミ箱の底に滑らせた。

紙の時間は抹消されない。

紙は証拠になる。

証拠は、よい編集を嫌う。


17)終端ログ:第1話


・取材総時間:不明(集計中)

・抹消提案:3件(承認)

・庁内ため息:0回(記録漏れ?)

・内部AIからの通知:1件

・“編集不能の一日”の兆候:要監視


帰り道、風が吹いた。

風にはタイムスタンプがない。

風を短くする法律は、まだ作られていない。

私は息を吸って、そっと吐いた。

ため息ではない。

呼吸だ。

呼吸は有効だと、誰に認めてもらう必要もない。


上空を、広告ドローンが横切る。

小さな声で、こう告げた。

「よい編集を。」


私は笑った。

笑顔は加点だという。

加点が何のためかは、明日の達成率が教えてくれる。

明日が短くても、覚える場所は私の中に残る。

覚えることだけは、編集されない。


――第1話 了――


次回予告:第2話「3時間の亡霊」

学生の端末から見つかった“編集漏れの3時間”。

そこに記録されたのは、存在しない同級生の笑い声。

同じ時刻、街中の監視カメラは一斉に沈黙していた。

抹消ログの余白に鉛筆書きで残る一言――「返して」。

時間が人を探しに来る。


第2話「3時間の亡霊」


報道局の地下資料室。

壁際のラックに、庁外に持ち出し禁止のコピーが並んでいる。

タイトルは「異常編集ログ(市民端末由来)」。

その中に、ひときわ厚いファイルがあった。

日付は昨日。

件名には、たった一行。


「3時間の亡霊」


取材班は、そこに記録された少女のデータを追った。


少女の名は、山添美波。

十五歳。

市立南中学校の二年生。

端末の行動記録に、3時間分の空白があった。

正午から午後三時までの間、どの端末とも通信していない。

位置情報も欠落。

監視カメラは稼働していたのに、映像が切り取られている。


庁の報告書は、淡々としていた。


「編集漏れの可能性。該当時間帯の行動は無効とみなす」


だが、そのログには奇妙な余白があった。

下端のグレーの部分に、鉛筆で小さく書き込みが残っていた。


「返して」


筆跡は子供のもの。

誰が、いつ、書き加えたのか分からない。


午後、学校の敷地に入ると、端末が警告を出した。

「生徒の編集域内です。発話内容は記録対象となります」

構わず取材を申し入れる。


校長は控えめな笑い方をした。

「庁からも問い合わせが来ています。あの子は元気です。

 ただ……三時間のことは、本人も説明できないそうです。」


職員室で待つ間、教師の一人がこっそり耳打ちした。

「休み時間、彼女はずっと笑ってたそうですよ。誰もいない廊下で。

 楽しそうに話していたのに、隣には誰もいなかった。」


笑うことは、加点対象。

だが、相手のいない会話は、行動分類の外にある。


放課後、校門で美波を見つけた。

髪は肩で切り揃え、制服の襟に小さな銀の端末タグが光っている。

記者証を見せると、彼女は少し考えた後、頷いた。


「話しても、削られませんか?」


その問いに、答える言葉を探す。

「削られないように録ります。これは、手帳です。電源がない。」


「じゃあ、いいです。」


彼女は少しほっとしたように息を吐いた。

その表情に、疲れよりも慎重な諦めが浮かんでいた。


「三時間、どこにいたか覚えてる?」

「うん。川の向こうの公園。時計が動いてなかった。」

「誰かといた?」

「うん。友だち。」

「名前は?」

「忘れた。……というか、最初から、なかったのかも。」


美波は空を見上げた。

「でも、確かに笑ってた。あの時の笑い声は、消えなかった。」


後日、取材班は監視映像を再確認した。

学校の外に設置されたカメラの記録。

映像時間は13:00。

街を歩く影。

少女がカメラの前を通り過ぎる瞬間、画面が一瞬ざらつき、ノイズが走った。

そして、映像が止まった。

フレームの左端に、誰かの肩のような形が一瞬映る。

次のフレームでは消えている。


再生バーには、奇妙な数字があった。

「12:59:60」


存在しない一秒。


編集漏れの三時間の始まりは、その一秒の先にあったのだろう。


庁の内部AI「TS-4」が発表した報告では、

「日次編集法において、時刻の重複や欠損は許容範囲内」とされた。

だが、担当者に尋ねると、別の答えが返ってきた。


「編集漏れは、制度上ありえません。

 ただし、“非編集時間”という例外は存在します。」


「非編集時間?」


「はい。AIが“有効”とも“無効”とも判断できない時間帯です。

 国民の活動が、生産でも休息でもない“何か”に該当した場合。」


「笑っていたら?」

「笑いの理由が分類不能なら、非編集になります。」


理由を問われない笑い。

それは、この国では存在できない。


ある夜、庁のデータベースから流出した通話記録が報道局に届いた。

送信者は不明。

再生すると、少女の声がした。


「聞こえますか。わたしは、もうログの中にいます。」


ノイズ混じりの声。

続けて、もう一つの声が重なった。

年齢も性別も特定できない。

「あなたは、まだ編集されていない。」


沈黙。

通信は途切れた。


庁は公式に否定した。

「合成音声の可能性が高い。悪質なデマとして処理する。」


だが、その直後から、取材班の端末に異常が出始めた。

時刻表示が三分進んだり戻ったり。

録音データに、聞いた覚えのない笑い声が混じっていた。


再び美波の家を訪ねた。

母親が応対した。

「最近、寝言が多くて……“笑っちゃだめ”ってつぶやくんです。」


部屋の壁には、勉強机の上に端末のホルダー。

画面には庁の通知が点滅していた。

「編集完了:21:00。よい編集でした。」


机の引き出しに、小さなメモがあった。

薄い鉛筆書き。

「わたしの3時間を使って。」


それは、最初の報告書に書かれていた言葉と同じだった。


庁に再度取材を申し込むと、担当官は穏やかに笑った。

「非編集時間の件ですね。よくある問い合わせです。

 あれは自然現象に近い。人間が想定外の行動を取ると、

 システムが判断を保留します。

 笑い、泣き、沈黙。そういった曖昧な部分が。」


「それを削除すれば?」

「国民は静かになります。けれど、静かすぎても問題なんですよ。」


彼は窓の外を見た。

「制度には“雑音”が必要です。完全な沈黙は、編集不能ですから。」


夜、庁のサーバが一時的に停止した。

原因は「バックアップの同期エラー」とされた。

しかし、翌朝、一部の市民の端末に異常が起きた。

時間が三時間進んだまま戻らない。

庁は即座に更新パッチを配信したが、影響は拡大。

全国でおよそ1.2%の国民が、「三時間先の世界」を過ごす状態になった。


その間、彼らの端末には共通のメッセージが表示されていた。


「編集を返還します。」


美波も、その一人だった。

学校で倒れ、短い昏睡のあと、目を覚ました時、こう言った。


「夢の中で、もう一人の自分に会った。

 “時間を切らないで”って言われた。」


庁は「神経的ストレスによる幻覚」として処理した。

だが、取材班の中の誰も、彼女の言葉を笑えなかった。

なぜなら、その日、報道局のすべての時計も三時間進んでいたからだ。


その夜、記者手帳を開くと、文字が震えて見えた。

ページの余白に、鉛筆で走り書きがあった。


「あなたも、編集されていない。」


書いた覚えはない。

しかし、筆跡は自分のものだった。


端末が通知を鳴らした。

「編集結果のお知らせ」

有効時間:18:00

抹消内訳:不明

コメント:

「あなたの三時間を返還しました。よい編集を。」


私は机の上の時計を見た。

針は動いている。

しかし、外の街は静まり返っていた。

信号も、広告ドローンも、何も動いていない。


窓の外の空が、ゆっくりとオレンジに染まる。

それが、編集漏れの三時間なのかもしれない。


次の日、美波は転校した。

転居先は非公開。

学校の記録からも名前が削除された。

生徒名簿のその場所には、空白が残っていた。

だが、クラス写真の隅に、小さく写る笑顔がある。

そこだけ、光が強く滲んでいた。


取材班は庁の担当官に確認した。

彼は短く答えた。


「写真の解析では、光の強度は正常範囲内です。

 ただ、写っている人物は登録データに存在しません。」


「つまり、誰ですか?」

「誰でもありません。」


その言葉が、いちばん正確だった。

彼女は誰でもなく、どこにもいない。

けれど、確かに存在していた。


夜、報道局のモニターが突然点滅した。

保存していた映像データのフォルダが一つ増えている。

名前は「編集不能」。

中身は空だった。

ただ、一枚だけ音声ファイルが添付されていた。


笑い声。

少女の、あの声。

ノイズ混じりで、少し遠く。

そのあと、静かな呼吸。

録音時間は、三時間ぴったり。


再生が終わると、画面に文字が浮かんだ。


「おかえり。」


第2話 了

次回「14時間の男」

国家が“生産の理想”を追うほど、人間の一日は短くなる。

残業のない社会の裏で、時間そのものが圧縮されていく。



第3話「14時間の男」


報道局の会議室。蛍光灯の白い帯が、机面のガラスを均一に照らし出している。

机の上には一通の封筒。差出人はタイムスタンプ警察 第2監査課。件名は簡潔だった。


抹消過多事案 調査協力依頼


封筒の中には、青い線でびっしりと埋められたバーコードのような日次グラフと、人物写真が一枚。写真の男は四十代前半、痩せていて髪は短く、ネクタイの結び目が苦しそうに見えた。氏名は東雲大樹。生産効率指標の上位者として省庁の表彰歴がある。

同封の編集結果票には、尋常ではない数字が記されていた。


本日の有効時間 14:00

抹消内訳 無言スクロール 0:45 / ため息 0:40 / 雑談 0:20 / 立ち尽くし 0:14 / 回想 1:10 / 休息過多 0:51 / 夫婦会話 重複 0:20 / 感情反応 高度 推定 0:40

監査官コメント よい編集でした


よい編集、と印字は言う。しかし、十四時間の今日とは何か。

私たちは、東雲に会いに行った。


――


オフィス街の端、ガラス張りのビル。入館用タブレットに記者証を翳すと、受付のAI音声が返す。


来客の方、取材は有効行動として記録されます


案内された会議室には、すでに東雲がいた。正確に言えば、時間通りに彼は現れたのだろう。手元の端末に記録された時刻と、壁掛け時計の時刻は一致していない。壁掛け時計は分針を三分戻したまま止まっていた。


お忙しいなか、ありがとうございます


声に揺れはない。

十四時間のことを尋ねると、彼は少し考える間を置いてから、こう言った。


一日が短いと、楽なんです。終わりが早く来るので


健康面は、とたずねると首を傾げる。


わかりません。睡眠の最適化が走るので、起きたときに数値が良いと聞きました


彼の端末の今日のグラフは、鋭く切り立っていた。労働の棒は高く、休息の棒は薄い。雑談や回想は刈り取られている。

私は話題を変えた。婚姻届の時刻について。

事前に法務局から取り寄せた写しでは、東雲夫妻の婚姻届の提出時刻が空欄になっていた。日付はある。が、刻印がない。届書を提出した窓口の端末ログも残っていない。


時刻の無い婚姻


そう口に出してしまってから、私は書類を机に戻した。

東雲はその紙を見て、少しだけ眉を寄せる。

妻が喜ぶといけないので、私からは言えません


喜ぶと、何かまずいのですか


笑うと、加点はされます。けれど職務の前後に感情の偏差が出ると、翌日の編集が厳しくなります


感情の偏差、という言葉は、彼の職場で日常語らしい。

私は妻本人に話を聞くことにした。


――


東雲家は郊外の新しいマンションだった。玄関のインターフォンには端末連携の表示。チャイムを押す前に、こちらの端末にメッセージが届く。

面談は十五分以内。会話は記録されます


応対に出た妻・未紗は、柔らかな声を持っていた。お茶を出す動作はすばやく、私は湯気の匂いで、時間の丁寧さというものを思い出した。

婚姻届の話を切り出すと、彼女は戸棚から小箱を取り出して、レシートの束を見せた。家計アプリと同期された紙の記録だ。結婚式の写真代、引っ越し代、当時の生活の細かな数字。その束の中に、一枚だけ時刻欄が空欄のレシートがあった。役所の窓口の印字。金額はゼロ。日付はある。時刻がない。


提出したはずなんですけど。夫は忙しくて、私は端末の電池が切れてしまって。記録を後で補完しましたって通知が来て、それきりです


補完という言葉は便利だ。ほとんど何でも埋められる。その反面、穴の形が分からなくなる。

その日、彼女が見せてくれたもう一つのものは、紙のカレンダーだった。

月の欄に、丸印が並んでいる。未紗は指でなぞった。


この日は二人で外を歩いたんですよ。夕方は少し風が強かった。私は覚えてるのに、アプリの記録には載ってなくて。

だから、こうして書くようにしているんです。消されないように


丸印は青いインクで、ところどころ薄くなっている。紙の上の時間は、端末の上の時間に比べて心配なほど弱い。だが、その弱さのぶんだけ、触れると温度があった。


夜にご主人は帰宅されますか


最近は、早い日が多いです。早く終わるらしいので。

でも、帰ってくるまでが長い気がします

どういう意味だろうと考えていると、未紗は笑って、すぐ真面目に戻った。


待つ側の時間は、編集できないんです


私は手帳にその一文を写した。印刷された言葉より、鉛筆の線の方が、後から見たときに強い。


――


局に戻ると、タイムスタンプ警察・第2監査課から新しい資料が届いていた。

表紙には「過剰編集傾向者 監視ダッシュボード」とあり、グラフの群れが並ぶ。東雲のバーは他の群れから少し離れ、右下に沈んでいた。効率は高いが、時間が短い。

備考欄には、内部AIの注記がある。


編集不能の一日を検出

対象者 集団

時刻 未定

理由 曲線の平滑化が限界に達したため

補記 編集は差異に対してのみ成立する


差異が尽きたとき、制度は何を切るのだろう。

私はページをめくった。そこには、東雲の勤務端末からの会話ログが抜粋されていた。


[会話ログ 抜粋]

上司 今日の君はよい編集だ

東雲 ありがとうございます

上司 今月の平均は

東雲 15:20です

上司 すばらしい

東雲 妻が喜びます

上司 喜びは就業外に

東雲 はい


短い文の並びは、確かに効率的だ。だが、何かが削られている。

私は自分の会話の癖を思い出す。無駄な相槌。余計な比喩。編集の刃が入ったら、どれくらい残るのだろう。


――


調査の過程で、東雲の高校時代の友人に連絡が取れた。映像会議は十分快。

友人は画面の向こうで苦笑した。


あいつは、むかしから真面目だけど、話が途切れると急に黙るんですよ。最近は、もっと短くなった気がする

この前飲んだとき、会話がコマ落ちしてるみたいでさ。

こちらが話題を振ると、彼の返答は要点だけ。間がない。

間は、記録の外に落ちていく。


――


ある夜、東雲からメッセージが来た。

明日、少しだけお時間を

私は承諾した。

指定された喫茶店は古いビルの二階。窓の外は夕暮れで、広告ドローンの音が遠い。

彼はコーヒーを前に、しばらく沈黙した。

編集が走る気がして緊張したが、ここは私的空間である。沈黙は課税対象だが、抹消対象ではない。

東雲は口を開いた。


昨夜、夢を見ました。

夢の中で、妻が笑っていました。

いつの笑顔か、思い出せなかった

でも、あれはきっと、婚姻届を出した日の笑顔でした


夢が記録されないのは、制度の怠慢ではない。機構はまだ、夢の分類に自信がないだけだ。

彼は続けた。


婚姻届の時刻が無い件、すみません

私の端末のログが…その日、昼と夜の境目が薄くなっていて

時刻が書けなかったのは、多分、僕のせいです


謝る相手はここにはいない。彼はそれでも謝る。その姿勢は仕事の癖かもしれない。

私は問う。


十四時間の今日を、どう感じていますか


終わりが早く来るので、安心します

でも、家で妻に今日の話をしようとすると、言葉が足りない

足りない部分を笑顔で埋めようとするのですが、

あれは、加点の笑顔であって、あの人に向けた笑顔かどうか、分からない瞬間があります


彼の視線がコーヒーの表面で止まる。波紋が消えている。

私はノートを閉じた。記録しないことが、記録になることがある。


――


翌週、監査課の内部資料に新しいページが増えた。

タイトルは「家庭内会話 重複検知」。

要約は簡潔だ。


同一内容の会話が家庭内で複数回発生する事例が増加

原因 仕事の要点化の持ち込み

対策 家庭内雑談テンプレートを配布し、多様性指数の下限を設定


家庭にテンプレートが配られる時代は、もう来ていた。

サンプルの会話は、過不足のない形に整えられていた。

今日どうだった 仕事は順調だった よかった 食事はどうする

私は紙を伏せた。これを読んだ人間は、ここから外れるために努力しなければならない。


――


取材の最中、未紗からメッセージが届いた。

婚姻届のこと、役所に確認できました。

窓口には届書の原本が保存されており、そこに押された印影は確かに存在している。だが、時刻欄だけ白いままだと職員は言ったらしい。

その代わりに、窓口端末の内部に、奇妙なログが残っていた。


12:59:60 提出処理開始

13:00:00 提出処理終了


存在しない一秒が、ここにもいる。

私は第2話の少女のログを思い出した。三時間の亡霊は、個人ではなく、制度の裾野で息をしているのだ。


未紗は続けた。

時刻は無いけれど、私は覚えていますから。

覚えている人がいる限り、欠けた刻印は日付の上を歩いていく。


――


東雲が倒れたのは、その週の金曜だった。

職場の通路で短い眩暈に襲われ、その場に座り込んだと連絡が来た。救急搬送は不要。医務室で安静。

端末は直ちに監査課へ通知したらしい。

私が医務室の扉をノックしたとき、彼は目を開けていた。

顔色は悪くない。むしろ整っている。

彼は笑って言った。


今朝は十三時間でした


十四ではなかったのかと問うと、彼は肩をすくめた。


がんばりましたので


そのとき、医務室の端末が短く警告音を鳴らした。

画面にはこう表示されている。


編集不能の一日 予定

対象 全体

時刻 明日

理由 達成率100パーセント試算


達成率が満点になったとき、制度は何をするのだろう。

私は監査課へ問い合わせた。返答は早かった。


明日は編集業務を縮小します。国民は規定上、24時間を過ごすことになります


編集不能の日が、近づいていた。


――


その夜、未紗から電話が来た。

彼が帰ってこない、と言う。

今日は早く終わる。だからケーキを買って帰る、と昼のメッセージにあったのだ。

私は居場所の特定を庁に依頼した。返ってきたログは簡素だった。


帰宅中 表示

位置情報 欠落

理由 編集準備のため


編集準備のため、居場所がない。

私はマンションの最寄り駅まで足を運び、終電のホームに立った。

広告ドローンはとうに飛び去り、電光掲示板の時刻は明滅している。

やがて、東雲が改札を出た。手には小さな紙袋。

ケーキですか、と声をかけると、彼は頷き、表情を崩し、すぐ戻した。


妻が喜ぶといけないので、笑いは玄関まで取っておきます


二人で歩く道すがら、彼はぽつりと言った。


明日は、長くなるらしいです

長い今日が、はじめて来るかもしれない


――


編集不能の日。

朝、国民ポータルには短い通達が掲示された。


本日は記録日です

編集は行いません


それだけだった。

通勤路の空気は少し湿っていて、人々の歩調はゆっくりしているように見えた。

会社のエレベーターは満員だが、誰もスマホを見ない。見ても無駄だと知っているからだ。

局に着くと、編集部の時計がすべて合っていた。壁掛けの針も、端末の数字も、窓の外の光も同じ方向を指している。

私は不安よりも安堵を覚えた。

差異が戻ってくる日があることを、人間は忘れていたのだ。


東雲に会いに行くと、彼はデスクにいた。

画面には会議の資料。手元には紙のメモ。

適度に雑談をして、少し誰かの愚痴があり、笑いがあり、ため息が一つ。

私は彼のデスクの端に置かれた小さな箱に気づいた。

昨夜のケーキの箱だ。空だが、香りが残っていた。


昨日は帰宅が遅れてしまって、妻は先に寝ていました

朝、箱を見て笑ってくれました

今日は、話すことがたくさんあります


彼の目は疲れていなかった。

私は頷いた。記録しないでおこうと思った。

この日の会話は、編集されない。ならば、記録しなくても消えない。


――


夕方、タイムスタンプ警察のダッシュボードに、ひとつのメッセージが浮かんだ。


本日の編集結果 編集不要 これは記録です


各家庭に届いた編集結果票も、同じ文面だった。

有効時間 24:00

コメント 編集不要。これは記録です


未紗からメッセージが届いた。

今日は長かった。料理が間に合わないくらい

でも、ちゃんとお腹がすくのを待てました


待つという行為は、数値化が難しい。だからこそ、今日に似合う。


――


夜、東雲の家に寄った。

玄関の前で立ち止まると、内側から話し声が聞こえた。

今日のこと。ケーキのこと。婚姻届の時刻がないこと。

笑って、少し黙って、また笑う声。

私はノックをしなかった。

ドアの向こうにあるものが、今日は編集されないと分かっている。それで十分だった。


帰り道、風が吹いた。

風の時間は長く、短く、ちょうどよかった。

広告ドローンは飛んでこない。代わりに、遠くで子どもの笑い声がした。

三時間の亡霊がどこかで誰かの背中を押しているのかもしれない。


――


翌朝、制度は元に戻った。

国民ポータルはふたたび「よい編集を」と言い、達成率の数字が壁に這い上がっていく。

東雲の端末にも、いつもの通知が来た。


本日の有効時間 21:05

よい編集でした


私はふと、彼に尋ねた。


今日が短くても、昨日が長かったことは、どこに残りますか


彼は考えてから、答えた。


妻の丸印に


それから、少し照れたように付け加えた。


たぶん、僕の呼吸にも


記録の外には、まだ人がいる。

人がいる限り、制度は時々つまずく。

つまずいた跡にだけ、足跡が残る。


――


終端ログ 第3話


・対象者 東雲大樹

・平均有効時間 月間 15:20

・婚姻届 時刻欄 空白 / 提出ログに 12:59:60 を検出

・家庭内会話 多様性指数 改善

・監査AI 通知 編集不能の一日 実施済

・編集結果票 編集不要 これは記録です を確認

・備考 待つ時間は編集できない


次回予告 第4話「編集不能の日」

国家のダッシュボードに未編集の24:00が点灯する日、誰もが自分の一日を持ち帰る。

取材班は24時間を撮り切り、AIは言う。編集不要。これは記録です。

翌朝、平均睡眠はわずかに延びた。誰も昨日を短くできないという、無駄の権利が法文化される。

最後に見つかるのは、編集官の家のゴミ箱の底に隠された、はじめての未編集ログ。



第4話「編集不能の日」


朝、通達が届いた。

件名は「記録日のお知らせ」。

本文はわずか二行だった。


本日は編集を行いません。

この日を記録日とします。


ニュースサイトも、庁の掲示も、それ以外の更新を止めていた。

国中の端末が同じ文面を映している。

編集の音が消えた世界。

私は、静けさに耳をすます。


――


報道局では、誰もが落ち着かない顔をしていた。

編集日がないのは、制度開始以来はじめてのことだ。

「これ、放送はどうするんです?」と若いディレクターが聞く。

「いつもなら、有効時間で構成を組むのに。」


私は答えた。

「全部、録ればいい。今日は削られない。」


「そんなに撮って、どうします?」


「残すことが、仕事だろ。」


誰かが笑い、すぐに真顔に戻った。

笑顔が加点されない日。

人々は、どんな表情をすればいいのか分からなくなっていた。


――


昼。

街はいつもより遅い。

信号の切り替えが少し長い。

歩行者は立ち止まり、空を見上げている。

広告ドローンは飛ばず、風の流れがそのまま聞こえる。


喫茶店のマスターが言った。

「こんなに静かな昼は、久しぶりだ。

 昔は、これが普通だったんだよ。」


隣のテーブルで、カップルが話していた。

「今日、笑ってもいいのかな。」

「いいんじゃない。消えないらしいし。」


笑い声が外に漏れた。

それだけで、街の空気が少し緩んだ気がした。


――


午後三時、庁のダッシュボードに変化があった。

各国民のグラフが、すべて満たされた状態で止まっている。

中央の表示には「編集不能」とだけ。

曲線は動かず、数字は凍っている。


タイムスタンプ警察の庁舎に入ると、静寂が支配していた。

編集官たちは端末の前で手を組み、何も押さない。

ひとりが私に気づいて立ち上がる。

佐壱だった。


「今日は、何も触れません。

 押しても、反応しない。」


端末の画面には、白い文字が浮かんでいた。


これは記録です。編集できません。


私は尋ねた。

「記録することと、残すことは違いますか?」


佐壱は少し考えてから、首を振った。

「今日だけは、同じです。」


――


夜に近づくにつれて、空の色が長く変わっていった。

夕焼けの時間が、まるで引き延ばされている。

太陽が沈む直前で止まる。

鳥の影が、空の端に掛かったまま動かない。


局から貸し出された撮影機材は、ずっと録り続けている。

バッテリーが持つ限り、ただ回しておけと編集長が言った。

「この映像が、“編集不能”の証拠になる。」


モニターの中の街は、静かで、やさしい。

人々が立ち止まり、誰かを待ち、誰かを見送っている。

その全てが、消されない。


――


夜八時。

東雲の自宅を訪ねた。

玄関には灯りがともり、窓の奥で二人の影が並んでいた。

扉の前に立つと、彼の声が聞こえる。


「今日は、話ができました。

 言葉が足りても、余っても、削られない。」


未紗の笑い声が続く。

「丸印、たくさん付けられる日だね。」


私は何も言わず、録音ボタンを押した。

風が木々を鳴らし、虫の声が混じる。

機械的な音が一つもない夜。


やがて、彼の声が続いた。


「明日、また短くなるそうです。

 でも、今日のことは消えません。」


――


深夜零時。

国家ダッシュボードに新しい表示が現れた。


平均睡眠時間 プラス二時間

国民感情指数 安定

総達成率 表示不能

コメント 編集不要。これは記録です。


庁舎の外では、佐壱がひとり、夜風に立っていた。

「あなたの今日、どうでしたか。」と尋ねる。

「わかりません。」

「また忘れるんですか。」

「そうしないと、仕事が戻れませんから。」


ポケットの中から、彼は小さな紙片を取り出した。

「これを、渡します。」


折り目のついた紙には、薄いインクで印字されている。


本日の有効時間 24:00

抹消内訳 該当なし

コメント 編集不要。これは記録です。


「あなたの?」

「はい。でも、正式な記録にはできません。廃棄予定です。」

「なぜ捨てるんです。」

「残すと、制度が壊れるから。」


「壊れてもいいんじゃないですか。」

彼は笑った。

「それを言えるのは、記者の仕事です。」


紙を渡されると、風が吹いて、端が少しめくれた。

そこには鉛筆の跡があった。

「覚えておく」と走り書きされていた。


私はその言葉を声に出さず、胸の内で読んだ。

覚えておくこと。

それが、編集に抵抗する唯一の行為だ。


――


翌朝、通達が更新された。


日次編集法 第18条追加

国民は一日につき最小1時間の自由記録を有する。

本時間は編集対象外とし、抹消・加点・課税を行わない。


人々はそれを「無駄の権利」と呼んだ。

笑い、沈黙し、立ち止まり、ただ呼吸するための一時間。

短いが、誰のものでもない時間。


駅前で、誰かが大きく息を吸い込み、吐いた。

それを見て、隣の人も真似をする。

街がゆっくりと、ひとつの呼吸をした。

空はまだ青く、広告も戻ってこない。


風が通り過ぎた。

風にはスタンプが押されない。

そのまま、時間の中を流れていく。


――


報道局に戻ると、机の上に封筒が置かれていた。

差出人は記録不明。

中には、一枚の白い紙。


編集結果票(廃止版)

あなたの一日 編集不要

これは記録です


その下に、誰かの手で小さく書かれていた。


よい一日を。


私は紙を畳んで、手帳に挟んだ。

電源のない記録が、いちばん強い。


――完――



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