最終話
「ありがとうね、あやちゃん。うち、来てくれて」
落ち着いた頃。綾香はぐずりながらも、洋子に連れられて家にやってきた。綾香が最後に来た時と何一つ変わらない。ただ、雰囲気だけは少しひんやりとしたのかもしれない。
「……征吾も喜んどる」
洋子の目が、ふすまが開かれたままで見通しの良い和室の奥に流れる。
まだ綺麗に光っている仏壇。そこの真ん中に、楽しげに笑っている征吾の写真が置かれていた。
――征吾が展望台から落ちて亡くなったと。綾香たちがその連絡を受けたのは、今から三ヶ月前のことである。
当然すぐに故郷に帰るようにと正美が段取りをしていたのだが、綾香だけが帰省を拒否した。学校にも行かず、塞ぎ込んでいる綾香を一人にしておくことが不安だった正美たちは、それでも綾香が頑なに「絶対に行かない」と動かなかったために、すぐに東京に戻れるように予定を調整して、短い期間で帰省を決めた。
だから、綾香だけだった。
綾香だけが、手を合わせられなかった。
「征吾ね、ずっとあやちゃんのこと待っとったんよ。やけぇ今、嬉しいと思うわ」
仏壇の前で写真を見つめている綾香の背中は、どこか弱々しい。征吾と綾香は仲が良かった。その辛さも、洋子には分かる。
「……せいちゃん、なんで展望台に行ったの?」
「……正直に言うとね」
余程気を遣っているのか、洋子が一度言葉を切る。しかし真実を知りたかった綾香は、頷くことで先をうながした。
「何回もね、行きよったんよ。何回も、何回も。東京が見えるかなって、七歳の頃からずっと通いよった」
綾香は、十年間帰らなかった。見たこともない街と、人の数。目まぐるしく訪れた「変化」が何もかもキラキラと輝いていて、田舎が「ダサい」と思えていたからだ。
山の上には何もない。コンビニも、クレープ屋さんも、映画館もカラオケもない。だけど都会は違う。そんな都会に居ると、自分が何か特別なものにでもなったような錯覚に陥った。
しだいに、人を見下した。馬鹿にして、いじめていた。特別なことなんかない。なのに綾香は、そんな人間になってしまった。
征吾はどれほど、綾香を待っただろう。どれほどの絶望と期待を胸に、展望台に通っていたのだろう。
小さな背中が、展望台から広い景色を見つめる。その背中がだんだんと大きくなるのを想像して、綾香の目頭は再び熱くなる。
「……正美が帰ってくるたんびにね、征吾は『あやちゃんは』って聞きよった。征吾は本当に、あやちゃんのことが大好きやったんよ」
行事ごとに戻ってきたのは、正美だけだった。たまに父もついてきたが、綾香がくることはない。
「高校生になってからは、あやちゃんは元気なん? って聞きよってね。正美が元気にやりよるよって言うと、嬉しそうに、幸せそうにしとったんよ」
――あやちゃん。やめてや。
背後から聞こえた声に、綾香は手すりを乗り越えようとしていたのをやめた。最後に聞いたものよりもうんと低い声だ。反射的に振り返っても、当然ながら誰も居ない。それでもそれが征吾であったのだと、綾香はなんとなく察した。
綾香は本気で死のうと思っていた。いじめで不登校になってからしばらく、ただでさえ死にたいと思っていた中での訃報に、たえられるわけがなかった。
それでも、征吾に引き止められては動き出せるわけもない。綾香はただ泣き崩れて、繰り返し、声が枯れるまで征吾の名前を呼んでいた。
「あとね、これ」
一度その場を離れた洋子が、手に缶を持って戻ってくる。見覚えがある。それは、征吾と掘り返したタイムカプセルである。
「征吾の部屋を掃除しとったら、机の上にあったんよ。今までは絶対になかったはずなんやけど……あやちゃんが帰ってきたけぇ、もしかしたらあやちゃんにって、征吾からの贈り物なんかもしれん」
「……うん。ありがとうおばさん。それ、せいちゃんがくれるって言いよった。私が家に来たらあげるって、約束してくれたやつなんよ」
「……約束?」
「うん。……信じられん話かも知らんけど、私、ずっとせいちゃんとおった」
和室を離れて、洋子の元に歩み寄る。一度仏壇を振り返れば、やはり征吾は笑っていた。綾香が知らない、十七歳の生身の征吾だ。
「そうなん。それで毎日お出かけしよったんやね。みんな不思議に思とったんよ、あやちゃんが一人で裏山入って行くんも見たことあったけぇ。……そうなんやね、征吾、ずっとおったんや」
綾香が頷くと、洋子はますます嬉しそうに笑う。そうして「あの子らしいわぁ」といつもと変わらないおっとりとした笑顔を浮かべて、目元にハンカチを押し当てた。
「……おばさん。私、東京に戻ろうと思っとる」
「……でも、それは……」
「私ね、謝らないかん人がいっぱいおるんよ。やけぇ、戻らんといかん。あとな、もう秘密もなしにして、ここで育ったことを胸張って東京で伝えたいんよ。そしたら今度は友達連れて帰ってくるけぇ」
来たときとはまったく違う、明るい表情だった。それは、七歳の時にはよく見ていた綾香の晴れやかな笑顔である。
洋子はもう何も言わなかった。綾香の言葉に何も言わずに頷いて、再び目元をハンカチで拭う。
綾香はこれから正美に連絡をとる。そして心を決めて東京に戻り、まずは「あの子」に謝るのだ。次にメッセージをくれた友人にも会いに行って、停学を終えたら学校にも通う。非難の目がまとうだろう。それでも綾香は逃げてはいけない。
それに、そんな綾香を征吾が笑顔で見守ってくれているのだろうと思えば、怖いなんてことも思わなかった。
「せいちゃん。頑張るけぇ」
仏壇を振り返る。そこではやはり、征吾が活発な笑顔を見せていた。
一枚窓を隔てた先で、夏が騒ぐ。蝉の声、眩しい日差し、そして、揺らいで見えるあの日の残像。夏が教える。当時とはもう違う、征吾が居ない田舎を、征吾が居ない現実を、何度も何度もつきつける。
最初は鬱陶しかったそれも、受け入れてしまえばただの「音」に戻ったようだった。
新しい夏が始まる。ほんの少しだけ、じくりと胸に切なさが滲んだ。
『あやちゃんへ。
とうきょうにいっても、おれはぜったいわすれんけ、いってらっしゃい! どこにおっても、おれはあやちゃんがだいすきです。あやちゃんがどんなひとになっとっても、どんなことになっても、おれがぜったいまもるけえね。だから、おとなになったら、おれとけっこんしてください。もしも、もうけっこんしとるんなら、ずっとずっとだいすきです。いってらっしゃい。ぜったい、またね。 せいご』
読了ありがとうございました。
昨年の夏に書いていた作品を、季節が来たので公開しました。
季節を題材に書くと、投稿時期を逃してしまうと投稿できないのが難点ですね…。
いえ別に冬に夏題材の作品を出すのも良いのですが、なんとなく自分は夏には夏のお話を出したくて。
今作も「いったいどの層にどういう気持ちで読んでもらいたいの?」な作品となってはおりますが、私の作品を読んでくださる数少ない読者様には慣れっこなものと思いますので、何卒ご容赦くださいませ。
好きなものを好きに書くとなれば、恋愛以外ではこのようになってしまいます…。本当に需要がない…。
それでは、数ある作品の中からお読みくださりありがとうございました。
まだまだ暑い日々が続いてはおりますが、熱中症など、お体には充分にお気をつけてお過ごしください。