【暴落1】罠にはまったよ
1557年9月中旬
山城国東山公界市
友野二郎兵衛(京の通貨安定供給所所長になっちゃった人)
9月1日から『れえと』改め、通貨の為替取引が始まりました。
最初はびくびくものでしたが、まだ想定よりも少ない取引なので対応に困ることはありません。
現在は毎日巳の刻の鐘が鳴る時を合図に、取引所の門を開けて正午までの1刻半の取引です。慣れてくれば午後にも2刻程度増やす予定です。
毎日の取引価格は各地の225種類の商品の価格と取引量によって変わります。つまり安く取引された品が多くあれば、相対的に銭の価値が高くなります。そうなると大胡札の価値は鉄の値段ですから鉄の価格が変動しない限り、銭よりも大胡札の価値が低くなります。
それをこの交換所にて『現在、大胡札は銭とこの比率で交換されていますよ』と表示することにより、より安全に且つ簡単に商取引が出来ます。これは交換比率はおぷしょん価格も加味した複雑な計算を元に決めています。
これはまだ京の商取引にしか通用しません。なぜならたとえば大胡で今商取引したとしても、その為替情報は少なくとも1日前のものになるからです。
最速の通信手段は、最高機密です。
一つは伝書鳩。
二つ目は山間に住む者たち頼みです。特に河原者が多いのですが、その人たちに情報を記した文の付いた矢を弩弓にて順繰りに射てもらい、毎日京まで届けてもらっています。
大型弩弓の消耗が激しいので弓の屈曲部を補充するのが大変だという難点があるので、出来る限り伝書鳩を使用します。ですが伝書鳩は途中で鷹などに襲われることが多く、当てにならないことが多いのです。伝書鳩も片道しか役に立たないためその輸送が大変です。
敵対勢力の目を掻い潜っての通信。
早く天下を一つにしないと効率が悪すぎるのです。
現在、多く情報が集まるのは博多、下関と堺、それから勝幡、品川・河越。この6つの市場での取引を元に、和田の先物取引所に集まった情報と照らし合わせて為替相場を決めていきます。
私も少しだけこの理論が分かってきましたが、あまりにも複雑な計算をしての為替相場の算出。そのほとんどを元東班衆の2人に任せきりとなっている。もっとここに人数を当てないといけないとの危惧もあるけれど何分人手が足りません。大胡とその領国は兎に角人手不足。つまり経済発展が凄まじいという事ですね。悪いことではありません。
開所したばかりでしたが昨日まで5日間、帝の崩御に伴い喪に服し為替取引は中止されていました。この5日間で大きな動きが無ければよいのですが……
「しょ、所長! 大変です! 開門前から正門前に人の波が押し寄せて来て門が押し破られましたっ!」
「何が起きたのです??」
血相を変えて所長室へ飛び込んできた取引場主任に聞く。
「そ、それが……堺にて琉球から大船団が到着したため唐国産の大量の商品が売りに出され、安い鉄を買い求める者が多くなり銭が不足、銭の値段が高くなりました。皆、銭の高いうちに大胡札を欲しがっております。大胡札の在庫が足りなくなります!」
大胡札が大量に出回ることは願ったりかなったりです。しかしこのままですと交換停止となり開所早々信用が落ちてしまいます。
でも仕方ありません。取り付け騒ぎ対策はしてありますがその逆の対策はしてありません。精々『さあきっとぶれいかあ』(注1)を発動する程度です。交換比率に2割以上変化があった場合、交換停止をする。取引所の利用約款に書かれている事です。
「では利用約款の抜き書きを高札で門前に掲げておいてください。それから大胡から至急大胡札の搬入願いを。予備として保管してあった印刷器を使います。新たにハンコを使用する旨、内裏の左大弁様(注2)にお伝えして許可を頂きましょう」
処理は早い方が良い。
この為替取引というモノは心休まる時がないのかもしれませんね。
同日同刻
摂津国堺納屋
今井宗久(なんだか魑魅魍魎になっている人)
「そうですか。半刻と持たず、大胡札はなくなりましたか」
京に在番する番頭の報告を大番頭と共に聞く。まだまだ数倍の交換希望者がいるとの事。
「では、第二段階の準備をしましょう。三左衛門さん、鉄と銭はどのくらい手持ちがございますか?」
大番頭の三左衛門に最終確認する。もう何度も確認しているが聞くたびに大胡の吠え面が目に浮かぶため聞くことをやめることが出来ない。
「はい大旦那様。納屋だけでも現在の交換比率、大胡札1円に付き鉄1匁で計算すると大胡札で12万円、鉄が12000匁(約48t)。銭の方は永楽銭が90000貫文が使えますが……これを全部使うおつもりですか?
失敗すると納屋が潰れます」
大番頭が不安そうに私の顔色を伺う。
「大丈夫ですよ。失敗しても全部回収不能になるわけではありません。それにこの堺の半数の会合衆の方々が参加してくださるこの大相場。総額40万貫文を大胡と東国商人だけで吸収できると思いますか?」
これから始まること。
鉄を中心として大量の商品を放出する事により、西国への大胡札を急激に普及させる。ついでに鉄の買い占めをするとどうなるでしょう? 益々大胡札は高騰します。大胡札の増刷を誘うわけです。
その後その鉄を日ノ本各地の西国商人の店にて安価にて売り出します。武田や里見にも協力してもらいます。西国商人から買った安い鉄を大胡へ持って行き、それを売るだけで簡単に利益を得られますから。
それと同時に大胡札の信用を無くすような流言飛語を流す。庶民は挙って我々の思い通りの右往左往をするでしょう。
どうやら大胡の取引所は大胡と京の間は2日、下関からですと3日間で情報を伝えられるようです。鳩を使っているとの情報もあります。ですからその間に大量の大胡札の交換を繰り返します。
私共だけではない。多くの民衆がそれに追随するでしょう。私共はあらかじめ計画されたように各地の相場を作り出しますので、その次の日、もしくは2日目に大暴騰・大暴落が起きるのが分かっています。それに合わせて取引をするのみ。
もし為替交換所が長期に閉鎖されればそれだけで大胡札の信用はガタ落ち。それどころかもう二度と使われなくなるでしょう。そうすれば東国商人は致命的な打撃を受けて没落。それを基盤とした大胡は収入の基盤を無くし、軍備も崩壊。武田や里見に抗しえなくなる。
はははは。
これで東国まで堺の勢力圏が広がります。
日ノ本の裏からの支配。
これが私の手で行えるとは。なんたる愉悦!
大胡の犬にかまれて動かなくなったこの手で大胡を倒す。
夢にまで見た事、今現実になる日が来ました。
見ていろ!
政賢!
1557年9月中旬
山城国東山公界市
友野二郎兵衛(最近デスマーチになっている公界通貨安定供給取引所所長)
夜半。やっと仕事が終わりました。久しぶりに家に帰って眠れます。
5日前に始まった大胡札増刷は間に合いました。公界市と内裏の御蔵にある銭と金の分を足したものを裏打ちとして、とり敢えず5万貫文分の発行をしました。紙や墨を大量に集めることが出来たのは京の都であったがため。とても上野ではできませんでしたね。
一時的に2倍にまで跳ね上がった大胡札の価値は現在再び1対1まで戻りました。
和田の取引所と殿の御裁可を受けようと、鳩を飛ばしましたが一向に返事がきませんでした。緊急措置として弩弓の繋ぎによる早便を出しました。それが2日前。そろそろ返事が来るかと。
取り敢えず、仕事はひと段落。明日の相場が計算できるまで少し休みますか。
「しょ、所長。大変です! 先ほど交換比率が出ましたが……明日の交換比率、本日の3割増! 大胡札が下落、いや暴落していますっ!」
なんですと!?
5日前には鉄の値段が安くなって買い求める者が多くなりました。大胡札でずっと持っているわけではないので大胡札での取引を望んだものが多かったから短期的に得をする大胡札を欲しがった。
でも今度は違う。
「何が原因です?」
「はい。各地で安くなっていた鉄が急激に値上がり。そのほかの商品も値が上がっていましたが、銭よりも鉄と交換できる大胡札の価値が高まっていました。しかしここへ来て急に鉄の相場が急落との事」
それだけでしょうか?
鉄がなぜそんなに急激な値段の上下をするのか? 各地で鉄の価格操作をしている者がいる?
だったら目的は?
そうか!
「ここの所5日間の取引帳簿を見せてください、直ぐに!」
真っ青な顔をした取引主任の手から奪い取るように帳簿を手にしめくっていく。
やはり西国商人の、特に堺に関係する者たちが大胡札を「鉄と交換」している。今や鉄の在庫は半分を切っている。
やられた。
忙しさに紛れて鉄がどこへ流れているか見なかった。大体「鉄が安くなっている」のに何故鉄と同じ値段の筈の大胡札を求める者が多くなったのだ?
調べねば分からないだろうけれど、堺が流言を流したに違いない。「今、大胡札を銭に変えれば2倍の銭に替えられる」と。取引に慣れていない庶民はこれに引っかかり一時的な、目の前の相場だけを見て動いてしまった。
私が浅はかだった。大胡札が広まればよいとの頭が大きく意識を支配していた。
「殿からの至急便です」
『大胡札、鉄の在庫以上の増刷はだめだよ』
顔から血の気が引く音が聞こえる。
既に手持ちの鉄以上の大胡札を出したばかりか、ここへきて8割増しの鉄交換をしないといけなくなってしまった。
しかし、もうそれでは鉄の在庫がギリギリになってしまいます。
「和田の取引所から急便です。江戸付近にて安値で仕入れた鉄が河越の市と品川に大量に持ち込まれて、鉄の価格が引き続き暴落。大胡札の信用がなくなりつつあります! さらに甲府で買われた鉄も駿府に持ち込まれている模様。同じことがそこかしこで」
このままだと一番恐れていた取り付け騒ぎによる取引停止。大胡札の兌換不履行。大胡ばかりか東国経済圏そのものが破綻してしまいます。
各地でこんなにも一斉に大胡札の信用が崩壊する? 普通に考えたら大胡札は鉄の安定供給分の価値が担保されている。しかし堺の奴らが唐国から大量に鉄を仕入れて来て、更に流言にて大胡の鉄の在庫を減らさせた。
機を見計らって吸収した分も含めて大量の鉄を一挙に放出。価格を暴落させた。それをまた流言で「大胡札を持っていると価値がなくなる。ほらもうこんなに鉄の値段が安く」と煽ったに違いない。
「しょ、所長。大変です! また正門前にすごい人だかりが!!」
まだ日が昇って間もないのに早くも人の列?
まだ交換比率を発表していないのに?
「おい! 早く開けろ! 大胡札を鉄に替えてくれ。すぐにだ!」
「このままじゃ、大胡札。使えなくなるんじゃないの?」
「もう坂東じゃ、鉄が半値だそうじゃないか!」
どう考えてもおかしい。
伝書鳩で3日かかる品川や和田の情報よりも早く京の庶民が反応している。
つまり……
やはり事前に計画に沿って各地で鉄の売買をして、その計画通りに流言を流している! こちらはそれに遅れて価格を決めている。だから一斉に京の庶民が動いた。しかもそれで大胡札の暴落前に堺の連中は大胡札を売り抜けている。
ここは『さあきっとぶれいかあ』発動で下落を2割に抑え交換停止に……
「殿から続報。交換停止はダメ絶対! なんとしてでも銭集めて。これは戦争だよ」
取り敢えず蔵から鉄の在庫すべてを交換窓口のすぐ後ろへ並べる。その後に銭の入った甕。さらには金銀。
兎に角、安心させねば「今交換しなくても必ずあとで高くなって損をしない」と。
しかし足りるであろうか?
公界の交換所には現在の比率で銭に換算して、鉄と金銀合わせて5万貫文程度しかない。銭は5万貫文。内裏の置かせていただいている銭と金が11万貫文と少々。合わせて21万貫文。
西国に出回っている、普通なら銭にして10万貫文の大胡札が「もし」全部全ての大胡領にて交換を申しだされたならば、あと3割程度銭が値上がりするだけでも鉄では交換不能となる。
鉄の交換は諦めよう。
無くなった分は銭と金銀で交換だ。その交換比率も決めねば。
……そういえば、忘れていた。
「おぷしょん取引」価格はどうなっているのだ?
まだ始まったばかりだけれど、この相場で乱高下しているのだろうか。
「おぷしょん部門の2人を連れて来ていください」
気が焦る。
こちらが取引室へ駆け込む。
「おぷしょん相場はどうなっていますか?」
そこには朦朧としながら算盤をはじく1人の職員。
「もう一人はどうしているのです? こんな大事な時に!」
「……あいつ。ここ2日ばかり顔を出さないのです。お蔭で計算が間に合わず」
そういえばあの者、最近、表情の冴えない様子でした。生気がない。やけに変なにおいのする息を吐いていた。
取り込まれたか? 堺に。
「それで、オプション価格はどうなります?」
「多分、今日は大胡札を売る権利が大暴騰しますね。多分数倍かと」
「総額幾らです!?」
「清算価格は現在の所10万貫文程度かと。まだまだ増えそうです」
「すぐに新規建玉と清算は中止です。その手配を!」
これもきっと殆どが堺の建玉でしょう。10万貫文という事は10倍の建玉が出来ますから、1万貫文くらいは使っていますね。逆の建玉は殆どが本願寺以外の宗派と三好様か。
なんとかしなくては。
なんとかしなくては!
注1:「サーキットブレーカー」
株式などで取り決めの変動以上になると取引が止まるシステム。「ストップ高」などという言葉と同じです
https://www.jpx.co.jp/derivatives/rules/price-limit-cb/index.html
現代は勿論為替には通用しません。
でも大胡は試行中で自信がないから使っています。
注2:太政官の中でも財務担当に相当する最高職。財務大臣? ちなみに主人公は副大臣です。