第四話 「涙の理由」
「……なんだ、准君か」
階段を降りきって、ロビーで出会ったのは、恋バナには一番向いてない男だった。
一瞬で覚めるロマンス脳。いや、覚めるっていうか……無理。
恋愛小説みたいなキラキラした言葉を真顔で言っちゃうタイプなんだよ、彼は。
それが恥ずかしいとか、思いもしないの。むしろそれが正しいと本気で信じてる。
だからこの人と恋の話なんかしたらさ、
「お前の心に届く言葉を、俺はずっと探してたんだ」
とか、サラッと漫画の主人公みたいなことを言い出しそうでさ。
こっちの皮肉たっぷりのツッコミが、一瞬で“負け組のひがみ”に変換されて、泣いちゃう気がして怖いのよ。
こっちは深夜ラジオのノリなのに、あっちはNHKスペシャルなの。分かってくれよ。
准君は俺に気づくと、無言でロビーの掲示板を指さす。
その手には一枚の紙が挟まれていた。
「……なにそれ」
俺が聞くと、彼はちょっとだけ驚いた顔をして、それから笑った。
「今日の朝に配られたプリント。スズメ、お前……遅刻してたろ」
はいその通りです。グゥの音も出ません。
「遅刻した生徒には情報を与えない。それが観月学苑のルールです。そんな大罪人の私にお情けを与えてくださるんですね……うぅ…」
冗談みたいな話だけど、実際そうなってるんだから笑えない。
でも、まぁ、遅刻した僕が悪いんです。すみません。
だけど、もしそれが大事な情報なら、せめて一声かけてほしいな、先生。
……先生? どこにいるんだ先生。
まぁ、どうでもいいことなら3秒で忘れるので、大丈夫です。
「で、なんのプリント?」
紙を取って、光に透かしてみた。中身は──
「屋上……開放……!?」
俺の声が、完全に裏返った。
ちょっとヤバい声出た。いまの完全に女子。
「え、え、え、あの屋上!? 青春ドラマ御用達の!? 俺たちが手すら触れられなかった伝説のエモエモ空間が!? 解放ぉぉぉお!?」
「……お前、そんなに嬉しいのか?」
准君が若干引き気味に言う。
「当たり前だろ!? 屋上はな、存在してるだけで尊いんだよ。尊さ指数で言えば、保健室と図書室の次くらいには入るぞ!? もしくは逆転ある。マジである」
「なるほど……分かったような、分からんような……」
プリントを受け取って、俺はそれを神棚に飾るような気持ちで掲示板に戻した。
「あ、そういえばお前……」
准君が何か言いかけたその時だった。
カツン、と小さな足音が響く。
振り返ると、そこには──
「……あ、やっぱり、准君と、スズメ君……?」
どこか少しだけ頼りなさそうな声が、ゆっくりとロビーに降りてきた。
制服のスカートをふわりと揺らして、軽く頭を下げる。
「なんか、楽しそうな声が聞こえたから」
ふふっと笑って階段を降りてくる少女。その姿はまるで──
絹でできたような細い手足。羽毛みたいに軽い足取り。
ちょっと危なっかしくて、目が離せない。
この寮に咲いた、唯一無二の“少女”という花。
どこからどう見ても、この学苑で一番のヒロイン枠──
ズシャアアッ!!!!
「きゃっ──!!」
美鈴が、盛大にすっ転んだ。
……あっちゃ〜、言ったそばからこれだよ。
しかもわりと本気の転び方。
足を滑らせて、そのままスライディング土下座みたいな姿勢で、階段の途中に崩れ落ちてる。
「だ、大丈夫か!? 美鈴!」
准君がすぐに駆け寄る。
「うぅ……だ、大丈夫……ちょっとだけ、段差に好かれただけで……」
いやいや、それ好かれすぎだろ。段差がもう抱きしめにきてたもん。
ほんとこの人、なんで毎回こうなるのか。
「えへへ……」
でも──それでも、めげずに笑うんだよな。
その笑顔には強がりと優しさが入り混じっていて、なぜか胸がきゅっと締めつけられる。
……声をかけてあげなきゃ。と、思うんだけど、喉が詰まったみたいに声が出ない。
何かが変だ。身体が、反応してる。
俺が言葉を探していると、准君が一歩前に出た。
「……美鈴」
その声は、やけに優しくて、どこか脆い。
──そして彼の頬を、一筋の涙が伝った。
「えっ……な、なんで准君が泣いてるの……?」
美鈴が戸惑いながら立ち止まる。手すりに掴まって、足元を確かめながら。
「……あれ? なんで……俺……?」
准君が、自分の涙に気づいて、そっと目を押さえる。
「なにか、あったの……?」
小さな声で、美鈴が問う。
准は自分の頬に触れて、指先を見てから、少し困ったように笑った。
「……なんでだろ。おかしいな、俺」
——いや、おかしいのはお前らの関係性だよ。
こっちは小説読んで疑似恋愛で満たされてたってのに、現実ではもう既に物語が始まってたってこと?
なにがロマンスの定義だよ。ちくしょう。
……あれ? なんか鼻水出てきた。
恋愛ドラマの主役にはなれない自分への情けなさか、はたまた、どこか奥のほうがじんわり温まったせいか。
袖口でその液体を拭おうか、拭うまいか、半端に伸びた手を宙ぶらりんにしていると——
美鈴と、ふと目が合った。
ヤバ。
この状態を可憐な少女に見られるなんて、なんというか……人生の赤点だ。
咄嗟に視線を逸らそうとして──できなかった。
美鈴の瞳の奥に、言葉にできない“何か”が、確かに揺れていたからだ。
あれは、きっと——
何かを“知っている”目だった。