19話『邂逅』
ベチャリ……べチャリ……と血溜まりを歩き、四肢を拘束された少年の前に、黒山羊が立つ。この姿のどこを以て神と名乗るのか?悪魔と言うべきその姿に、少年は気圧されるも、その子供らしくない荒々しい真紅の瞳の中にしっかりと黒山羊をとらえる。
「……みんなに……てをだすなっ!」
「ホゥ……?」
ガシャッンッ!
思わず前のめりになる体が、その身を不自由にする鎖を引き伸ばした。
「おまえみたいな……!かみさまなんてぇ……!いらないっ!!!みんなをっ!ココネをっ!くるしませるやつなんてぇ!いらないっ!!!!!」
「なぁ……!?紅鈴っ!!!貴様っ!空虚の神様に何と言う口をっ!!!!!」
「黙ッテイロ……!」
黒い腕が人ではまず不可能な挙動で、背後に立つ先生……いや、研究者の首を撫でる。研究者の体が強張り、呼吸を忘れる。そのまま、尻餅をつき、目の前の2人を眺めるしかできなかった。
「小僧ゥゥゥ……!儂ガ要ラナイ……ト言ウカ……?フフ……!フヒ……!クフフフフフフフッッッ!!!ソウカ!ソウカァァア……!良イゾ……?オ前ノ言ウ……皆トヤラニ、コレ以上関ワラナクテモ……良イゾォォオ?」
「……!?」
思いもしない返答だった。
あっさりと返ってきた承諾に狼狽える少年。そのぽかんと開いた口を黒山羊がその手で掴む。白い爪が顔を引っ掻き、薄っすら肉を裂く。切れ味が良すぎるためか?紅鈴は痛みこそ感じていないが、温かなものが顔を垂れる感触が肌にこびりついた。
「但シ……。オ前ガ代ワリニ成レ……!」
「かわりになったら……みんなにはなにもしないのか……?」
「アァ……。ソウダト言ッテイルゥウ!……ドウスルノダ?命惜シサニ、仲間ヲイケニエ送リ……カ?ソレトモ……「なってやるよ!イケニエっ!おれが!おまえの……イケニエにっ!なってやるっっっ!!!!!」クフ……!フヒヒヒヒヒィ……!アァ……英断ダァアァ……!」
その言葉を皮切りに、紅鈴の口の中に黒い不定形のモノが捩じ込まれた。黒山羊の体だ。腕を崩し、ダラダラと自身のその体を紅鈴へと流し込む。
息苦しさに目を見開いて、抗おうと体を動かすも鎖に繋がれた四肢はまるで意味をなさない。その辛さから涙が、溢れる。地面にポツリと垂れる雫は鮮血を揺らしてただ終わる。
なんの意味もない。
何が変わるわけもない。
神に人が抗えぬ様に。
月へ伸ばした手がその輝きを掴めない様に。
一度、体から切り飛ばされた首が二度と素に戻る事が無い様に。
ただただ口から黒い不定形が入り込んでくる。
「……あがぁ……う……あ……ぁ……!」
体の内側から嘔吐物が迫り上がる。喉に圧迫感と酸っぱさが溜まる。吐き出したいその不快なモノは入り込んでくる黒い不定形に腹の中へと戻される。
「……!……!!!」
声が出る……と言っても音にはならない。ひゅぅ……というただ風が狭い隙間を通る空気の振動が鳴っただけだ。
紅い髪の少年はそこで意識を、深く黒へと落とすのだった。
◇ ◆ ◇
紅鈴が目を覚ますと、いつもの寝室だった。横を見れば、孤児院の家族がすぅすぅと寝ている。時刻は現在6時ちょっと。朝陽が静かに温かくカーテンの隙間から入り込み、崩壊した世界に眠る若き目を神々しい光で包みこんだ。
紅鈴は自分の体に触れる。傷はない。体はいつも通り、いやそれ以上に動く。エネルギー、活力、体力、元気……いや霊気というのが正しいのだろうか?内側からナニカに満たされた肉体は痛い所なんて1つもなかった。ただ1つ、先生を殴ったその拳以外は……。
自身の小さな拳をゆっくりと伸ばす。朝陽がじんわり照らしている部屋はまだ明るいとは言えない状況で、カーテンとカーテンの間へと寝てる家族を起こさないように息を殺して辿り着く。
そこから差し込む僅かな光。紅鈴がソレへと手を伸ばす。まだ地平線の奥に眠るソレ。壊れた街を優しく抱きしめる光の元であるソレ。太陽へと手を伸ばす。その美しさに目を奪われた少年はハッ!と目的を思い出して、じっとりと自身の手を睨む。
怪我は当然ここにも無い。さっきも確認したとおりである。だがしかし、手が重い。特に右手が重い。
「せんせぇ……をなぐった……から……?」
起きていたとしても誰にも聞こえないであろう闇に溶けた静音は、不意にポツリと紅鈴の喉から溢れた。
それが引き金だった。
おぼろげだった記憶の扉が開かれる。是が非でも。何が何でも開かれていく。嫌だ。見たくない。考えたくない。思い出したくない。認知したくない。しりたくない。くるしい。いやだ。やめろ。
……やめろ!!!
胃液を出そうとするその小さな口を違和感の残る両手で抑え、紅鈴は一歩一歩外へ出ていった。焦る心は有る。だが体が動かない。心もそうだ。ぐるぐる、ぐちゃぐちゃと記憶と感情と情報がごった煮となって脳に、心臓に、喉に、何よりその小さな口を覆う手にのしかかった。だから──うまく体を動かせなかった。
──薄目を開けて紅鈴を見ていた少女がいる事などに気付くわけもなかった。
◇ ◆ ◇
自分の中にかみさまが入り込んだ事を自覚して半年が経とうとしていた。生活はそんなに変わらなかった。だが、確かに変わったこともいくつかある。だが、そのほとんどは紅鈴にはどうでもよかった。
あの日殴った先生は生きていた。今も平然と、当然の様に先生として家族を支えている。ただ……あの日から白衣の上から厚い黒のマフラーを着るようになった。半年経ったこの真夏でもそれは変わらない。
そして、誰もがどこか紅鈴に素っ気なくなった。理由を聞いても「そんなことないよ」と白々しい返答が返ってくるだけで、初めこそ、怒りが心に生まれたが、今ではどうでも良くなってしまった。その対応も。先生も。家族も。
ここまではどうでも良かった。
いや、どうでも良くなってしまった。
しかし唯一、紅鈴の中でも大きな変化があったものがある。それが子々子だった。あんなにも元気だった少女は良く体と心を壊すようになった。日に日に元気を失って、今ではすっかり喋る事をしなくなっていた。話したとしても精々……ひと、ふた事。まるで人形とさえ感じられた。
だからだろうか。紅鈴はかくれんぼやおにごっこというものをしなくなった。その代わりに毎日こうして、孤児院から抜け出して、壊れたそこらのビルの5階。そこから割れた窓ガラスから身を乗り出して、ただ何も無い、何も起きないこの街を見下ろすという空虚な日課を持っていた。1日中。朝から晩までだ。先生や家族は当然このことには気付いているのだろうが、何も誰も追わなかった。
だからこうして今日も紅鈴は楽しくなくなった毎日を浪費する……はずだった。
「なにしてるんですか……?……あぶないですよ?」
聞こえるのなんて精々、髪が風に揺れる音ぐらいで、そんな静かで、虚しい半年を過ごしてきて、この人生に意味はなくて……そんな、そんな、空虚な毎日に救いの手が入り込む。
バッ!
紅鈴が振り返る。そこにいたのは、自分と同じ子供だった。黒い髪に黒い瞳、手には廃材で作られた十手を持った少年が、こちらへと手を伸ばしていた。
「そんなところにいたらおちちゃいますよ?ほら、てをつかんで!」
「えっ……?あ……え?」
「ほら……はやく!」
「う……うん!」
バシンッ!
それが絡繰良 紅鈴と十 命の邂逅だった。




