【庶民2】庶民が世界を動かしているんだよ
1557年9月中旬
摂津国堺
今井宗久
「なんですと? 日ノ本中で大胡札が無くなりつつあると?」
情報を取り扱う番頭がそう伝えてきました。
番頭さんの顔が青ざめています。原因は報告内容にでしょうか? それとも私が怖くてでしょうか?
私も落ち着かなくては。
「は・・はい。下関や品川の情報が伝わるのに4日以上かかります。気づいた時にはもう遅く」
大胡のような伝書鳩の準備は出来ませんでした。せめてもと鷹を使って邪魔をしましたがそれも途中からできなくなりました。何か別の方法で情報を伝えているようですね。
「京と堺ではどうなのです?」
「各宗門の邪魔立てにより、京にて鉄を捌くことが出来ず淀川を遡っての売り捌きはあまりできませんでした。堺では大胡札は出回っていません故……」
それで気づくのが遅れたと。
もっと多くの場所で鉄の暴落を起こせばよかった? いえいえ、それでは暴落にはなりません。少ない場所で大量に売るため暴落するのですから。
大胡札を増やすか、銭を減らすかしなければ。大胡札を増やす方法はありません。ですから市中に出回る銭を減らす。これしかない。
今回のことで、もう堺の売り物が殆ど売れなくなっています。庶民や商人は銭を退蔵しているのです。だから商売には大胡札が使われます。これは巡り巡ってあの小賢しい公界市とやらに吸収されていってしまう。どうやらあそこではまだ大胡札と銭を交換しているらしい。
こうなったらこちらでも銭を大胡札に替える反対売買をするしかない。
「大番頭さん。使える銭はあといくらくらいあります?」
「予定していた銭はもう使い切りました。あとは今後の運営資金だけです」
「その額は?」
焦りが声に出てしまいました。
大番頭さんの顔が引きつります。
「は、5万貫文と少しです」
それをつぎ込むか?
ここでそれを使ってしまっては失敗した時は、物価を上げるために買い占めた商品をあとで売って回収すればよい。あの『おぷしょん価格』さえ何とかなれば問題はない筈。
「あの男を呼びなさい」
連れてこられた男の目は死んでいた。アヘンでやられた目です。息も臭い。
「あれをくれ。……ください。お願いします。何でもします……」
ここまで中毒になるとは恐ろしい。でもこれがなければ『おぷしょん』の仕組みと為替相場との関連などが分からなかった。
「明日。取引が再開された時、どのくらいの利益が出ますか?」
「……わからない。もっと情報がないと。それとあれがないともう仕事は出来ない」
つかえない!
『おぷしょん取引』で大胡に多額の借金を作らせて破産させる事、それが出来るまで銭の力で押し切るか?
もうそれしか道は残されていない?
ここで私が引き下がったら大胡札の信用は回復してしまうかもしれません。銭が足りないのですから、大胡札を使わざるを得ないでしょう。
やるしかない!
残る銭で京にて大胡札を買い占める。それを公界市へ持って行き交換を迫る。
私はそう大番頭さんに指示を出した。京で大胡札を買い占める事を。
明日で間に合うか? 重い銭や銀を舟に積んで公界市まで運べるか?
最終日午後
市庁舎前
厩橋義衛門
「御山から220貫文強引に奪い取ってきた。これを足してあといくらくらい必要だ?」
先程、人力車で金策のために走り回っていた磐梯屋さんが正門へ到着しました。私はそれを待ちきれずここに立っています。
「今数えている所ですが、大胡札を銭に替えようと交換所に並んでいる人の総額は〆て2210貫文です。これさえ捌ければ、明日の『おぷしょん価格』は堺に大損をさせられるところまで行くでしょう。そこから大胡札の再出発が可能となります」
「そして東国経済圏が救われると。……悪いな、今まで黙っていたんだが、まだ磐梯屋の運転資金が残っているんだ。870貫文、これを使ってくれ」
そんなことをしたら、もう藤兵衛さんは生きていられなくなる!
やめてください、と言いましたが、
「いや。俺をここまでにしてくれたのは大胡の殿さまだ。その大胡が潰れて俺が生き残るなんざぁ俺には出来ねぇ。これを使って納屋の奴を破産させてやろうぜ」
……銭とは恐ろしいものですね。人を殺す。しかし生かすこともできる。こんな1枚の小さな平たいものがそんな力を持つ世。この力、悪意を持つ者に渡すわけにはいきません。
これは商人の戦です。その場では血は流れない。しかし多くの者を不幸のどん底に突き落とし、自死する者も多く出るでしょう。お侍さんの決戦と何も変わらない。
「わかりました。使わせていただきましょう。私の財産、少なくなってしまいましたが110貫文。これも使いましょう。これで残り1230貫文。あと1刻で集めねば!」
大声をあげて気合を入れる。でも交換所の正門へ入る気力も残されていない。門番の椅子を借りて座り、そこから市の賑わいを眺めていた。
今日を無事やり過ごせば道は開ける。
ですが……
この公界にはもう銭が残っていない。今日交換停止となれば明日からの大胡札の信用がガタ落ちで、おぷしょん価格が堺側に有利に跳ね上がる。ここぞとばかりにあの憎らしい宗久が注文を出すでしょう。それで仕舞。逆にここを凌いで明日を迎えれば納屋は莫大な損失を被る。
絶望感と共に日が暮れていく。
いえ、あることにはあります、銭が。
でもそれは両替座に預けられている公界市の人々からの大事な預かりもの。このようなものは使えません。もしそれを使ったとしてうまく行っても多分、大胡様はそれはもうお怒りになるでしょう。「それは泥棒だ!」と。
「市長さん。うちの売上金使ってください。両替座に11貫文あります」
市庁舎のすぐ隣で店を構えた団子屋の女将が声を掛けてきた。いつも休ませてもらっている店です。まだまだ借金の返済など出来ていない筈。その売り上げを使ったら……
「いいんですよ。どうせ私は2年前、川に身を投げる所を練習所の先生に声を掛けられ『どうせ死ぬんだったら借金してでもできることをしてから死になさい』と言われ、たった一人で店を開きました。
ここで借金を踏み倒して死罪になると誰かに迷惑が掛かると思いますが、それで救われる人がいるのならそれもよい事なんじゃないかなって。この公界市があれば沢山の人が助かりますから」
女将は照れたように明るい声で言う。だが目は座っている。本気だ。この人は本気で生きている! ならばこの好意、受け取るしかあるまい。
「ありがたい。少しでもこの公界市を長く続けましょう」
「あの、市長殿。某の俸給もお返しいたします。どうせ酒に使っちまう銭です。必要な銭に比べるとたったの800文ですがお使いください」
門番の男だ。大声でそう私に申し出てきた。
大声のやり取りを聞きつけたこの辺りに店を出している者たちが、次第に我も我もとばかりに集まってきた。
もう十分だ。十分に今日の分を交換できる銭が集まった。
でもそれを告げようにも感極まって声が出ない。
と、その時私の袖が引かれた。
振り返ってみるが誰もいない?
いえ、下に小さな顔が見えます。
いつも麦湯を運んでくれる花だ。
「市長様。これ使ってください。あたし、これしか持っていないの。母ちゃんが死ぬまで決して使っちゃいけないって腰帯に縫い付けてくれた。でもこれ上げる」
握られた手を開けるとそこには6枚の永楽銭。
「これ無くても三途の川、渡れるよね? 泳ぐのは得意だから」
小さな手のひらに載せられている6つの平たい金属をそっと自分の手に載せてから思いっきり握った。そして大きな力をくれた小さな身体をギュッと抱きしめた。
小さな英雄は私の泣き声に何が起きたのか分からないという表情を見せてからにっこりと笑った。
★カクヨムコン7に出した作品はここまで★
複数の読者様がお教えくださり納得がいきました。というか思い出したというか。信長の旗「永楽銭」。あれは銭を統一することで天下を支配するぞという意思の表れという解説を読んだ記憶があります。
ですから信長以前は銭が足りなく「物々交換的に米などを貨幣代わりにしていた」「年貢米の約束手形を信用して流通させていた」と。これを撤廃するのが天下人の証だったんですね。(ちなみにこの手形を空売りしたのが主人公ですが)
ですから大胡は「大胡札の普及」で天下を統一するつもりだったという事です。作者は永楽銭よりも大胡札の方が優れていると思っています。文字数の関係上作品には詳細を書きませんが「中央銀行作っちゃお~」という主人公のセリフが意味する所をお察しください。必要ならご質問ください。
今回その戦略が上手くいかなかったようです。次にどう行動するのでしょう、主人公は。
乞うご期待。
コンテスト向け、金融為替のまとめ
本来、硬貨そのものが価値を担保する必要性がある。
しかしそのせいでマネタリーベースどころか、マネーストックすら賄えずデフレになっていた戦国時代。
これに「鉄という絶対必要な消費財を大量生産する」ことによって『信用創造』をしようとした大胡。ですが、西国までその信用が行き渡らなかったわけです。
銭と鉄、それから銀と金の交換比率ですがとてもややこしいです。
金については甲斐武田で使われたこのもう少しあとの制度が江戸時代まで使われます
両=金4匁なし4匁2分=10貫文(1593年)というデータで計算するしかありません。
分=1両の4分の1
朱=1分の4分の1
朱中=1朱の2分の1
糸目=1朱中の2分の1
小糸目=1糸目の2分の1
小糸目中=1小糸目の2分の1
1貫がほぼ1匁だから金4貫半が銀100貫。
金銀の交換比率は約20:1。
銀が安い。だから明や南蛮が持って行くわけだ。
でですね、なぜか銀10貫が1貫文なんですよ!
鉄は1貫文で5貫しか買えません。
鉄って銀の倍するんじゃね?
これ国立歴史民俗博物館のデータベースなんですよ。マジ物のデータ。
大胡が鉄の大量生産するから半値以上値下がりするとしても需要がその分で出れば『銀作っている』ようなもんです!
今更気づいた、重大事実。俄然この物語の金融的信ぴょう性が出てきた。塩より兌換価値あるじゃん。
(元朝で発行された世界初の紙幣は塩で裏打ちされていた)
大胡の高炉の数は考えていないのですが、最低でも年間2000トン=50万貫位は作っていると思うので年間25万貫文の生産高。25~50万貫も銀生産している計算に!
まさに錬銀術師の国、大胡!
『鉄の錬銀術師!』(脆そうだな、オイ)
あ、首取るからちょうど弟みたいでいいかも。今度西洋鎧作ろっと。
説明があまり長くなると冗漫になるのでコンテスト向きではないと判断し説明を削っております。
この当時、不換紙幣が登場しておりました。伊勢神宮に置いてその信仰を担保としたものです。1600年には出回っていたのが確認されています。
このことから示される通り日本人の神々に対する畏敬の念は大きなものです。また大胡の技術力は紙幣の紙の質ばかりでなく(紙もこの当時高いです)、印刷技術もあります。活版印刷術を持っているのは大胡だけです。楷書を使うのも大胡だけ。
世界初の兌換紙幣は元朝が発行した「統鈔」というものです。
この説明は省きます(WIKIなどを見てください)が、明でも発行されてインフレを起こします。ですがインフレとは決して悪いものではありません。デフレが怖いのです。インフレは生産力の増加を伴うものであればよいのです。そのために大胡は鉄という「生産力が増えれば必要性が増す」ものを兌換できるとしたのです。
現代で言うところのマネタリーベースの調節を出来るようになっているわけです。ほぼ中央銀行の役目と権力を握ろうとしているのですね。
これ握られたらもう誰も手出しできません。あの「最後の首」以外は。
なのでストーリー上、ここで完勝するわけにはいかないのです……