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そば

作者: ガナリ

死ぬと決まった日。恐怖も、喜びも、安堵もそこには無かった、目を閉じるとそこには男が立っていた。後ろを向いているその男は私が結婚をした男だ。思っていた以上に懐かしさを感じなかった。



50年以上も前、私はその男と出会うことになる。男は見合いには似つかわしくない風貌で現れた、呆気にとられた私は答えあぐねているうちに周りの人間に話を進められてしまった。後から聞いた話ではその男も断る気でいたらしい。


私は人を愛したことがなかった、人を愛するには私は忙しすぎたのだ、生きていかなければいけなかったのだ。女学校の友人は皆結婚して家庭に入り、子育てをすることしか考えていないようだった、だが私は家族が食べる為に考えることはたくさんあった、とにかく生きるために生きなければいけなかった。


その男と結婚し家庭に入った私は、毎日食卓で男と向き合い座る。私にとって初めてのその男は何を考えて生きているのか分からない。朝になると仕事へ行き帰ってくると蕎麦と酒を飲んで煙草をふかすとぷいと寝てしまう。話す言葉は私への指示だけだ、言葉少なに「酒」だの「蕎麦」だの言ってあとは黙々と前を向いている。

私は仕事をすると決めた。


仕事をしたいと男に言うと「好きにしろ」と言われた。そして私は結婚前と同じ小学校教員になった。


国家にとってに有益な人間を育成する。

私に与えられた使命だ、はっきり言って私に天下国家を語るほど国のことを想う気持ちはなかった、私は生きることで必死だったのだ。

戦時中、私は子供に軍事教育を施す傍らこっそりと一生懸命に生きなさい、と教えた。国の為に死ねと教えることにも私は正直興味がなかった。言われた通りには教えた、しかしそれは私の口から出ているだけの誰かの言葉だ、それよりも私は一日でも生きる為に生きなさいと教えたかったのだ。


結婚した年の冬、私達は新婚旅行に行った。

行き先は私の親が決めた伊勢だった。

私の親は娘夫婦が伊勢参りをすると近所に自慢したいらしい。

ただ私達は行き先などどこでも良かった、ただこの機会にこの男についてもっと知りたいと思った。


あの男の行動には、一貫して「かくあるべし」という啓示とも取れる思考しかなかった。

例えば現金の入った財布を拾ったら「もらってしまおう」とか「いや警察に届けなければ」と言う葛藤がない。まず「届けるべきだ、ではどこに届けるべきか」と思考する、では男には自我はないのか、と言えば自我はある。しかしその自我すらも「こうするべき」のある種フィルターを通して行われているように見える。

それは封建時代で言う「義」なのだが、聞こえはいいが時代遅れの思考停止させる為の自己暗示でしかない。


そして、更に驚いたことに、そのフィルターはどうやら私にもあるようで、この男と生活するまで気が付かなかったのだ。そしてそのフィルターは物事をぼかして見る為のものではなく、空っぽの本心を埋める為のものだったのだ。


私達は伊勢に着くなり、伊勢神宮に行く。2人とも今回の旅行の目的は土産話を世話になった親にして喜んでもらう為で、食事や景色なんてものは副産物だった。


参道を歩き男の顔を見る、男は黙って前を向いている、お参りする前に「お団子でも召し上がりますか」と聞くと「そうだな」と答える。互いに互いのこうするべきを実行する。歩き疲れてもいないし腹も減っていない。だが私はそう聞いた方がいいと思ったし、男はそう答えた方がいいと思ったのだろう。


団子が目の前に置かれ、男が手に取るのを見てから自分の分を取る、しばらく咀嚼していると男が「退屈じゃないか?」と聞く。

私は考えていなかった質問に驚き「退屈って何ですか?」と答えると、男は「退屈じゃないならいい」と言ってまた団子を口に入れる。


境内に入り、お参りをし3泊4日の予定の目的を達成した後、私達は宿に向かった。


宿では部屋に案内してくれた中居が「新婚さんですか?よござんすね」と下品な笑いでお茶を入れてくれる、2人とも何も答えずただ礼を言って小銭を握らせ帰ってもらう。


「飯の前に風呂に行くか」と男がぼそりと言い、私達は離れにある浴場へ行った。

2人はそれぞれの風呂に行くが、私は、男は上がるのが早いだろうから急がねばと、入浴もそこそこに風呂を出、離れの外で待つことにした。

男は中々出て来なかった、その内雪が降り始め、離れの縁側は濡れ始めた。私はしっかり髪を乾かさなかったことを後悔しながら男を待ち、暇つぶしに降る雪の数を黙々と数えていた。


男は20分あまりあとに出てきた、出てくるなり雪が白く染めた縁側に座る私に驚いたようだったが、すぐに自分の役割に戻り「ありがとな」と言った。「悪かった」でも「寒かっただろう」でもなく「ありがとな」と言ったのだ。私はまた驚き、思わず笑ってしまう。その笑いに男はばつが悪そうな顔で「晩飯は蕎麦だといいのにな」と笑いながらぼそりと言った。晩御飯は鍋だった。




子供達がまた子供達をつくり、私たちはおじいちゃんとおばあちゃんになる。


おじいちゃん、おばあちゃんになっても私達のすることは変わらない。

役割を全うするだけだ、2人にとってこうするべきを続けた。


息子たち嫁たちが私達夫婦をどう思ってるかなんて関係なかった、私達は役割を演じ続けることで夫であり妻であり、家族であった。


その男が単身赴任で別居していても別段寂しいとは思わなかった、母親の役割を果たさなければいけなかったからだ、私は寝る前にいつも暖かい気持ちになった。

今日も母親でいれた。

そう思うとよく眠れるのだ。


その内に寝たきりだった私の母が亡くなった、私は娘という役割が終わったことに寂しさは感じたが母がいなくなる悲しさには耐えられた。ここでさめざめと泣けば誰かに後ろ指を指されるかもしれない。


そして孫娘が死んだ夜、私達家族は深い悲しみに覆われる。

嫁の嫁らしからぬ嗚咽を含んだ号泣、孫達の戸惑い、親戚の心ない言葉。

私の中の何かにヒビのようなものを感じた、それは祖母という役割なんかではなく。

プライドなんて安い言葉でもなく、私の人生だった。


あの男も、息子も、葬式では一切涙を見せなかった。

そういうものだ、それこそが2人の役割だ、と胸を少し暖めていると親戚が歌を歌い出す、嫁が提案した歌だ。首も据わらずに死んでしまった孫に童謡を教えてあげたいらしい。


葬儀屋も困惑している、私も少し興醒めであの男を見た、すると目に涙を浮かべ大きな声で歌っていた。あの男の歌声なんて聞いたことなかった、ひどく音を外しながらも男は歌う。しかし一粒も涙は溢さなかった。


私のそこでの役割は泣くことであろう、涙が頬を伝う。


良かった、泣いてもいいんだ、私は弱くなったわけではない泣くことが役割なんだ。


それにしては涙がとまらない、男の歌声がする。私の役割がうたうことであったなら。



それからも月日はどんどん過ぎる。

戦い疲れた男は身体を壊しどんどん弱くなる、それに従って笑顔が多くなる、私には見せたことない顔で孫くらいの女の介護士にありがとうと言っている。


一度ちゃんと聞いてみたかった、あなたの役割は何ですか。と、男はなんというだろうそれを聞いた時私は、あの伊勢の夜のようにちゃんと笑えるだろうか。


今の私の役割は、あの男の最期を看取ることだ。その為には私が先に倒れるわけにはいかない、男は酒もタバコも止め、医者の言うことを素直に聞いている。

歩けなくなり耳も遠くなった男は、ベッドでせめて歌を歌いなさいと言われた。


私は笑いそうになる、医者はこの男の役割を知らないのだ、男はそんなことするはずがないのだ。


男は歌った、昔以上に音を外しあの日の童謡を歌う大きな声で。

男は生きながらえたいのだろうか、成長した孫はめったに顔を出さない、庭の飼い犬は懐かない。息子の建てた家の片隅で小さくなる身体で歌う男を見ていると、私には。


私にはその男を愛していたか分からない、そもそも人を愛したことがないから、これが愛なのかどうかも分からない。


ただ一つ言えることは食卓で言葉少なに「蕎麦」だの「酒」だの言われていた時の私は幸せだった。男が食後に必ず言う「あぁ美味しかった」を聞くと男に見られないように隠れて笑った。


その男も死んだ。危篤になってから1週間後しっかりと役割を果たした。


私には嫁という役割がなくなった、息子夫婦に迷惑かけないよう施設に入り、写経をしたりあの男の写真を眺めて過ごす。


役割ってなんだったのだろう、出来るだけ長患いせず静かに逝くことが役割だと思う。


あぁラーメンが食べたい、嫁に小言を言いたい、息子に叱られたい、孫の顔が見たい、あの男の手を握りたい。


いまではあの男が歌った意味がわかった気がする。

1日でも生きるために生きなさい。


昔の教え子に話した言葉が全てだったのかもしれない。


生きるために…


生きるために…


生きるために…


生きるために…


あの男の、声がする。


「道が混んでると間に合わなくなると行けないからな。早めに来たぞ」


「はい」


「息子たちに挨拶、しなくていいのか?」


「役割を果たすよりもしたいことがありまして」


男は後ろを向いたまま少し驚いた様子で振り向く。


「なんだ?」


「手を握ってもよろしいでしょうか。」


男は何でもなさそうに装いながらも言う


「そんなことか一本道だからはぐれないとは思うけどな。」


「夕飯は…」

私が言いかけると


「お前の食べたいものを食おう。」


私はびっくりして男の手を見つめ


「蕎麦だといいですね」

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