【庶民1】庶民だって生きるのに必死
1557年9月中旬
武蔵国河越五日市
六兵衛(江戸周辺に住む農民)
「おいっ! 押すんじゃねえ! 俺の方が先に着いただろうが! 後ろに並びな!」
鉄を引き取る商人と取引をしている最中、周りからどんどん人が寄ってくる。
江戸城下で売られていた安い鉄を、10里北の河越まで持ってくるのに2日かかった。うちのなけなしの財産である痩せ牛に山のように鉄材を載せて運んできた。
もう20日もすれば稲の刈り入れだ。それまでにこの機会を逃したくねぇ。なにせ江戸で安値で売っている鉄を大胡領で売れば2倍で引き取ってくれる。この痩せ牛に載せるだけ積めば30貫は載せられる。1往復で15円だ。いくら大胡札の人気が落ちているとはいえ、大胡領へ行けばなにがしかの銭になる。
先日までは品川で売れたけれど、もうあちらでは鉄は安くなってしまった。今度はこちらの市で売れるだろう。
西国から来たという商人が言うには、まだまだ間に合うという。
どれだけ往復できるかどうかは知らんが、アシがでないように気を付けて売りまくってやる。
「〆て3貫文(注1)だな、おっさん。江戸からかい? 遠いな。それなら早い方がいいぜ。どんどん鉄は値下がりしている。あと2日もすれば半値以下かな?」
鉄を扱っている商人が鉄の値段を教えてきた。3貫文か。2貫文で買って3貫文の実入り。俺らのような百姓には目の玉が飛び出る位の大金だ。これを積んで江戸まで帰る。あと1往復できるか? 実入りがあるのは、それとも危険か? 2日で帰ってくるのは難しいな。
残念だ。だが既に10貫文近く稼いだ。牛があったお蔭だ。大胡ではこれを資本というそうだ。この資本がある奴が儲かる。今のうちに稼いでおこう。そして牛をもう1頭飼おう。次の機会を逃さぬように。
だが待てよ?
この牛。まだ15貫くらいは荷を載せられるな。江戸までの道中、空荷じゃもったいねぇ。この銭を何か安いものに替えて持って行くか。
俺は安くて江戸で売れそうなものを探し始めた。
京公界市
厩橋義衛門
麦湯を持ってきてくれた花の頭をなでながらありがとうとお礼を言った。知らぬ間に汗をかいたのか喉が渇いていた。麦湯がこんなに美味しいとは。
あと2日、いや1日半か。それまでに大胡札の交換比率を銭の8割程度まで持って行かないと『おぷしょん取引』で大胡より数万貫文の銭があの納屋に支払われる。その銭はまた大胡札の信用を無くさせるために使われるだろう。
既にこれまでの間に大胡領の市や商人が、多くの鉄を大胡が放出した銭で買い取った。もうこれ以上は堺の攻勢に耐えることは出来ないであろう。
もう望みは、実際の物価が各地で高くなり、それによって銭の価値が落ちることだけしかない。
「し、市長! お聞きください!」
為替取引所の所長である友野屋さんが市長室へ飛び込んできた。顔は喜びと希望に満ちている。
「各地で物価の上昇が始まりました。銭が大胡領以外へ流出しています。それで京だけでなく品川や河越、勝幡も含めて各地の大胡領から銭が無くなり大胡札の回収が進み、大胡札の値が戻りつつあります!」
そうか!
堺が放出した安価な鉄。その場では商品価値がないから行商人や庶民は鉄を売りに大胡領へいって売りさばく。その者たちが帰りに大胡で買い物をする。その際には大胡領以外で使用できるようにと銭としても持ち帰る。だから大胡領の銭が無くなる。大胡札は大胡領でしか使えないから余るので行商人が持ち込んだ大胡札を組合で回収している。
それに対して堺は大胡札を出回らせながら鉄を売ることが出来なくなっているのだ。市中に出回る大胡札を増やさねば、堺はこの戦に負けるのだからそれは出来ない。既に大胡領では採算に合う商品がないので行商をする者がいなくなった。日ノ本の市中から大胡札が減ってきた。
刷りすぎて回収の見込みのつかなかった大胡領以外の大胡札が自然と戻ってきている。
大胡領だけならば銭が高騰しているが、それも大胡札の量を調節して何とかなる。絶対的な交易量を誇る京や堺では大胡札が余っている。これは何処に行くか。銭に替えられる場所に集まる。すなわち大胡領の市だ。畿内ではここ公界市のみ。
つまり銭と大胡札双方とも同じくらいに値崩れを起こしているが大胡札は回収することで量を自由に調節できる。しかも鉄は大胡で吸収した。大胡札の信用は回復しつつある!
例)
品川(大胡領) 江戸(堺勢力)
★堺が起こした流れ。
銭>>>>>
鉄<<<<<
鉄の大量放出で大胡札を安くする>鉄の在庫を大胡で吸収させる>大胡で大胡札を増やさせる。
銭は大胡から流出=銭が大胡を中心に高くなる=物価を直撃。各地の物価で=大胡札の信用がなくなる
★庶民が起こした流れ。
札<<<<<
商品>>>>>
徐々に起こる現象
大胡札が大胡へ戻ってくる(大胡札は信用置けないからいらない)=市で大胡札が戻ってきて商人組合が回収=銭と大胡札との交換比率が戻ってくる。
これは……
あと少しだ。
あと少し押すことで大胡札の交換比率が逆転する。それを堺がまだ気づいていなければ方策はまだ残されている。
大胡札の回収だ。日ノ本中の大胡札を出来る限り多く回収する。それが出来るのはもう京か堺しかない。銭との交換だから大量の銭がいる。和田ならまだ余裕がある筈。
……しかし!
もう時間がない。あと1日半で、畿内まで持ってくるなどできない! 絶望的だ。
和田の先物市場でも各地の商品の値上がりに気づいている筈。それに沿って大胡札の回収をせめて坂東だけでも始めてくれればこの戦、勝てる!
こちらでは公界市と京の市場との間で出来る限りのことはしよう。河船で堺までなら1日かからずに行ける。明日の夕方には着けよう。堺でも大胡札の回収だ。
これから出来る限りの銭を使って京で回収をする!
1貫文、いや1文でもよい。かき集めて交換比率を堺に不利にして失敗を挽回せねば!
翌日朝
市長室
厩橋義衛門
「市長! あと6万貫文。最低でもそれだけあれば確実に銭と大胡札との交換比率が逆転します。そうなれば堺の連中が賭けた方の逆に相場が動きます。既に鉄の在庫は向こうにはない筈。大胡札の価値を安くする方法はもうあちらにはない!」
そうだ。
物価を高くする方法は銭を少なくするか、商品を増やすしかない。だがここまでに堺は大量に銭を放出した。商品はそう易々と増やすことは出来ない。そう簡単には売れないのだ。それに対して一般庶民、他の土倉や商人は銭の価値があまりにも変動するので退蔵し始めた。市場に出回る銭が少なくなったのだ。物価は高止まりする。直ぐには安くならない。
やるとすれば銭を大量に放出するだけだ。
そして価値の低くなった大胡札の流通が多くなった。一気に回収できる!
もうこれ以上の銭は出せない筈。これ以上やったら取り返しがつかない程の賭けになる。それを納屋以外がするか? しないだろう。
あと一押しだ。
あと6万貫文!
何処から捻出する?
……しかし。もう当てがない。
正午
市長室
厩橋義衛門
「市長! 内裏、左大弁様より急使です」
飛び込んできた副所長から奉書を受け取る。為替取引所の所長もついて来た。
悪い知らせか? 手が汗ばみ、紙が濡れる。震える手で中の文を読む。
『賢くも先帝はご遺志を大胡左中弁に申し渡された。献金として預かっていた銭を使い民の安寧を図ること。これは朕の遺志也と。献金の残り5万6千貫文を返却する』
おお……おお……。
後奈良帝。最後まで清貧を通された。
ご自分で使われるのは忍びないが、大胡の好意を無下には出来ぬ。故に『預かった』と。総額6万貫文以上の銭を大胡様は献上されたというが殆ど使われていない。
「賢くも先帝のご遺志である。5万6千貫文を使える! あと4千貫文。あとそれだけあれば確実に相場は動く! まず5万6千貫文を京の市場に流せ! 大胡札を回収だ。それと同時に4千貫文を捻出しろ!」
4千貫文。
今までと桁が2桁違うので少なく感じる。が、4000貫文だぞ? 8千人が1年間食える銭だ(注2)
これをあと半日でどうせよというんだ?
今のままでは下手をすると堺に押し切られよう。少なくとも明日の『おぷしょん取引』で納屋は逃げ切る。そしてまた戦を仕掛けてくるに違いない。
なんとかしなくては。
なんとかしなくては!!
注1)大胡札1円で鉄1貫。鉄1貫が大体200文程度で換算しています。銭の1/5と仮定しています。 1貫文=5大胡円=鉄5貫(20kg)
想定資料(国立歴史民俗博物館データベース)
https://www.rekihaku.ac.jp/up-cgi/getconditionrd.pl
(これは玉鋼の値段かと思われ、もっと本来は安い筈ですが気にせんで下せえ)
注2)今で言うなら150億くらいのイメージ?
なんか何万貫文とか言っていたら4000貫文が安く感じていた。
こう考えると信虎動かすのに北条が3000貫文支払ったのはちょうどよい値段?