死んでも忘れない
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ねぇ、幸子さん。
ぼくと出会ったときのこと、覚えてる?
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美瑛には「青い池」なる観光地がある。正確には「白金青い池」というのだけれど、以前は誰も「白金」なんて付けていなかったとどこかで聞いた。文字通り、水面は明るさが際立つ鮮やかなブルーで、そのさまに触れるのを目当てに多くの人が訪れる。大きな駐車場もあって、観光バスまでもが立ち寄る人気のスポットなのだ。
ぼくと幸子さんは、その青い池のほとりで、出会った。
ぼくは買ったばかりの一眼レフで、熱心に池の様子を撮影していた。単純に、あるいは素直に綺麗だなあと感じていた。池だって気持ちの良いポーズをしてくれていたように思う――というのはヘンテコな表現だけれど、とにかくたくさん撮った。撮っていた。そんな折、後ろから声がした。「噂になるほど綺麗じゃないし、実際、しょうもないもんだと思うけど」――。罵るような、馬鹿にするような色を持つ言葉だった。当然、ぼくはムッとなった。文句は言わないまでも、不服を唱えるような顔くらいは向けてやろうと考えた。ぼくは美しいと思うんだぞ、そう感じる人のほうが絶対に多いんだぞ、あなたの感性、ひいては価値観がズレているんだぞ――そんなふうに物申してやりたかった。
ほんとうに、ぼくは不満げな表情を浮かべていたかもしれない。だけど、振り返った先にいた人物――さっぱりとした短いヘアスタイルが涼しげな、まだ若いであろう女性は、笑顔をみせた。目尻を下げ、口角を上げ、愛らしい笑みを浮かべていた。少々の丸顔であるものだから、余計に可愛らしくみえた。
「あーら、ご不満かしら? わたしは感想を述べただけなんですけれど?」
いちゃもんをつけるつもりは、ほんとうになかった。ただ、やっぱり興を削がれたような気分にはなって、速やかに立ち去ることにした。そこを女性に――幸子さんに止められたのだ。左手を両手で掴まれたのだ。細い指で構成された、冷たい手だった。幸子さんのほうは「あったかい手だね」と感じたらしい。以前の恋人と別れたのはもう五年も前のことで、それ以来の異性の体温、感触だった。だからどきりと心臓が跳ねたことは言うまでもない。
幸子さんは「これからオムライスを食べに行くんだ」と言った――やはり笑顔。「おにいさんも一緒にどう?」と誘われた。「三十路を迎えた自分は、はたしておにいさんなのだろうか」との疑問は湧いたけれど、そんなことより知らない女性に声をかけられたという事実に驚いたわけで……。
「富良野だから、遠くないよ。ついておいでよ。奢ってあげるからさ」口調までもがボーイッシュだった。「それとも富良野バーガーがいい?」
ぼくは「じゃあ、オムライス……」と呟くように答え、口を尖らせた。正直言って、勢いに飲まれ、気圧されていた。そもそも冴えないとしか評価のしようがないぼくに、この活発そうな若い女性はどうして接触しようと考えたのか……。「?」ばかりを頭上に浮かべるぼくに――物が喉の奥でつかえてしょうがないぼくに対して、幸子さんは言ったのだ。
「おにいさん、寂しそうだから」
見抜かれたことに、驚くしかなかった。
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有名店であるらしいとは後から知った。古めかしさにあふれた、灰色の木造、四角い建物はぼろで今にも朽ちてしまいそうだと言っては失礼か――は、富良野駅からすぐのところにあった。人気店だから始終混むらしいのだけれど、運良く待ち時間なしで席に着くことができた。
「オムライスって言ったけど、名物はオムカレーなんだ」とのことだった。「ソーセージがべらぼうにおいしいんだ」とも教えられた。「べらぼうに」――若い女性が使う言葉じゃないなと感じたことを覚えている。
奢りだということについて気が引け、だからソーセージは頼まなかった。フツウのオムカレーを選んだ。「へぇ、奥ゆかしいじゃん」と軽い調子で笑われた。なぜか照れ臭く感じられたものだ。
オーダーし、料理が運ばれてくるあいだに、おたがい、名乗った。そのとき、ぼくははじめて目の前の女性が「幸子さん」だと知ったわけだ。幸子さんは自分の名前に不満を抱いているらしく、それはどうしてかと訊ねたところ、「だって響きが昭和だもん。古臭いでしょ?」と返してきた。ぼくは「全国の幸子さんさんに失礼だよ」と私見を述べた。すると幸子さんは目を丸くして、「あなたは変なことを言うんだね」ところころ笑った。変なのは幸子さんのほうだと思った。ぼくはフツウであることには自覚的だった。いつでも自覚的だ。
幸子さんの食べっぷりは気持ちのいいものだった。オムライス――の部分を半分ほど食べたところで、幸子さんは席を立った。厨房と客席の境にあるカウンターの前で、いきなり歌うように「ルールルルー」と放った。なんだろうと思ってみていると、なんとまあ、厨房の人間の手によりカレーが補充されるではないか。にこにこ顔で戻ってきた幸子さんは、「いいシステムでしょ?」と言い、スプーンでカレーをすくう、フォークで刺したソーセージにかぶりつく。このときにはもう、ぼくはこの快活な女性のことが好きになっていたのだと思う。そうでなければ、「LINEをしたい」なんて言い出さないだろう。スプーンをくわえたままきょとんとなった幸子さんは、「いいよ」と快諾し、また笑みをこしらえた。ほんとうにかわいらしい女性だって感じたんだ。
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ぼくはネットワークに関する業務を主と東京の企業に勤めている。ずっと営業職だ。新卒で入社した頃のぼくには志があった。高いとまでは言わないけれど、立派な社会人になってやろうという、言ってみればささやかな野心くらいはあったのだ。官庁を顧客とする霞が関のオフィスに配属されたときは死にかけた。ブラックどころの騒ぎじゃない。月に百時間の残業なんてあたりまえで、二百を超えたこともあった。めげかけた。挫けかけた。一流とされる会社だからがんばった。だけど、異動願いは出した。五年が過ぎた折のことだった。次の顧客は学校だった。そういえば、某大学の案件でエンジニアがとちって土下座させられたこともあったっけ。以来、その大学を箱根駅伝で応援しなくなった。心の狭いところがあるぼくなのだ。
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幸子さんと連絡を取っている。彼女は彼女で、札幌でネットワークのエンジニアをやっているらしく、そういうこともあって仕事の愚痴については話が合うと言えたし、理解しあうこともできた。
今夜も缶ビールを手に電話をしている。幸子さんは山芋の焼酎が好きらしく、それをおともに話をする。いつも彼女は朗らかで、声を聞くだけで元気をもらうことができる。大切な存在だ。遠く離れていても、すぐそばにいるような気がしている。それくらい心の距離が近いのではないのか――とは言わない。一歩踏み出すようなことを口にしたら最後、つながりが途絶えてしまうかもしれないから。そういうのは、前の恋人で懲りている。ただ、一生、添い遂げられないとわかったことは幸運だったとは思っている。遅かれ早かれ終わっていた関係だったのだ。だったら終焉を迎えるのは早いほうがいいに決まっているし、そのとおりなのだとぼくは強く信じている。
電話口の幸子さんが不意に静かになった。ときどき、彼女は通話の途中で眠ってしまう。最初は「失礼な奴だなぁ」と言いたくなったものだけれど、疲れているのだろうということはよく知っている。自らの職を「IT土方」と表現するくらいだから、肉体的にへとへとだろう。でも、今夜は寝入ってしまったわけではなく、だから続きがあるらしく、『茂くん、あのさぁ』と切り出してきたのだった。
『わたしさ、今度、お見合いするんだぁ』
不意打ちに驚き、ぼくは「えっ」と声を発した。幸子さんは照れたように『えへへ』と言い、だけどすぐに『はぁぁ……』と深く吐息をついた。嘆くように『ぎゃふんだよぅ、マジで』などととも言った。
「どういうこと?」
『だ・か・ら、お見合いなんだってば』
ぼくは気持ちを落ち着かせようと胸に右手を当てた。それからビールを一口――びっくりしたのは間違いなかった。
「相手は?」
『地元の農家の長男坊』
地元――美瑛だ。
「するの? 結婚」
『しちゃうことになると思う。お父さん、うるさいし』
「そう……」沈んだ声を出しているのが、自分でもわかった。「なんていうかその……おめでとう」
『結婚式、来てくれるよね?』
「……行かない」なお一層、暗い口調になった。
幸子さんの次の句が紡がれない。
きょとんとなっているのか、それとも――。
『ねぇ、茂くん。きみはわたしのことが嫌い?』
なぜだろう。「嫌い」を肯定する言い訳ばかりを考えてしまう。ほんとうに、なぜだろう。よくわからないから、胸の内側が気持ち悪くなってしまう。恋について臆病になっていることくらいは理解できる。誰か他人を傷つけることが恐ろしいのではない。自分が傷つくことが怖いのだ。今のぼくには男女のあるべき姿がわからない。何が正しいのか、解き明かすことなんてできない。解き明かそうという意欲もない。
『そう……』納得したように、幸子さん。『だったらもう、友だちでもいられないよね。もう電話もよしたほうが、いいよね』
友だちでもいられない。電話もよしたほうがいい。……それは少なからず嫌だ。思考より先に、心がそんなふうに、ぼくへと訴えた。
今、ここで彼女と離れてしまったら、絶対に後悔する。
煮え切らないぼくだけど、それくらいはわかった。
「ちょっと待ってて」
ぼくはスマホを丸い座卓に置いて、冷蔵庫で冷やしてあった日本酒――ワンカップを二つ開けた、一気にだ。アルコールの力を借りなければならないのが情けないところだけどなりふり構っていられない。言おう。言ってやろう。今ある情熱のすべてをぶつけてやろう。
座卓の前に戻り、スマホを拾い上げた。立ったまま天井を見上げ、落ち着け落ち着けと自分に言い聞かせる。でも、「あのっ」という呼びかけの声は裏返ってしまった。じんわりと、じんわりと強くなる気持ち。失いたくない、失いたくない、失いたくない。駄々をこねるようにそう思うだけの、泣きそうな自分がいる。『茂くん、どした?』との問いかけは優しい。――いよいよ心を、覚悟を決めた。
「幸子さん、東京に出てこないかい?」
『えっ』
「東京に出てこないかい?」
『二回も言わなくたってわかるけど……本気?』
「本気だよ。一緒に暮らそう」
『いきなりだなぁ』今夜も幸子さんはほがらかに笑う。『わたしたち、一回りも違うんだよ?』
「きみがダメだって言うなら、諦める」
『諦めちゃうの?』
「嘘だよ。諦めない」
ははは、あはははは……。
そんなふうに力なく笑うと、幸子さんは鼻をぐしゅぐしゅ鳴らした。
『すぐに準備して向かうから、ダブルベッド、用意しててね』
「喜んで」
どこまで行けるか、それはわからない。
だけどぼくはもう一度、真剣に、腹を割って、恋をしてみようと決めたんだ。
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同棲を始めて半年と経たずに、ぼくたちは結婚した。同じ姓になったというのに、キスの後に、セックスの最中に、ぼくはたびたび、「幸せかい?」と訊ねる。するとそのたび、幸子さんは「悪くないよ」と笑うのだ。らしい言い方にぼくも笑う。ただ、ときどき、幸子さんはぼくの胸の中で泣いた。「ごめんね?」と謝った。子どもができない身体であることを詫びた。お母さんをする幸子さんをみたい気もしたけれど、それだけだ。
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四十手前の健康診断で引っかかった。ちょうど仕事が忙しい時期だったから、再検査が遅れた。それが致命的だったということはないだろう。でも事実として、ぼくは肺がんだと言い渡された。余命は長くて半年程度だと宣告された。いきなりすぎて目の前が黒になったり白になったりとちかちかした。だけど、不思議と納得がいった。存分に幸せを謳歌したぶん、不幸せに見舞われたのだろう。仕方がないのだと諦めもついた。大らかなんだ、ほんとうに、ぼくは。
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その日の夜、その旨を伝えると、幸子さんはわんわん泣いた。ダイニングテーブルに突っ伏し、「わたしのせいだ! わたしが茂さんから幸せを奪っちゃったんだ!!」と根拠のないことを叫び、泣いた。重ねて、そんなわけ、あるはずがない。ぼくは幸子さんから幸せをもらったのだから。
「たばこなんて吸ったこともないのに肺のがんだなんて。なる人はなるんだね」とぼくは簡単に言った。「どこか、行きたいところはある?」
「えっ」幸子さんは顔を上げた。
「有休はとれるだろうから」
「有休って、まだ仕事を続けるつもりなの?」
「うん。ギリギリまで」
「どうして?」
「サラリーマンの矜持かな?」
「……馬鹿」そう言って、幸子さんは泣きながら笑った。
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桜が終わった時期に、函館にいた。五稜郭タワーに上って、手をつないで五稜郭の中を歩いて、ラッキーピエロでチャイニーズチキンバーガーを食べて。日が暮れれば函館山からの夜景。メチャクチャ風が強くて、展望台は揺れた。もう五月もなかばだというのにとても寒かった。その後の居酒屋では笑い合った。ホテルのベッドでは抱き合った。幸子さんは鼻をぐすぐす鳴らして泣いた。最近、いつもこの調子だ。ぼくにはまだピンときていないのだけれど、彼女にはぼくの命の残量がみえているのかもしれない。付き合いも長くなった。だから、それくらいできても驚かない。
翌日は札幌まで移動し、その翌日には美瑛まで車を走らせた。幸子さんの両親に状況を伝えるためだ。幸子さんの家は健康な人ばかりだから、彼女のお父さんとお母さんはびっくりしていた。お父さんはやりきれなさそうに「そうか……」と表情を曇らせ、お母さんは涙をこぼした。「今まで、ありがとうございました」と伝えると、お父さんは「今すぐに死ぬわけじゃないだろう?」と怒った。辞去の際にも「必ず、また来なさい」と怖い顔で言われた。また来ることができたらいいなと、ぼくも思った。
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徐々に、だけどはっきりと、ぼくは衰えていった。最初の診断から三か月が経過した頃になると、会社に行くことはおろか、椅子に座っていることさえつらくなってしまった。家のベッドで横たわる時間ばかりになり、ある日、血を吐いたのをきっかけに、いよいよ病院に移った。目が落ち窪み、痩せに痩せ、手が骨と皮になるまで、そう時間はかからなかった。
それでも調子のいいときは、幸子さんに車椅子を押してもらって、中庭に出た。ぼくの息はひゅーひゅーと細く、その様子を目にすることが嫌で嫌でしょうがない幸子さん。
緑の葉、その合間にみえる空が美しい。
とても青が、澄んでいる。
幸子さんがぼくの隣で突然、しゃがみ込んだ。「神さま、お願い、わたしから茂さんを奪わないで……」と祈るように両手の指を絡ませ合った。
ぼくと幸子さんが出会えたことは奇跡で、だからもう奇跡はないと知っている。二度も三度も起きたら、それは奇跡とは呼べないのだ。
ねぇ神さま、そうだよね?
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ときが止まったような、静かな病床。まもなく、ぼくの命の炎は消える。この世界から、永遠に。最後に言葉を残す機会が与えられた。ずっと――ずっとなんて言おうか考えていた。幸子さんは律儀だから、再婚なんてしないだろう。泣き虫だから、二人での生活を思い出すたび、涙するだろう。だけど、しっかり者だから、前を向こうとするだろう。美瑛に戻るのかな? それとも東京での暮らしを良しとする? どちらでもいい。自由に生きてほしい。精一杯生きてほしい――と願う。だけど、それを声に出すのは違う気がする。
じつはもう、伝えたいことなんてないんじゃないか?
きっとそうだ。
そもそも、死に際の気持ちを言語化するなんて、無粋なことなのだろう。
「幸子さん」
「なあに?」
「愛しているよ」
「わたしの愛は? 届かなかった?」
「届きまくった」
「なにそれ。変な日本語」
「最後に、最期に――」
「チュウ、しちゃう?」
「うん。お願い」
目を閉じて、キスをした。
まぶたが重くて、まばたきはもう無理だ。
薄れゆく自我。
混濁する意識。
でも、幸子さんの柔らかな唇の感触だけは、ぼくは死んでも忘れない。